第13話 後にしてくれないか・その1

文字数 2,844文字

 床の間に一番近い、長卓の端が上席なのかと思ったら、そこには誰もいなかった。
 ならば、と思って長卓の中央に目を移したら、三人ほどの男が目についたわ。
 手前の方で振り向いて、ニヤニヤしながらこっちを見ている男は何となく違う気がする。しかもその男、自分の馴染みの遊女を見つけたら、さっさと私から視線を外して彼女を抱き寄せてるじゃないの。

 じゃあ向こう側に座る二人の男かしら。
 でも彼らは、逆に私の方を見ようともしないわ。
 何だろう。深刻な顔つきで何かささやき合ってる。

 二人の男の片方に、別の妓楼の主人が近づいていって、連れてきた遊女と引き合わせた。男は急に話をやめ、相好を崩して振り向いて、これまた自分の女を喜んで迎えてる。

 ならば、と私は最後に残った男を見つめた。
 あの陰鬱な顔をした男がカピタンね。何だか聞いてた印象と違うような気がするけど、間違いない。
 実際、うちの旦那様が自分から近づいていって私の方を指して何か言ったようだった。旦那様も少しだけ蘭語ができるのよね。

 でもこのカピタン様、まるで聞いてないみたい。

 むっとしたわ。あんたが私を呼んだんでしょう? 京屋の太夫がわざわざこうして足を運んできたっていうのに、その態度は何なのよって。
 そう、この裏稼業では私たち、どんなお殿様よりも偉いんだからね!

 だけど、もしかしてこの人、本当は女なんかどうでも良いのかも。皆が心置きなく楽しめるよう、自分も遊んでるふりをする。日本人にもたまにそういう人っているのよね。

 じゃ、帰ろうかなって思ったわ。そういう人は何も太夫を呼ばずとも、その辺の安女郎でいいじゃない。
 そりゃ異人は遊里のしきたりなんて知らないんでしょうけど、そこを踏まえてもこの人の太夫への接し方は落第だわ。

 蘭国の商館員たちはめいめいに自分の馴染みの女を抱き寄せ、自分の膝の上に乗せて接吻したり、立ちあがって一緒に踊り出したりして、いつしか広間はまた賑やかになってる。
 でももう私には関係ないわ。
 つかつかと長卓を回り込んで、私は旦那様に近づいて行った。

 同衾は断ってもらうべきよ。こっちはカピタンを袖にした女っていう評判が取れるなら、それも悪くないんだから。
「おとしゃま、もうよかですけん。帰りましょ」

 私は旦那様の肩に手をかけて止めに入ったんだけど、旦那様はまだしつこくカピタン様に話しかけてる。思索から無理やり引き戻されたカピタン様は、明らかに怒った表情でこちらを振り向いたわ。
「Raak niet hen later. Ik ben ik nu, is het niet……!(後にしてくれないか。僕は今、それどころじゃないんだ)」

 まずい! こりゃ相当に機嫌が悪いわ。
 私たち二人とも、その場に固まった。
 
 だけどね、カピタン様はその言葉が終わるかどうか、というところで急に動かなくなったの。私に気づいて、灰褐色の目を見開いてる。私の姿にくぎ付けになってる。

 となれば、私の方もムカついてたのが決まり悪くなっちゃった。慌てて笑顔を作り、肩をすくめてごまかしたわ。
 たとえ熾火のように弱いものであっても、私たちには客の男の目の中に恋の火がともったかどうかわかる。この稼業の女たちはそうやって、男を煉獄に引き込むのが仕事なんだもの。今カピタン様を見たら、熾火どころかあっという間に大火が燃え盛ったみたいだったわ。

 旦那様がうやうやしく両手を差し出すと、カピタン様は口を半開きにしたまま、上着の内側から革袋を取り出し、銀貨を落としたわ。出島でだけ通用する、決済用の特別な通貨があるって聞いたけど、あれがそうなのね。一枚でも高額なはずよ。

 へえ、と私は思った。遊女の揚げ代は月ごとのツケ払いだから、あれはほんの心付けよ。金離れの良い男であるのは確かなようね。

 とにかくカピタン様が私を気に入ったのなら、契約は成立よ。
 旦那様がすれ違いざま、うまくやれってささやいてきたけど、当たり前じゃない。ここでしくじる私じゃないわ。

 カピタン様は、かすかに独特の匂いがした。肉食と、煙草のヤニのせいかしら。別に不快なほどじゃないけど、やっぱり異質な感じがするのは否めなかった。ほとんど未知の領域へ足を踏み入れる感覚。この人と肌を合わせることになるのが信じられない。

 そのとき、カピタン様が私の右手を取った。
 そして私を安心させるかのように、自分の両手で挟み込んで軽く持ち上げたの。たぶん挨拶をしてくれたんだと思う。
 すごく温かい手だった。肉厚の手の甲に、まさに紅毛という言葉そのままに褐色の毛が揺れてたわ。

 私はうなずいた。
 わかったわ。同じ人間なのね。怖がらなくていいのね。

 成り上がり者だっていうから、私は野趣あふれる男の人を想像してたの。岩をも打ち砕く荒海のような男よ。

 でもこの人から漂ってくるのは、優しさそのものだった。まっすぐ過ぎるほどまっすぐな、サラサラした栗色の髪。優美な線を描く高い鼻。くっきりとした二重まぶたの奥は、凪いだ海どころか、まったく波の立たない湖面のようだった。

 カピタン様はその静かな目のまま、私に何かをささやいてきたわ。言葉は分からないけど、この状況からすると名を聞かれてるのよね、きっと。

 私は片手を預けたまま、もう片方の手で自分の胸を押さえた。
「……瓜生野、です」
 すると湖の底にわずかな身じろぎがあった。カピタン様は背もたれから身を離したわ。
「Oriono?」
「う、り、う、の」

 カピタン様はやっぱり私のことをオリオノとお呼びになって、熱っぽい目で何かを語りかけてきたけど、困ったことに私はさっぱりだった。
 壁際に気づいたのはその時よ。
 一人だけ、少年のように若い通詞がそこに残ってて、この私に見とれてたの。ちょうど良かったと思って、私は手招きして呼び寄せたわ。

「ねえ〜。カピタン様の何ておっしゃっとんのか、うち、いっちょん分からんとよ」
 自分から声をかけておいて何だけど、駆け寄ってきたその若者の顔に私はぎょっとした。

 この子、名村様のご嫡男、元次郎様じゃない!
 何てことなの。あの小さな、私の膝の上で菓子くずをぽろぽろとこぼしながら食べてたあの少年が、もう商館に出入りして仕事をしてるなんて。

 最後に会った時、この子はすでに七、八歳だったと思う。その八年後の今、こうして見習い通詞になってたとしても、確かにおかしくはないのだけれど。

 元次郎様はカピタン様と一言、二言ささやき合い、私には目を伏せて通訳してくれたわ。
「……あなたの着物は、大層美しかておっしゃっとります」
「ま、まあ、ありがとぉ」
 気を取り直して、私はカピタン様に向かって必死に微笑んで見せた。

 同時に元次郎様が上役に呼ばれて出て行ったから、少し救われたような気がした。何にしても自分の勤めを見せることで、あの子を傷つけたくないもの。この先は言葉の通じない相手と二人きりになるわけだけど、異人相手の仕事っていつもこんなものよ。

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