第25話 しつけの領域

文字数 2,742文字

 ここ数日、カピタン部屋には少々荒れた空気が漂ってる。
 
 ガチャン、と音がして、まただわ。
 せっかくの料理が、皿ごと床にぶちまけられた。

「……Ik wil niet te eten!(食べたくない)」
 おもんは泣きながら叫び、食卓の脇で地団駄を踏んでる。
 やめなさいと叱りつけるヘンドリックの額には、青筋が立ってるわ。いつも良い父親であろうと頑張ってるヘンドリックだけど、今は子供に引きずられ、すっかり感情的になってる。

 こういう時、給仕をする私とムハマッドは、嵐が過ぎ去るまで黙ってうつむいてるしかないのよね。困ったことに、このところ毎日この調子よ。

「サラダ、好きやったやろ」
 ヘンドリックは腰に手を当て、仁王立ちした。
「おもん、ワガママ、だめ。世界には飢えた人間、ようけおる。食べ物、大切にせんね。自分できれいにせい」
 今度は無残に散らかった食べ物を指差した。
 もちろんおもんは泣きじゃくってて、それどころじゃないわ。
 
 だけどヘンドリックが怒るのも無理はないと思うほど、おもんの扱いは難しかった。一度爆発しちゃったら、手のつけようがないぐらいよ。
 園生(そのよ)って女が子育てを放棄して出ていったのも、きっとこの辺に理由があるんだと思う。

 横にいるムハマッドが割れた皿を指差し、私に目配せしてきたわ。飛び散ったかけらが危ないから、こちらで片付けようっていうんでしょう。
 そうね、と私もうなずき返した。あれをおもんに拾わせたら、怪我しちゃうもの。

 二人ともすぐに動き出したわ。ムハマッドが割れた皿を拾い上げてくれて、私は台所で雑巾を濡らしてきて敷物についた染みを叩き出した。

 いつもこうなるとヘンドリックは黙って私たちに任せてしまうんだけど、今日という今日は考えがあるみたいだったわ。私たちに片手を出し、制してきた。
「オリオノ、ムハマッド。そこまででよか。あとはおもんにやらせる」

 主人の意思よ。すぐさま二人とも、言われた通りに立ち上がったわ。
 するとヘンドリックは私の手から汚れた雑巾を取りあげ、わんわん泣いてるおもんに押し付けたの。
「さあおもん。きれいにせんね!」
 
 私はうつむきつつ、チラッチラッと親子に目をやってた。
 ヘンドリックはしつけのつもりなんでしょう。でも、おもんは状況をよく分かってないし、こんなに激しく泣いていては、素直に大人の言うことを聞く余裕なんかないんじゃないかしら。

 私はじっと考えてた。
 ここでヘンドリックは子供を叩くかしら?
 暴力で無理やり言うことを聞かせるのかしら?

 そうじゃなかった。
 その直後、おもんは急に反抗をやめて大人しく雑巾を受け取ったの。あら、と見ている私は意外に思った。きちんと言い聞かせれば、子供にも通じるものなのね。
 やっぱり私、本物の父親にはとても敵わないわ。ヘンドリックは我が子への接し方をよく分かってる。大したもんだわ。

 と思ったら、これまた違ったのよ。
 おもんはその汚い雑巾を、父親の顔面にぺしっと投げつけたの。精一杯、彼女なりに抵抗の意を示したのね。
 ヘンドリックは当然ながら、不快そうに顔を歪めたわ。

 その直後、今度は、ぱしんっていう音が部屋に響いた。
 激高したヘンドリックが、娘の頰を平手で叩いたのよ。それは感情に任せた暴力に他ならなかった。しつけの領域をちょっと踏み越えていたかもしれない。

 おもんが天井に向かって口を開けた後、わずかな空白があった。
 来るな、来るなと思ってると、案の定、彼女は割れんばかりの声で泣き出した。
「……うああん、ああん」
 そりゃもう、身も世もないってほどの嘆きようだったわ。

 この泣き声にもはや耐えられなくなったのかもしれない。ヘンドリックは怒りではちきれそうな様子で大股で歩き、隣の部屋へ姿を消して行ったわ。
 ばたん、と乱暴に扉が閉まるのを、残された私とムハマッドは無言で見つめてた。

 こうなったらしょうがないわよね。同時にため息をつき、結局また二人で片付けを始めたわ。
 ムハマッドは黙ってかけらを拾い集め、それを手に部屋を出て行く。
 その間も、おもんは相変わらず大声で泣き叫んでた。窓にはめられたびいどろが小刻みに震えるほどの声。まったくこんな小さな体のどこに、それほどの力を蓄えてるのかしらね。

 部屋中に満ちる騒音の中、私は掃除をしながらやれやれと思ってた。
 正直に言わせてもらうと、今夜はヘンドリックの方が駄目よ。おもんのこと、やっぱりちっともわかってない。
 もちろん彼はちゃんと言い聞かせればわかると思ったんでしょう。自分の娘だもの、そう信じたかったのは分かる。

 だけどおもんはまだ四歳の子、それもたぶん、発達に少し遅れのある子よ?
 ヘンドリック自身は確かに優秀な人なんでしょうけど、現実の見極めができていない部分もある。そんな気がするの。

 火が付いたような、すさまじいおもんの声。
 だけど、それもだんだん小さくなっていったわ。
 私はくすりと笑っちゃった。長時間大声を出すのも疲れるものよね。いつしか、しゃくりあげるその声だけに落ち着いてるじゃない。
 雑巾を片付けて、手を洗ってから、私はそっと声をかけた。

「お嬢様。お顔をきれいにしましょうか」
 すると、おもんはぱっとこちらを見た。

 驚くべきことが起きたのは、次の瞬間だった。
 おもんは両手を出し、全力で私に駆け寄ってきたの。
「ママー!」

 何かが私の胸を刺し貫いた。

 考えてそうしたわけじゃない。ただ私の心は激しく震えて、自然に体が動いてた。その場にかがみ込み、両手を広げて叫んだの。
「……おもんち。かわいいおもんち。こっちにおいで!」

 ばふっと音がして、私は彼女を抱きとめた。
 胸がいっぱいになる。私はおもんをぎゅっと抱きしめ、頬ずりをした。涙があふれて止まらなかった。

 今だけ。今だけよ。と、私は自分に言い訳をする。今だけ、この子の母親でいさせて。今この時だけは、遊女であるという現実を忘れさせて。
 ヘンドリックがいないのをいいことに、私は本当に今だけ、この子の母親になってた。完全におもんを独り占めしてたわ。

 世間はこんな私に厳しいでしょう。
 人はきっと言うわ。子供が甘えてくるのを良いことに、自分になつかせた。下心があったんだろう。あわよくば身請けでもしてもらおうって魂胆なんだろう。

 何とでも言うがいい。
 私は泣きながらおもんの背をさすってた。
 この子の心の叫びを、誰が否定できるだろう。子供が大人の都合に振り回されて、自分の意思を持つことを許されないなんて、その方が間違ってる。

 おもんはまだしゃくりあげながら、私にぎゅっとしがみついてきた。
 そのときの、彼女の声が必死だった。
「ママ、ママ。ずっと、おもんちの側におる?」
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