第72話 オランダ復活

文字数 2,406文字

 三色旗は古くてボロボロで、今にも海風に引きちぎられてしまいそうだった。
 
 だけどその目でしっかりと見るがいい。ワルデナールさん、あなたは忘れてしまったんですか? あれこそが僕たち、最後のオランダ人の意地じゃないですか。

 僕は窓辺に立ったままつぶやいた。
「……日本人は私の味方になってくれるでしょう。私は今ここで、あなたの首を取って串刺しにすることもできるのです。そう、かの売国奴、エルベルフェルトのように」
 言いながら振り返った。

 がたん、とワルデナールさんは腰を浮かせた。
「わ、悪い冗談はよしてくれたまえ、ヘンドリック。君は正気か」

 おろおろして、彼は意味もなく辺りを見まわした。
「君は日本人に悪い影響を受けているんじゃないか? 前はそんなに頑迷ではなかった」

「そうです。ヤパンが僕を鍛えてくれました」
 僕の腹の底から皮肉な笑いがにじみ出てきた。
「この国に来たことが、僕の運命を変えましたね」

 いつも何かに怯え、おどおどしていた僕だった。もっと自信を持て、図太くなれと、ワルデナールさんによく言われたっけ。
 そんな上司の期待を飛び越えて、僕がここまでふてぶてしくなったのは、果たして日本人のせいだろうか。それともただ、時代がそうさせたんだろうか。

「この商館は、われらが先祖の打ち立てたネーデルラントのもの。エンガラントだろうがフランクリクだろうが、絶対に渡しません。お帰りを!」
 僕はカピタン部屋の扉をまっすぐに指さした。

 出島の船着き場前にはタキチローを始め、長崎の地役人たちがずらりと並んでいる。
 僕の背後で、全員が直立不動の姿勢で冷たく見つめている。その中を、ワルデナールさんは肩を落として歩いてたよ。

 同じくカピタンだったワルデナールさんは、最後まで日本人との距離を縮めようとしなかった。僕は三色旗の下で、地道に友情を育んだ。これがその差だ。

 昔より白髪の増えたワルデナールさんは、僕たちの態度に呆れ返り、ぶつぶつと文句を言いながら、乗ってきた艀に再び乗り込もうとする。
「ああ、ちょっとお待ちを」

 僕が引き留めると、ワルデナールさんはビクっと体を震わせて振り向いた。
 こっちはニヤリと笑い、付け加えるのみだ。
「本船にいるイギリス人にお伝え下さい。日本人はフェートン号事件であなた方を恨んでいる。一刻も早く立ち去るのが身のためだと」

 ワルデナールさんを乗せた艀を見送った時、一抹の寂寥感を覚えたのは確かだ。でも僕はもう、ただの使者に成り下がった人を相手にする気はなかったよ。

 だって今の僕が立ち向かわねばならないのは、バタヴィアのラッフルズだ。向こうがその気なら、僕も掛け値なしの一騎打ちに出なければならない。

 今度は僕が豪腕ぶりを発揮する番だった。

「タキチロー。あの二隻の船はオランダ船であると、奉行所に申告してくれ」
 僕は一番の馴染みの通詞にそう頼んだ。
「あの船に今すぐ、長崎の地役人を向かわせるんだ。君が行ってもいい」

 そして、と僕は作戦を伝える。
「ようこそ日本へ、積荷はすべて買い取りますと、オランダ語でそう言ってくれ。できるだけ歓迎する雰囲気でね」
 これから日本との交易を始められると、イギリス人に匂わせるわけだ。

「人足たちに至るまで、日本人はみんな、あなたの味方です」
 すべてを了解したタキチローは、大きくうなずきながらそう言った。
「お任せください。あいつらの積荷はすべて出島へ運ばせます」

 そうやって僕は、イギリスの積荷を強奪したんだ。
 当然だろ。船がオランダ船なんだから、積荷は最初からこっちのもんだ!

 もちろんその売上金は、たまりにたまっていた日本人への借金の返済に当てた。
 イギリス側は間もなく騙されたことに気づいて猛抗議してきたが、僕にはもちろん、売上金を返す意思などなかった。

「つべこべ言うな」
 抗議文を持ってきた敵の使者の前で、僕はその手紙をビリビリと破り捨てた。
「とっとと日本を去らないと、二隻とも焼き討ちにするぞ!」

 幕府が日本への寄港を許しているのは、オランダだけ。イギリスじゃない。圧倒的に僕が有利だった。
 彼らは慌てて抜錨し、ジャワへと帰って行ったよ。

 ラッフルズの計画はこれで未遂に終わったが、彼も懲りないもんだよね。イギリスによる出島乗っ取り作戦は翌年も繰り返されたんだ。

 たぶん、ラッフルズの方も勝算があったんじゃないかな。
 何しろ僕はどこからの支援もない身で、イギリスに歯向かってしまったんだ。孤立無援のくせに、お前はこれからどうする気だ? まさか日本の力を借りて、おれたちと戦争する気か?
 ラッフルズは心の中でそう言っていたかもしれない。

 もちろん、オランダ本国が力を盛り返す保証なんかなかった。危うい立場は僕も自覚していたよ。最悪の場合、今度こそ日本を戦争に巻き込んでしまう可能性もあっただろう。

 だが、運が良かったのかもしれない。
 
 ナポレオン失脚後、ヨーロッパではその戦後処理でウィーン体制が敷かれた。あまりに拡大されたフランスの領土が大幅に縮小されたのはもちろん、この機にあちこちの国の領土が見直されたんだ。
 
 その中で、フランスに占領されていたオランダは、何と主権を回復した。
 オランダという国は、再びこの地球上に姿を現したんだ!
 第三国に頼るようなこともなく、オランダは独力で再独立を果たした。一時の衰退ぶりからすれば、これは夢のような話だ。

 そしてバタヴィアも、めでたくオランダに返還された。だからこの二年後には、平和のうちに長崎への派船が再開されたんだ。

 正真正銘のオランダ船を迎えた時の、出島のオランダ人たちの気持ちたるや、何と言ったらいいんだろう。みんな、もはや熱狂するようなこともなく、ただ胸に手を当てて、涙ぐんだ目で三色旗を見上げてたよ。

 まったく、こんな奇跡がなぜ起こったんだろう。
 ただ時代の流れだとしか、僕には説明できないよ。

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