第20話 見習い通詞
文字数 2,501文字
居続けの遊女には、義務付けられてることがある。
一日に一度、出島橋の袂 にある番所に出頭することよ。
私も老番士たちとすっかり顔見知りになったけど、向こうは私たちと口も利きたくないんでしょうね。書き方の説明をしてくれたのは最初だけで、今は黙って窓口に書類を投げ出し、早く書けとばかりに指先でトントン叩くのみ。
だから私も黙って名前を書き、黙って爪印を押すことにしてる。
こんな手続き、馬鹿らしいわよね。
でもこれ、どうしても必要なんですって。ここは異人が行き交う特別な場所だもの。日本人の方も雑役夫 や遊女を含め、人数を厳重に管理しなくちゃならない。
だから淡々とやるわ。長崎に住む人間は、長崎の掟に従って生きるのよ。
番所を出たら、今日も倉庫の方に人がいるのが見えた。日本人とオランダ人が入り混じってうろうろしてる。
そういえば数日前に番所に来たとき、お役人たちが話をしてるのが聞こえたわ。
今年のオランダ船の積荷は特別だったみたいよ。例年は南国の産品がほとんどなのに、今回は布地などオランダ本国の積荷が多くて、日本の商人たちも買い付けに熱心だって。だからヘンドリックも忙しそうにしてるのね。
葡萄棚の下にある鳴鐘 の前で、私は奴隷の一人とすれ違った。ムハマッドと同じような、褐色の肌の少年。
そこに吊り下げられた金色の鐘を鳴らしにきたんだなってわかった。
思った通り、間もなくからんからんと軽快な音が辺りに響き渡ったわ。
終業の時刻、か。
その音を待っていたかのように、脇の建物から若者たちが吐き出されてきた。
通詞 見習いの男の子たちのようだった。みんな格好だけは立派な二本差し。オランダ人による口稽古が終わったようで、これから友人同士で遊びに行く約束でもしてるみたいだった。
集団の中に、名村様のご嫡男、元次郎様の姿も見えた。
私は目を伏せ、脇に寄って彼らに道を譲ったわ。元次郎様にはもう、ご挨拶をすることすら許されない。
若者たちは当然のように私を無視し、ぞろぞろと通り過ぎていった。
元次郎様もお仲間とともに、一度は私をやり過ごしたわ。
だけど彼は思い直したように足を止め、一人でつかつかと私のところまで戻ってきたの。
「……おようさん、ですよね?」
私は迷いながら顔を上げたわ。
ああ元次郎様だって思った。顎の下にほくろがある。あの頃のあどけなさも、まだわずかに残ってる。
でも体の大きさはもう一人前ね。私の方が見上げなくちゃならないなんて、月日の経つのは何て早いのかしら。
目が合った。
すると元次郎様は、うれしそうに顔をぱっと輝かせたわ。
「おようさんがうちにいらしてた頃のこと、よう覚えとりますばい。懐かしかなあ」
「名村様!」
私は小声で制したわ。まったく、こっちがどぎまぎして、横目で他の人々の方を確認しちゃうわよ。
「うちとお話しなさってはなりません。お父上にご迷惑のかかりますけん」
びしっと言ってやった。
そうなの。日本のお役人様たち、上から下までここには大勢出入りしてるけど、遊女とは目も合わせないものなのよ。
分かるでしょ? 彼らは立場上、そうせざるを得ないのよ。
オランダ人も同じよ。遊女買いをしてる人と、してない人がいるけれど、どちらにしろ遊女のことは滅多に話題にしないみたい。たぶんどんなに仲の良い友人同士でも、相手が何人の女と関係を持ってるかは触れないのが礼儀になってるのよ。
言葉の壁があっても、そういうことは分かるものなのよね。
それから誤解を避けるためもあるんでしょうけど、皆さん仲間の愛人とはなるべく口を利かないようにしてる。
女たちは、ここにいないことになってるの。
商館にはオランダ人が皆で飼っている犬がいて、ヤンっていう名前が付けられてる。ヤンが一番、誰に対しても平等に可愛がられてるのは確かね。
とにかくそれほどのものよ。元次郎様とて、もうそんな大人の都合と無縁じゃいられないはずよ。割り切らなきゃいけないのよ。
私のそんな思いをよそに、元次郎様はなおも話しかけてきたわ。
「おようさん、カピタン様にお仕えして、不自由はなかですか」
「不自由?」
私は早く会話を切り上げようと、小声で聞き返したわ。
でも元次郎様ったら、また大声でお答えになるの。
「そうですよ、オランダ語のできんで、カピタン様とどがんして話ばしとられますか?」
肩から力が抜けそうだったけど、私はあえて艶然と笑ってやったわ。
「別に何も。奉公人の方から主人に物申すことなんて、なかですやろ?」
男と女のすることなんて、どこの国でも決まってるの。言葉なんていらないのよ。
でもその辺は説明に困るから、元次郎様に重ねて何か聞かれる前に、こっちから何か言うことにする。
「お父上は、お元気ですか」
ええ、と元次郎様は、また周囲に聞こえるほどの声を出したわ。
「最近まで江戸に行っとりましたばってん、帰ってきてからなぜか機嫌の悪かですよ。同僚の方たちと、連日何やら話し合いばしとります」
何か思い出したらしく、元次郎様は嘆息まじりに愚痴を述べる。
「まったく、お客様の多うて、こっちは気が休まらんですよ」
他の大通詞である石橋助左衛門様、元木庄左衛門様といった長崎の重鎮が、このところ頻繁に名村様のお屋敷を訪れているんですって。そして名村様は女中をお座敷にお近づけにならないので、元次郎様がお茶を出さなくてはならないんですって。
「そいで、皆さん、どうも最近の船は様子のおかしかて仰っとるんですよ」
元次郎さんはおもむろに何かを指さした。
出島の西南側の角だわ。
私には蔵の黒い羽目板と漆喰の白壁しか目に入らなかったけど、元次郎様がおっしゃったのはその向こう、沖に停泊してる二隻の大船のことのようだった。
「あいらは一体、どこの船ですやろか。何かおかしかです。船員の、オランダ語ば話す者のほとんどおらんですけん」
元次郎様のおっしゃりたいことが、私にはよく分からなかった。
「夏のはじめに長崎に来たマウント・ヴァーノン号、後から来たスザンナ号とも、カピタン様はバタヴィアから来たオランダ船ておっしゃっとります」
一日に一度、出島橋の
私も老番士たちとすっかり顔見知りになったけど、向こうは私たちと口も利きたくないんでしょうね。書き方の説明をしてくれたのは最初だけで、今は黙って窓口に書類を投げ出し、早く書けとばかりに指先でトントン叩くのみ。
だから私も黙って名前を書き、黙って爪印を押すことにしてる。
こんな手続き、馬鹿らしいわよね。
でもこれ、どうしても必要なんですって。ここは異人が行き交う特別な場所だもの。日本人の方も
だから淡々とやるわ。長崎に住む人間は、長崎の掟に従って生きるのよ。
番所を出たら、今日も倉庫の方に人がいるのが見えた。日本人とオランダ人が入り混じってうろうろしてる。
そういえば数日前に番所に来たとき、お役人たちが話をしてるのが聞こえたわ。
今年のオランダ船の積荷は特別だったみたいよ。例年は南国の産品がほとんどなのに、今回は布地などオランダ本国の積荷が多くて、日本の商人たちも買い付けに熱心だって。だからヘンドリックも忙しそうにしてるのね。
葡萄棚の下にある
そこに吊り下げられた金色の鐘を鳴らしにきたんだなってわかった。
思った通り、間もなくからんからんと軽快な音が辺りに響き渡ったわ。
終業の時刻、か。
その音を待っていたかのように、脇の建物から若者たちが吐き出されてきた。
集団の中に、名村様のご嫡男、元次郎様の姿も見えた。
私は目を伏せ、脇に寄って彼らに道を譲ったわ。元次郎様にはもう、ご挨拶をすることすら許されない。
若者たちは当然のように私を無視し、ぞろぞろと通り過ぎていった。
元次郎様もお仲間とともに、一度は私をやり過ごしたわ。
だけど彼は思い直したように足を止め、一人でつかつかと私のところまで戻ってきたの。
「……おようさん、ですよね?」
私は迷いながら顔を上げたわ。
ああ元次郎様だって思った。顎の下にほくろがある。あの頃のあどけなさも、まだわずかに残ってる。
でも体の大きさはもう一人前ね。私の方が見上げなくちゃならないなんて、月日の経つのは何て早いのかしら。
目が合った。
すると元次郎様は、うれしそうに顔をぱっと輝かせたわ。
「おようさんがうちにいらしてた頃のこと、よう覚えとりますばい。懐かしかなあ」
「名村様!」
私は小声で制したわ。まったく、こっちがどぎまぎして、横目で他の人々の方を確認しちゃうわよ。
「うちとお話しなさってはなりません。お父上にご迷惑のかかりますけん」
びしっと言ってやった。
そうなの。日本のお役人様たち、上から下までここには大勢出入りしてるけど、遊女とは目も合わせないものなのよ。
分かるでしょ? 彼らは立場上、そうせざるを得ないのよ。
オランダ人も同じよ。遊女買いをしてる人と、してない人がいるけれど、どちらにしろ遊女のことは滅多に話題にしないみたい。たぶんどんなに仲の良い友人同士でも、相手が何人の女と関係を持ってるかは触れないのが礼儀になってるのよ。
言葉の壁があっても、そういうことは分かるものなのよね。
それから誤解を避けるためもあるんでしょうけど、皆さん仲間の愛人とはなるべく口を利かないようにしてる。
女たちは、ここにいないことになってるの。
商館にはオランダ人が皆で飼っている犬がいて、ヤンっていう名前が付けられてる。ヤンが一番、誰に対しても平等に可愛がられてるのは確かね。
とにかくそれほどのものよ。元次郎様とて、もうそんな大人の都合と無縁じゃいられないはずよ。割り切らなきゃいけないのよ。
私のそんな思いをよそに、元次郎様はなおも話しかけてきたわ。
「おようさん、カピタン様にお仕えして、不自由はなかですか」
「不自由?」
私は早く会話を切り上げようと、小声で聞き返したわ。
でも元次郎様ったら、また大声でお答えになるの。
「そうですよ、オランダ語のできんで、カピタン様とどがんして話ばしとられますか?」
肩から力が抜けそうだったけど、私はあえて艶然と笑ってやったわ。
「別に何も。奉公人の方から主人に物申すことなんて、なかですやろ?」
男と女のすることなんて、どこの国でも決まってるの。言葉なんていらないのよ。
でもその辺は説明に困るから、元次郎様に重ねて何か聞かれる前に、こっちから何か言うことにする。
「お父上は、お元気ですか」
ええ、と元次郎様は、また周囲に聞こえるほどの声を出したわ。
「最近まで江戸に行っとりましたばってん、帰ってきてからなぜか機嫌の悪かですよ。同僚の方たちと、連日何やら話し合いばしとります」
何か思い出したらしく、元次郎様は嘆息まじりに愚痴を述べる。
「まったく、お客様の多うて、こっちは気が休まらんですよ」
他の大通詞である石橋助左衛門様、元木庄左衛門様といった長崎の重鎮が、このところ頻繁に名村様のお屋敷を訪れているんですって。そして名村様は女中をお座敷にお近づけにならないので、元次郎様がお茶を出さなくてはならないんですって。
「そいで、皆さん、どうも最近の船は様子のおかしかて仰っとるんですよ」
元次郎さんはおもむろに何かを指さした。
出島の西南側の角だわ。
私には蔵の黒い羽目板と漆喰の白壁しか目に入らなかったけど、元次郎様がおっしゃったのはその向こう、沖に停泊してる二隻の大船のことのようだった。
「あいらは一体、どこの船ですやろか。何かおかしかです。船員の、オランダ語ば話す者のほとんどおらんですけん」
元次郎様のおっしゃりたいことが、私にはよく分からなかった。
「夏のはじめに長崎に来たマウント・ヴァーノン号、後から来たスザンナ号とも、カピタン様はバタヴィアから来たオランダ船ておっしゃっとります」