第53話 後にしてくれないか・その2

文字数 3,932文字

 ここでのフォールマン氏は、バタヴィアの貴族の代表みたいなものだった。
 仲間は発言を許されない雰囲気だから、言うべきことは、商館長の僕が言わねばならない。
「我々はここで、交易に全力を挙げております。ここで産み出される利益が祖国を支えると信じていたからこそです」

 僕はフォールマン氏をにらみ上げた。
「その祖国がなくなった今、今後はフランス人の国王のために尽くせと、閣下がおっしゃるのは、そういうことですか?」

 ずけずけと物を言う僕に、フォールマン氏は肩をすくめて見せた。たかが商館長のくせに生意気だと思ったんだろう。
「偉大なる祖国のために仕事をする。それは何ら変わらんよ、ドゥーフ君とやら」
 鼻白んだように僕から目を反らす。
「ネーデルラントがフランクリクのくびきを脱するまでの、ちょっとの間の辛抱じゃないか。だいたい本国は本国、植民地は植民地で長いことやってきたんだ。何も今の国王に迎合して、交易の利益を献上しようというのではない」
 
 まるで幼児をなだめるような口ぶり。僕が何も分かってないと思ってるみたいだけど、僕からすれば彼の方が矛盾している。フランス人国王への忠誠を求めてきたと思ったら、今度は馬鹿にしてるじゃないか。

 だけど今の言葉、オランダの将来について楽観的な見方があったような気がする。
「ネーデルラントは再び独立するはずだと、閣下はそうおっしゃるのですね? でしたら、その根拠もぜひお聞かせ願いたいのですが」

「根拠って、君ねえ」
 フォールマン氏は僕のしつこさに辟易しているようで、その口調はどんどん投げやりになっていく。
「フランクリクは、革命と戦争とでかなりの財政難に直面している。そう長くはもたんさ」

「しかし我々の国王は、ナポレオンの弟でしょう? こうしている今だって、恐怖政治が行われているかもしれないでしょう?」
 いつしか僕の方が相手を問い詰める形になってる。うるさいと思われようが何だろうが、状況が分かるまで質問を止められないよ。
「これを機に、国王は植民地も支配下に置こうとするんじゃないですか。だったら採算の取れない商館なんて簡単に握りつぶして……」

「私だって植民地の人間だ。これ以上は分からんよ」
 フォールマン氏は両手を上げて僕を黙らせると、わざとゆったりした態度で他のみんなを見回した。
「それより船のほうだ。まずは乗組員の宿泊所と、積荷の手配を先にしてもらえるかな」
 そう言われれば、仲間たちは動かざるを得なかった。

 だが祖国の情勢が分からないと言ったフォールマン氏の発言には、ちょっとだけ嘘があったようだ。
 たぶんこの人、商館員全員がそろった場ではどこまで情勢を開示して良いものか迷いがあったんだろう。このあと僕一人を壁際に手招きして、こっそり打ち明けてきたよ。

「その、肝心のローデウェイク王だがね……」
 聞こえるか聞こえないかの小さな声でささやき、彼は不自然な咳払いを入れた。
「……かなり陰鬱な男だそうだ。国王の座にとどまっていられるのも、長くはないと言われている。今のところ、我が国の政治家に歩み寄る姿勢を見せているという噂だ」
 
 僕もフォールマン氏に合わせ、ちらっと周囲を窺った。こんな話、バタヴィアでもなかなかできないだろう。
 だけど良かった。この人も現場の人間を動かすには、一定程度の情報を公開した方が良いと思ってくれたんだ。

 僕はここぞとばかり、フォールマン氏の方へ身を乗り出した。
「では、今後は何でもフランクリクの言いなり、というわけではないんですね」
「そりゃそうだろう。国民が諸手を挙げて歓迎した王ではない。我が国はたぶん陛下の良心に訴えて、ネーデルラントの利益に結びつくよう道を探るのではなかろうか」

 もちろん、それができればいい。だけど国王がオランダ人に妥協する様子を見せれば、兄のナポレオンは弟を許さないんじゃないだろうか。

 まだまだ疑念は残っているというのに、会話はそこで打ち切られてしまった。というのも、歓迎の宴の準備に訪れた日本人が、大荷物を手にどやどやと入ってきたんだ。

「遅うなってすみません。カピタン様!」
「すぐに準備しますけん!」
 人々は大急ぎで着物の上にたすき掛けをする。
「偉かお人の来とるんじゃろう? 盛大にお迎えせんば」
 大量の酒が運び込まれる。オランダのために一生懸命やってくれる日本人を前に、僕は苦笑するより他なかったよ。

 歓迎会が始まると座は盛り上がったが、もてなす側にいるはずの僕はついつい故国のことばかり考えてしまった。
 窓の外ではためく三色旗が、ひどくはかなく、頼りなく見える。それは今にも引きちぎられて、風に乗ってどこかへ飛んでいってしまいそうだった。

 僕は何度も隣席のフォールマン氏に話しかけたい衝動に襲われたけど、この人は僕だけが占有して良い相手じゃない。どのみち日本人もその場に大勢いることだし、話題にできることは限られる。

 途中、日本人の誰かが「今日派遣する予定だった娼婦の都合が悪くなったので、別人でも良いか」と尋ねてきたようだったが、僕は何と返事したのか覚えていない。とにかく今後長崎で起こりうる問題で頭がいっぱいだ。
 
 食事が終わり、日本人が席を立つのを待って、僕はすかさずフォールマン氏を捕まえた。

「……たびたびで恐縮ですが、閣下」
 少しでいいから、僕の取るべき行動に助言が欲しかった。
「実はこの商館の運営は厳しく、ほんのちょっと前まで赤字だったぐらいなんです。今後、バタヴィアから日本の商館の閉鎖を告げられるかもしれません。本国の情勢が厳しければ、余計に植民地での無駄は許されなくなるでしょうから」

「いや、そんなことはないだろうよ」
 フォールマン氏は日本酒が気に入ったようで、すっかりご満悦だ。
「ドゥーフ君、君は実に心配性のようだね。分かり切ったことじゃないか。この長崎は重要な拠点なんだ。誰だって手放したくはないさ」

 業績の悪い年があるのはどこの商館も同じだから、さほど気にすることはないとまで彼は言う。
 僕は目を見開くばかりだ。商務員には、さすがにそんなことを言う奴はいない。自分たちの存在意義とは、ひたすら利益を上げることにあるわけだからな。
 
 やっぱり、この人とは話がかみ合わない。あくまで彼は軍人で、僕は商人なんだ。
「……しかし、VOCはすでに解散させられました。本国は植民地に十分に影響力を持っています」
 僕は一つ一つ考えながら発言を繰り出した。
「新しい国王が日本との交易をやめろと言い出すのも、十分に考えられることかと」

「繰り返して言う。フランクリクがここの交易に口出ししてくる心配はない」
 いい加減にしろとばかり、フォールマン氏は赤ら顔で断言した。
「考えてみたまえ。向こうは、東インドの拠点をほとんど失っている。もともと奴らの海軍はボロボロだ。ここまで来ることもかなわんだろう」

 ああ、そうそう、と思い出したように言って、フォールマン氏はやっと僕の顔をまともに見返した。
「君たちはエンガラントの動きに警戒するがよい。この東インドでは、脅威はむしろそちらにあるんだぞ」

 そんなの、今さら言われるまでもない。ただ折よくイギリスの国名が出てきたから、僕は食い下がってみることにした。
「では、いざという時、バタヴィアが守って下さいますか? エンガラントが長崎を攻めてきたとき、閣下は軍艦を寄越して下さいますか?」

 長崎の町が砲撃される図を、僕は想像する。

 日本側は決して、オランダとの国交を開いているわけじゃない。民間人同士の商売を制限付きで許可しているに過ぎないんだ。
 オランダ人がここにいるせいで長崎が危険にさらされると分かったら、彼らはただちに国外退去を求めてくるだろう。オランダは日本に対し、いつも以上に誠実な態度を見せなくちゃならない。

 そこを分かってもらいたくて、僕は主張を続けた。
「閣下もご存知でいらっしゃいましょうが、我々はこの国の幕府によって武装解除されております。敵の攻撃にさらされた時、商館を守るのは難しいと思われます。バタヴィアの支援が必要なんです」
 酔っ払いの軍人から、ちらっと冷たい目が僕に向けられた。

「ドゥーフ君。確認させてもらいたいが……」
 相手も咳払いをし、重々しく切り出した。
「武器弾薬を預ける代わりに、君たちの安全保障については幕府が責任を持ってくれる約束になっているはずだ。ヤパンとうまくやりたまえ、それが、君の仕事じゃないか」

 その無責任な言い方に、僕は弾かれたように怒りを覚えた。もう少しでこの人の首を絞めてしまうところだった。

 これで分かった。バタヴィアはいざというとき、僕たちを見殺しにするだろう。
 ならば、戦わずしてこの商館を開け渡してやる。そのとき僕は責任を問われるだろうが、構わない。全員が死亡するよりましだ。

 まったく、喜望峰以東に置かれた商館は、大使館の機能も要塞の機能も負わねばならない。なのに、ここには堅固な城壁もなく、大砲もなく、人数ときたら、たったの十名。
 この心細さが、お前に分かるのか!

 その時ぽんぽんと腕を叩かれて、僕は現実に引き戻された。
 いつの間にか娼館の経営者モハチが脇に立っていて、今日も発音のひどいオランダ語を口にしている。
「カピタン様。女をお連れしました。いかがです? 当店で一番の売れっ妓ですよ」
 ええい、うるさい!
「後にしてくれないか。僕は今それどころじゃ……」
 
 怒鳴りながら振り向いて、しかし僕は波に呑まれたように呼吸を止めた。
 モハチの後ろに、まるで真紅の花が咲いたように可憐な女が立っていた。しかも彼女は僕と目が合った途端、照れたように肩をすくめて笑ったんだ。

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