第44話 はじめまして、ヤパン
文字数 3,524文字
僕は晴れ晴れとして、ナガサキ行きの船に乗った。
これからは良い国に行けるんだと思った。こんなに前向きな気分になれたのは、東インドに来てから初めてのような気がするよ。
バンカ海峡を抜けて台湾海峡に向かう頃、船内に日本の事情に詳しい者がいると聞いた。
そいつは服の仕立てをする縫物師で、すでに何度もバタヴィアと日本とを行き来しているという。
僕はその男に部屋まで来てもらった。
ムハマッドにも楽しい話を聞かせてやるつもりだった。しかし髭面のディック・ファン・デル・モーレンは、そんな僕の前で思わせぶりに笑うんだ。
「水を差すようですがね、ドゥーフさん。そんなに甘くありませんぜ。相当に我慢強くなければ、ヤパン在住は無理です」
それを皮切りに、ディックは日本の悪口をぽんぽん言い出した。
「ろくでもない国ですよ。出島は監獄のようなものでね、常に役人の監視下に置かれますし、市中への外出は、まあ通常はできないと思って下さい」
彼が言うには、日本は異国との交易において、清国とほぼ同じやり方を取っているという。基本的に商業取引はすべて商館内で行うが、そこには幕府の許可を得た役人と商人がやってくるだけ。こちらから新たな取引先を開拓する道はないらしい。もちろん市中を見物しに行くとか、飲みに出かけるといった自由もない。
「娼婦とは遊ばせてもらえますがね、彼女たちはどうせオランダ語もできませんし、乳繰り合ったところで面白くも何とも……」
「い、いや、そういう話はちょっと」
僕は慌ててディックを制した。子供が聞いてるんだから、頼むよ、ちょっとは気を遣ってくれ。
だけどディックはどうしても僕を揶揄 いたいらしい。強引に話を続けたよ。
「ヤパンの人間は特に、外国人に女を抱かせれば自分たちに都合良く扱えると考えているふしがありますね。だからあなたも偉くなれば、やりたい放題できますよ。気に入った女を側に置いて、身の回りの世話をさせることだって」
「そのぐらいにしてくれないか」
僕は咳払いで中断させた。
「オランダ人の品性が疑われるじゃないか」
やれやれ、だよね。僕は日本の実態を知らないけど、それが本当ならオランダ人を悪魔の元へ懺悔に行かせるも同然の所業だと思うよ? 第一、そんなことで向こうに有利な取引をするいわれはない。
「ドゥーフさんは真面目なんですねえ」
ディックは笑いをこらえている。
「どっちにしても、出島のオランダ人は日本人に対し徹底服従するより他ないんですよ。商館長自らが、皇帝の居住するエドの町まで長旅を強いられるほどです。オランダへの交易許可に対する返礼をしなければなりませんのでね」
ふうん、と今度は素直にうなずいておいた。
なかなか厳しい国らしいな。確かにそれなりの覚悟はいるだろう。
幸い僕の乗った船は、敵の襲撃を受けることも座礁することもなく、日本の沿岸を見るに至った。
船上からはるかにナガサキを見渡したとき、僕は何より青空に翻る祖国の旗を見て感動した。
まぎれもなく横向きの赤、白、青。オランダの旗は世界最古の三色旗だ。
レヘントに愛国心を強要されるのとはまったく関わりなく、やっぱりこれが自分の祖国だと思うんだ。一番上の色は、古くはオラニエ・ナッサウ家の象徴であるオレンジ色だったが、褪色しやすいなどの理由で赤に置き換えられたと聞いている。
それゆえ、あの旗を縦に掲揚したらフランス国旗になってしまう結果となったが、そんなことはさせてたまるかと思う。
港から少し離れた所で投錨すると、日本の役人たちがこちらの船に乗り移ってきた。あまりに礼儀正しいので、こちらが気圧されるほどだった。
おお、これがサムライか。まさにケンペルの本にあった通り、礼節の国なんだな。
彼らの格好は、やはり珍しく見えた。僕はさまざまな人種を見てきたし、日本については少し予習もしてきたわけだけど、それでも本物を見るというのは迫力が違うよ。
彼らは頭頂部を剃って後ろの髪束を載せ、動きにくくとも常に武器を携行し、ずいぶんと幅広のブローク(ズボン)を穿いている。
だが奇異な感じがしないのは、彼らがあくまで堂々としているからだろう。かつてヨーロッパの圧力を跳ね返した自負が、今も彼らの中に生きているのかもしれないな。
自然とこちらも襟を正すことを求められた気がして、僕は丁重に手を差し伸べた。
「初めまして、ヤパンのみなさん。あなた方に出会えたことを、僕は誇りに思います」
握手の意味は分かるらしい。人々は意味不明の薄笑いを浮かべつつ、順番に僕の手を握り返してくれた。
やがて一人の男が遠慮がちに出て来て、僕たちに挨拶をしてくれたが、それはお世辞にも上手いとは言えないオランダ語だった。
「お待ち……して……おりました。ようこそ……ヤパンへ。カピタン様」
皆で新カピタンを心待ちにしていたことは分かったが、その言葉に僕は慌ててしまった。
「いや、申し訳ないが、僕はカピタンではないんだ」
今回はとりあえず様子を見に来ただけなんだと、僕は手短に事情を説明した。だけど、人々はどこまで聞き取ってくれているんだろう? どうも反応が薄いみたいだった。
おかしいな。この人たちはオランダ語専門の通訳官だそうで、長崎では非常に高い地位にあるとも聞いたんだけど、その語学力には少々疑問符が付きそうだ。
それはさておき、僕がもう一つ驚いたことがある。
僕が話している間、人々はひたすらまぶしそうにこっちを見つめてくるんだ。まるで僕が聖書の一節を暗唱でもしているかのように、一言も聞き逃すまいと集中して耳を傾けてくれる。オランダ語がまったく話せない者までが、そうしてくれている。
へえ、と思った。
僕がオランダ人ってだけで、彼らはこんなに尊敬のまなざしを向けてくれるのか。そんなにも世界帝国オランダはすごいってことになってるのか。
確かにこれじゃ本当のことは言えないよな。オランダがすでに斜陽国家だって知ったら、日本人は手のひらを返したように冷たくなるに違いない。
言葉のやり取りが不自由なのは、かえって好都合ということなんだろうか。
いや、だけど取引のこととか、大事な話もあるよな?
やっぱり通じないのは困る。絶対に困る。今までどうしてきたんだ?
僕が不安になったその時、別の用事を片付けていたという一人の日本人が合流した。
「遅れて申し訳ありません、カピタン様」
このオランダ通詞はなかなか流暢で発音もきれいだったので、僕はほっとした。人によって語学力に差があり、ここぞという場面に出てくる奴がいるんだろう。そうでなきゃ、これまでやってこられなかったはずだ。
名村多吉郎、とその男は名乗った。
「タキチロー?」
「はい、多吉郎です。カピタン様」
「だからカピタンじゃないんだって」
ちなみに「オランダ」という国名からしてそうだが、この国ではポルトガル語の言い回しが結構残っており、商館長 はカピタンと呼ばれるそうだ。
しかし僕が笑顔を振りまいていられたのは、つかの間のことだった。
上陸してすぐに、出島商館の惨状を目にした僕は絶句した。これは予想を上回るひどさだ。
あちこち草が伸び放題。窓は割れ、壁は煤けて、ほとんど幽霊屋敷じゃないか。
住んでいるオランダ人は全員顔色が悪く、ひどくやせこけていて、まさに亡霊のようだった。
「……よく来てくれた。よく」
よろよろと進み出てきたのは、レオポルド・ウィレム・ラスさんという人だった。書記役から臨時の商館長に昇格している人で、僕も事前に名前だけ聞いていた。
こう言っては悪いけど、この人、髪も髭もだらしなく伸び放題だ。商館長という立場にありながら、一目で荒れた生活を感じさせる。
初対面だというのに、ラスさんは力まかせに僕を抱きしめ、おいおいと泣き出してしまった。
「オランダ人が……ああ、オランダ人が来てくれた」
頭がおかしいんだろうか。どうも普通じゃないよ。
「そうですよ。オランダ人が来たんですよ。もう大丈夫ですよ」
僕はラスさんを落ち着かせようと、彼の背中をさすったんだけど、この人、風呂にも入っていないのかな。何だか異臭がするよ。
ラスさんの肩越しに、集団でこっちを見つめている日本人の姿が見えた。
彼らは浮浪者のようなオランダ人を見て幻滅してるんだろうか。僕は恥ずかしくて、この場で消え入りたくなったよ。
とにかくボロボロの商館の中に入ることにして、僕はラスさんの肩を抱くようにして誘った。ムハマッドはもう心得たもので、僕の後に籠を抱え、しっかりと付いて来ている。
「パンもチーズも持ってきましたよ。さあ心置きなくオランダの味をお楽しみ下さい」
これからは良い国に行けるんだと思った。こんなに前向きな気分になれたのは、東インドに来てから初めてのような気がするよ。
バンカ海峡を抜けて台湾海峡に向かう頃、船内に日本の事情に詳しい者がいると聞いた。
そいつは服の仕立てをする縫物師で、すでに何度もバタヴィアと日本とを行き来しているという。
僕はその男に部屋まで来てもらった。
ムハマッドにも楽しい話を聞かせてやるつもりだった。しかし髭面のディック・ファン・デル・モーレンは、そんな僕の前で思わせぶりに笑うんだ。
「水を差すようですがね、ドゥーフさん。そんなに甘くありませんぜ。相当に我慢強くなければ、ヤパン在住は無理です」
それを皮切りに、ディックは日本の悪口をぽんぽん言い出した。
「ろくでもない国ですよ。出島は監獄のようなものでね、常に役人の監視下に置かれますし、市中への外出は、まあ通常はできないと思って下さい」
彼が言うには、日本は異国との交易において、清国とほぼ同じやり方を取っているという。基本的に商業取引はすべて商館内で行うが、そこには幕府の許可を得た役人と商人がやってくるだけ。こちらから新たな取引先を開拓する道はないらしい。もちろん市中を見物しに行くとか、飲みに出かけるといった自由もない。
「娼婦とは遊ばせてもらえますがね、彼女たちはどうせオランダ語もできませんし、乳繰り合ったところで面白くも何とも……」
「い、いや、そういう話はちょっと」
僕は慌ててディックを制した。子供が聞いてるんだから、頼むよ、ちょっとは気を遣ってくれ。
だけどディックはどうしても僕を
「ヤパンの人間は特に、外国人に女を抱かせれば自分たちに都合良く扱えると考えているふしがありますね。だからあなたも偉くなれば、やりたい放題できますよ。気に入った女を側に置いて、身の回りの世話をさせることだって」
「そのぐらいにしてくれないか」
僕は咳払いで中断させた。
「オランダ人の品性が疑われるじゃないか」
やれやれ、だよね。僕は日本の実態を知らないけど、それが本当ならオランダ人を悪魔の元へ懺悔に行かせるも同然の所業だと思うよ? 第一、そんなことで向こうに有利な取引をするいわれはない。
「ドゥーフさんは真面目なんですねえ」
ディックは笑いをこらえている。
「どっちにしても、出島のオランダ人は日本人に対し徹底服従するより他ないんですよ。商館長自らが、皇帝の居住するエドの町まで長旅を強いられるほどです。オランダへの交易許可に対する返礼をしなければなりませんのでね」
ふうん、と今度は素直にうなずいておいた。
なかなか厳しい国らしいな。確かにそれなりの覚悟はいるだろう。
幸い僕の乗った船は、敵の襲撃を受けることも座礁することもなく、日本の沿岸を見るに至った。
船上からはるかにナガサキを見渡したとき、僕は何より青空に翻る祖国の旗を見て感動した。
まぎれもなく横向きの赤、白、青。オランダの旗は世界最古の三色旗だ。
レヘントに愛国心を強要されるのとはまったく関わりなく、やっぱりこれが自分の祖国だと思うんだ。一番上の色は、古くはオラニエ・ナッサウ家の象徴であるオレンジ色だったが、褪色しやすいなどの理由で赤に置き換えられたと聞いている。
それゆえ、あの旗を縦に掲揚したらフランス国旗になってしまう結果となったが、そんなことはさせてたまるかと思う。
港から少し離れた所で投錨すると、日本の役人たちがこちらの船に乗り移ってきた。あまりに礼儀正しいので、こちらが気圧されるほどだった。
おお、これがサムライか。まさにケンペルの本にあった通り、礼節の国なんだな。
彼らの格好は、やはり珍しく見えた。僕はさまざまな人種を見てきたし、日本については少し予習もしてきたわけだけど、それでも本物を見るというのは迫力が違うよ。
彼らは頭頂部を剃って後ろの髪束を載せ、動きにくくとも常に武器を携行し、ずいぶんと幅広のブローク(ズボン)を穿いている。
だが奇異な感じがしないのは、彼らがあくまで堂々としているからだろう。かつてヨーロッパの圧力を跳ね返した自負が、今も彼らの中に生きているのかもしれないな。
自然とこちらも襟を正すことを求められた気がして、僕は丁重に手を差し伸べた。
「初めまして、ヤパンのみなさん。あなた方に出会えたことを、僕は誇りに思います」
握手の意味は分かるらしい。人々は意味不明の薄笑いを浮かべつつ、順番に僕の手を握り返してくれた。
やがて一人の男が遠慮がちに出て来て、僕たちに挨拶をしてくれたが、それはお世辞にも上手いとは言えないオランダ語だった。
「お待ち……して……おりました。ようこそ……ヤパンへ。カピタン様」
皆で新カピタンを心待ちにしていたことは分かったが、その言葉に僕は慌ててしまった。
「いや、申し訳ないが、僕はカピタンではないんだ」
今回はとりあえず様子を見に来ただけなんだと、僕は手短に事情を説明した。だけど、人々はどこまで聞き取ってくれているんだろう? どうも反応が薄いみたいだった。
おかしいな。この人たちはオランダ語専門の通訳官だそうで、長崎では非常に高い地位にあるとも聞いたんだけど、その語学力には少々疑問符が付きそうだ。
それはさておき、僕がもう一つ驚いたことがある。
僕が話している間、人々はひたすらまぶしそうにこっちを見つめてくるんだ。まるで僕が聖書の一節を暗唱でもしているかのように、一言も聞き逃すまいと集中して耳を傾けてくれる。オランダ語がまったく話せない者までが、そうしてくれている。
へえ、と思った。
僕がオランダ人ってだけで、彼らはこんなに尊敬のまなざしを向けてくれるのか。そんなにも世界帝国オランダはすごいってことになってるのか。
確かにこれじゃ本当のことは言えないよな。オランダがすでに斜陽国家だって知ったら、日本人は手のひらを返したように冷たくなるに違いない。
言葉のやり取りが不自由なのは、かえって好都合ということなんだろうか。
いや、だけど取引のこととか、大事な話もあるよな?
やっぱり通じないのは困る。絶対に困る。今までどうしてきたんだ?
僕が不安になったその時、別の用事を片付けていたという一人の日本人が合流した。
「遅れて申し訳ありません、カピタン様」
このオランダ通詞はなかなか流暢で発音もきれいだったので、僕はほっとした。人によって語学力に差があり、ここぞという場面に出てくる奴がいるんだろう。そうでなきゃ、これまでやってこられなかったはずだ。
名村多吉郎、とその男は名乗った。
「タキチロー?」
「はい、多吉郎です。カピタン様」
「だからカピタンじゃないんだって」
ちなみに「オランダ」という国名からしてそうだが、この国ではポルトガル語の言い回しが結構残っており、
しかし僕が笑顔を振りまいていられたのは、つかの間のことだった。
上陸してすぐに、出島商館の惨状を目にした僕は絶句した。これは予想を上回るひどさだ。
あちこち草が伸び放題。窓は割れ、壁は煤けて、ほとんど幽霊屋敷じゃないか。
住んでいるオランダ人は全員顔色が悪く、ひどくやせこけていて、まさに亡霊のようだった。
「……よく来てくれた。よく」
よろよろと進み出てきたのは、レオポルド・ウィレム・ラスさんという人だった。書記役から臨時の商館長に昇格している人で、僕も事前に名前だけ聞いていた。
こう言っては悪いけど、この人、髪も髭もだらしなく伸び放題だ。商館長という立場にありながら、一目で荒れた生活を感じさせる。
初対面だというのに、ラスさんは力まかせに僕を抱きしめ、おいおいと泣き出してしまった。
「オランダ人が……ああ、オランダ人が来てくれた」
頭がおかしいんだろうか。どうも普通じゃないよ。
「そうですよ。オランダ人が来たんですよ。もう大丈夫ですよ」
僕はラスさんを落ち着かせようと、彼の背中をさすったんだけど、この人、風呂にも入っていないのかな。何だか異臭がするよ。
ラスさんの肩越しに、集団でこっちを見つめている日本人の姿が見えた。
彼らは浮浪者のようなオランダ人を見て幻滅してるんだろうか。僕は恥ずかしくて、この場で消え入りたくなったよ。
とにかくボロボロの商館の中に入ることにして、僕はラスさんの肩を抱くようにして誘った。ムハマッドはもう心得たもので、僕の後に籠を抱え、しっかりと付いて来ている。
「パンもチーズも持ってきましたよ。さあ心置きなくオランダの味をお楽しみ下さい」