第28話 フレイ

文字数 3,198文字

 今さら降ってきたこの事態を、どう受け止めて良いか分からなかった。
 急に怖くなってきた。まだ期待しちゃいけないと思う。期待して裏切られた時の苦しみと言ったらないもの。私にはこれ以上、力は残ってない。これ以上傷ついたら、もう立ち上がれない。

 ヘンドリックと握り合った自分の手が、小刻みに震えて止まらなかった。
 もう絶望はしたくない。もしこれが嘘なら早くそう言って欲しくて、私は馬鹿みたいに聞き返した。
「……本気で言いようと……?」

 するとヘンドリックは何を言い出すかとばかりに、小刻みにうなずいた。
「もちろん本気や。冗談でこがんこと言わん」
 触れ合った手を通して、私は感じてる。ヘンドリックもかすかな不安を抱えてるの。彼はほかならぬ、私の拒絶を恐れてる。

 いいじゃないの。
 ふと、そう思った。
 冷静に考えれば明らかだった。この機会を逃さず、受けなきゃならない。
 
 そうよ、気取ってる場合じゃないわ。私はもはや崖っぷち。どんな相手にだってすがるつもりでいたじゃないの。
 最後の最後に、地獄の淵に手を差し伸べてくれる人がいたってことよ。それがまさかオランダ人だとは思わなかったけれど、ここは素直に受け、相手に感謝の念を示すべきよね。

 私は自分の出した結論に納得したわ。だから手を重ね直し、さも感動したかのように頭をぐっと下げて見せた。
「……ありがとお、ありがとお、ヘンドリック」
 もちろん感謝してるのは本当のこと。まだ実感が湧かないだけよ。

 ヘンドリックはほっとしたように笑い、ようやく手を放してくれたわ。
 でも彼は重い役職に就いてるだけあって、さすがに現実的。すぐに表情を引き締めて、核心を突いてきたわ。
「オリオノ。借金、いくら、残っと?」
 
 そこは一番触れて欲しくないところだった。
 何しろまだ百両近くも残ってるの。恥ずかしくて、こんなこと誰にも言えないわよ。

 だけどそうよね。ここは正直に伝えなくちゃならない。今度は私が話しにくいことを話す番だった。
 私は観念して、絞り出すように声を発した。
「あんね……うち……最初は自分がいくらで売られたんか、よう分かっとらんで……」

 もちろん私だって、土井家が手にした額は後で耳にしたわ。それは私自身が何が何でも働いて返さねばならない金額だったから。
 これでも八年のご奉公でほぼ三分の一にまで減らしたのよ。だけど、最初の頃は土井家に仕送りもしてたしね、やっぱり厳しいわよ。改めて私、さんざん搾り取られてきたんだなあって思う。

 それに、実を言うと、この一年はむしろ少し増やしてしまったの。私、苦しい時にはついついお酒に頼ってしまったから。
 自分でもひどいものだと思う。更生を諦めたというわけじゃないんだけど、もはや冷静にものを考えられなくなってたから。
 つまり働いてる割にはろくに借金が減ってない。それが否定のしようのない事実だったのよ。

 私の説明はおどおどしてて、支離滅裂だったと思う。だけど机の前に足を組んだヘンドリックは小さくうなずきながら怒らずに聞いてくれた。そして要点のみ紙に書き出していったわ。

 彼の新しい一面を見たような気がした。こういう時に、彼はどっしりと構えていられる人なんだなあって。
 ヘンドリックはその金額を、今度は自分たちの使う通貨に計算し直してる。私の方はまったくの役立たずで、そんな彼の様子をぼんやりと見つめるだけだったわ。
 ただ、ヘンドリックの横顔はとても強くて頼りがいがあるように見えた。日本のしたたかな商人とぶつかるとき、この人はこういう顔をしてるんだなあ、なんて呑気なことまで思ってた。

 一緒に暮らしてみて分かったけど、あの派手な噂は何だったのかと思うほど、ヘンドリックは質素な生活を送ってるわ。決して富豪というわけじゃない。
 そんな彼に本当に甘えられる金額なのかどうか分からなくて、私はまだ不安を引きずったままその姿に見入ってた。

 突然、ああ、と言ってヘンドリックは額に手を当てた。
「ひどか話じゃ。僕、モハチに、五十両近く払うた。計算、合わんじゃなかか」
 私はもう、身のつまされる思いよ。
「ごめんなさい、うちがもっと、きちんとしとりゃ」

 だけどヘンドリックは少しも私を責めなかった。彼が憤慨してるのは、あくまで売上の大半を楼主が吸い上げて、遊女本人には渡ってないってことだったから。

「こりゃ世界中どこでも同じ。長崎だけがひどかわけじゃなか。ばってん」
 うつむいてそう言ったヘンドリックは、そこで毅然と頭を上げた。
「僕、モハチに、交渉する。オリオノ、もうフレイよ」
 彼は横向きにした手を、空中に滑らせる。
 
 フレイ。フレイって何だろう。

 私は小首を傾ける。たぶん悪い意味じゃないのよね。
 分からないながら、すっときれいな空気に包まれたような気がした。私はもう嫌いな男に身を任せなくていいんだ。まだ実感は湧かないけど、本当に丸山の町から解放されるんだって、ようやく噛み締めるように思ったわ。

 それにしても、どうしてもっと若くて純粋な頃に、この人に出会えなかったんだろう。こんな歳になったせいか、単純にうれしいとか感動するだとかいう気持ちにはなかなかなれないもの。

 恋が始まった頃の、楽しいだけの日々って、あっという間に過ぎ去るものね。今はお互いに、相手の欠点もいくつか見えてくる時期に入ってる。ヘンドリックも私のことを恋人とか妻というよりは、子供の養育係として必要としてくれたんだと思う。

 何よりこの人はいつか日本を離れる身で、幸せは続かないのよね。
 
 いいえ、ヘンドリックはそれでも良しとしてくれたんだもの。その決断に感謝して、私も全力で尽くそうと思う。
「……うち、おもんちの本当の母親には、なってあげられんばってん……」
 私はヘンドリックに向かい、力を込めて宣言した。
「ばってん、うち精一杯お仕えします。あなたにも、おもんちにも」

 自分に対しても、私は誓おうと思うの。おもんにはいつか必ず、過酷な運命が降りかかる。それがどうしても動かしがたいことならば、せめてヘンドリックが日本を離れるまでの間、私が楽しい子供時代を作ってあげる。幸せな記憶は、きっとその子の生きる力になっていくはずだから。

「オリオノ!」
 ヘンドリックは再び私の手を握り、顔をくしゃくしゃにして笑ったわ。
「僕、うれしか。おもんも喜ぶやろ」

 こういう時のヘンドリックのあどけない表情。
 私は逆にちょっぴり不安になる。足元の地面が崩れ行くような感じがする。

 この世は身分家柄だけですべてが決まるわけじゃない。同僚を差し置いて出世する男とはどういう種類の人間か、私はある程度見てきたつもりよ。
 それは清濁併せのむ人。時には悪いこともできなくちゃならないの。

 こういう表裏のない、素直な人が抜擢される時には、また別の裏がある。
 この人、いつか足をすくわれる。破滅させられるわ。私、本当にこの人に運命を委ねていいのかしら?

 だけどそのとき、ヘンドリックの腕がにゅっと伸びてきて、私は抱きすくめられた。
「オリオノ」
 彼は今後の幸せをちっとも疑っていないようだった。そのまま、骨が折れるかと思うほど強く抱きしめられたわ。
「ようこそ、僕の妻」

 私の方も応じるようにヘンドリックの背に腕を回した。

 あなたはそんなに喜んでくれるのね。二人の幸せを疑っていないのね。
 だったらそれでいいのかもしれない。これから破滅への道を歩むことになっても、その時に彼が裏切られたように感じるとしても、今が幸せならそれでいいのかもしれない。
 どうか今は、沈黙を許して下さい。私が救われる方を優先して下さい。

 ごめんなさい、ヘンドリック。あなたには、一緒に地獄に堕ちてもらうことになるかもしれない。

 私はヘンドリックの胸で目を閉じる。
 視界の隅で窓の掛け布が揺れてる。出島の夜は静かに更けていく。

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