第66話 お奉行様と喧嘩

文字数 3,045文字

 オランダ人一行には座敷の一つが与えられた。しかも全員に水と食料が配られた。
 お奉行様の配慮に、僕は感謝するばかりだ。

 とはいえ気分は落ち着かない。眠ることはおろか、一晩中じっとしていることもできなかった。当然だよ。仲間が死ぬかもしれないんだから。

 僕は、奉行所内をうろうろしては、幕府役人たちと話し込んだ。何か僕にもできることはないかと、聞いて回っていた。
 馬鹿だよなあ。この僕にできることなんて何もないのに。

 だけど日本人の多くはその辺りも察してくれていて、むしろ僕を励ましてくれるんだ。
「カピタン、大丈夫ですよ。人質は生きたまま取り返しますとも」

 タキチローにはずっと側についていてもらった。僕もかなり日本語がわかるようになっていて、長崎の人々とは直接話せるようになっているんだが、奉行所には江戸の人が多いから、通詞がいた方が心強い。

 物見台にも、何度か上がらせてもらった。
 何か少しでも、人質となった二人の状況が分からないか。胸が張り裂けるような思いで、僕は遠眼鏡をパーペンベルクの方角へ向けてみた。
 だが闇の中に小さな灯りが明滅しているのみで、何も見えはしなかった。
 
 夜半過ぎのこと、長崎奉行の下役だという男が憔悴した顔でやってきた。
「こたびの件は奉行所の失態にござる。その責めを負い、わたくしめが一人で敵船に乗り込み、相手を油断させたところで、船長と刺し違えて死にまする」
 彼は大真面目にそう言って、僕にひれ伏すんだ。

 これには驚いた。その責任の取り方はおかしいだろう。その勇気と覚悟は大したものだが、そんなことをしたら人質も殺されてしまうじゃないか!

 僕とタキチローは何とか彼を押しとどめると、大急ぎでお奉行様に面会を求めた。

 途中で通りかかった部屋でも、奉行所詰めの人々が数人襷掛けをし、鉢巻を締めていた。さっきの男が死んだ後、敵艦に乗り込んで白刃戦をいどむ段取りになっているらしい。

 僕たちはお奉行様の前へ通された。
 左右には、裃姿の日本人がずらり並んでいる。
 何となく気圧されて、ごくりと唾を飲み込んでしまったが、僕とてこういう場面は過去に何度も経験してきた。正座にも慣れている。

 僕は正面のお奉行様に向かって、平身低頭、頼み込んだ。
「無謀な計画は思いとどまって下さい。そんなことをして頂かなくとも、我々はヤパンを恨んだりしませんから」

 それからもう一つ、と僕は訴えた。
「交渉には丸腰で臨むべきです」
 何より大事なことだ。いたずらに敵を刺激すべきではない。
 タキチローはちゃんと通訳してくれているようだったが、お奉行様が聞く耳を持ってくれていないのは見ていてすぐに分かったよ。

「これは貴国のみの問題ではない。我が国もまた辱めを受けたのだ。何もせず手をこまねいているわけにはいかぬ」
 というのが、お奉行様のお答えだった。
 名誉体面のためとあらば少々の犠牲はやむなし、という考えなんだ。彼は失態を恥と考え、あくまで日本人だけで解決しなければならないと思い込んでいる。

 この状況では、僕までが部下を見捨てる決断を迫られそうだった。でもここが肝要なところだ。僕は腹をくくり、お奉行様ににじり寄って再び訴えた。

「お考え下さい。今の長崎にはろくな装備もなく、兵もいないのです。この状況でこちらから戦を仕掛けるなんて、あまりに無謀です」
 それでもお奉行様とその取り巻きは相手にしてくれなかった。とても僕の話など聞いてくれる雰囲気じゃなかった。僕が日本人じゃないから、日本人のやり方を理解できないと思ったみたいだ。

 となると、僕も腹の内に収めていたものを吐き出さずにはいられなくなった。
「そこまでなさるのなら、なぜ万全の体制を取っておかなかったのです!」

 ちょっときつい剣幕で言ったから、驚いたんだろう。さっと人々の顔がこちらを向いた。
 だけど重要な事実がいくつかある。それを確認させてもらおうじゃないか。
「大変失礼ながら、お奉行様は当初、佐賀藩の件を把握しておられませんでしたね?」

 タキチローから聞いたよ。お奉行様が人質奪還をお命じになったとき、今年の長崎警備に当たる佐賀藩の兵がいないことが判明したそうじゃないか。それも許可なく勝手に帰国していたって。
 無様だよな。ロシアをはじめ、飢えた狼のような国が頻々と日本の沿岸を脅かしているのに、この国の防衛能力はそんな水準にあるわけだ。

 いや、僕はそれを責めてるんじゃない。長い間、閉ざされていたこの国では、それも致し方ないと思う。
 だけど焦ったお奉行様がこれを極秘とし、僕にも秘密にしていたことがどうもいただけない。
「せめて我々には正直に打ち明けて欲しかったですね。それで余計に対応が遅れたんですから」

 かつてフォールマン氏も言っていたように、日蘭で正式な軍事同盟やら安全保障条約の類が結ばれたことはないものの、それに似たような口約束はあったんだ。
 またそれ以前に古くから東インド海域の交易都市は、自領に滞在する外国商人の身の安全を守るという伝統を持っていた。
 長崎は一体、何をやっていたんだ?

 タキチローの通訳が追い付かないほど、僕は激しくまくしたてた。かつて無口なヘンドリックと呼ばれていたことが自分でも信じられないほどだ。
 とにかく口にしてしまうと、内に秘めていた怒りはかえって爆発しそうだった。だって長崎の怠慢のせいで、オランダ人が死にかけているんだ。黙っていられないよ。

「お言葉ですが、カピタン様」
 役人の一人がいざり出て、お奉行様をかばい出した。
「お奉行様はすぐに佐賀藩士を呼んできつく叱りつけ、ただちに長崎へ軍を寄越すようお命じ下さったのですぞ。我々なりに、誠意は尽くしております」

「対応が遅すぎます。その程度は当たり前です」
 僕の体内で何かがふつふつと沸き立ち、全身の皮膚が破けそうだった。
「失礼ながら、日本の皆さんは長い間戦争から遠ざかっていて、近代兵器の恐ろしさをご存じないんです。鎧甲冑でいくら武装しても、大砲でどかんとやられたら終わりなんですよ?」

 いや、と僕はそこで我に返り、口をつぐんだ。
 日本を責められる立場じゃなかった。普段から都合の悪いことを隠しているのは、オランダの方じゃないか。

 昨夜、港内をさまよった敵は、日本人を襲うつもりはないようだった。おそらくオランダ船、およびオランダ人を探していたんだろう。
 となると、悪い予感がする。敵はイギリス。ナポレオンに触発された英蘭戦争の一端が、この長崎で始まってしまうんじゃないだろうか?

 お奉行様とてうすうす感づいているかもしれない。オランダは昔日の威光を失い、もはや大国ではないこと。こうしてイギリスを抑え込むことすらできずにいるということ。

 日本人に言わせれば、オランダの方こそ怠慢かもしれなかった。お前ら、遠方で戦をするのは勝手だが、我が国が攻撃されるいわれはないぞ。僕はそう言われてもおかしくないんだ。

 しかも、だ。長崎の町に被害が出たとしても、オランダ国家には賠償能力がない。
 それを思うと、僕はぐるぐるとめまいさえしてくる。
 
 ああ、ナポレオンさえいなければ。
 僕は目を閉じてそう思った。オランダは彼のために望まぬ戦争をし、疲弊し、それを好機としてイギリスが長崎に来てしまった。奇跡のように続いてきた日蘭の友好が、僕の代で崩れ去ってしまうんだ。

 そのとき、また庭で人の騒ぐ声がして、全員が顔を上げた。
 人質が戻ってきた、と誰かが叫んでいる。

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