第34話 VOCの実態

文字数 2,676文字

 VOC、すなわち連合東インド会社は、世界初の株式会社とも言われる組織だ。

 植民地で何やらひどい行為を繰り広げてきたらしいが、何ぶん現場が遠すぎて僕たちには情報が届かない。ただ、ここに至って一部でささやかれる評判の悪さを気にしても始まらないだろう。

 この会社はまさに、オランダの繁栄を築き上げた黄金時代の主役だと思う。 
 アムステルダムの支部(カーメル)はその中でも最大の組織で、事実上の本社機能をなしているんだって。赤レンガの威容を誇る社屋を前にしただけで、何だかこう、身が引き締まる。
 中に案内される時なんか、僕もアントンも体が強張って言うことを聞かないぐらいだった。

 生まれて初めて木靴を脱ぎ、革靴を履いた。
 おどおどしてる場合じゃないよね。執務室は思ったより殺風景だったが、とにかくこれからは羊毛と機織り機ではなく、羽ペンと書類が仕事道具だ。

 せっかく気合を入れたのに、初日から厳しい現実を見せつけられた。
 同じ新入社員なのに、やたらと威張ってる連中がいるんだ。僕もアントンもほとんど強制的に隅に追いやられ、遠慮していなければならなかった。

 あれは何だろう? 僕たちはぽかんと口を開けて、その不遜な連中を見ていた。彼らは当然のように一番良い場所を陣取っているし、他の者に命令する権利もあるらしい。

 理由はすぐに分かった。
 彼らは上級商務員だったんだ。
 上級商務員はレヘントの縁故採用、下級商務員は庶民の若者。厳然たる区別があって、入社後の出世の有無にも大きく関わる。商務員の中でも大きな待遇差があるということだ。

 僕やアントンはもちろん下級商務員。この事実を知っただけで、目の前の光が一つ消えたような気がしたよ。
 だが商務員になれた者は、まだいい方だったのかもしれない。

 二人で敷地内をうろついていたら、倉庫の近くで妙なものを見た。
 縄で後ろ手に縛られた男が泣き叫びながら、数人の職員に連行されているんだ。男はわめき暴れていて、職員たちは引っ張って連れて行くのに苦労している。僕とアントンは呆気に取られてその様子を見ていた。
 人々が倉庫の中に入り、バタンと扉が閉まった時にようやく、二人は顔を見合わせたよ。

 宿舎に戻った時、事情に詳しい奴に話を聞くことができた。
「ああ、そりゃ脱走者だよ。おそらく水夫か、兵士のどちらかだ」

 それは衝撃的な話だった。ただでさえ若い男は軍隊と奪い合いになっていて、船でこき使われると分かっている職種についてはなかなか人が集まらない。だから会社側はごろつき同然の者をかき集め、一緒くたに倉庫に閉じ込めているそうだ。

「水夫と言っても、今は女だって少なくないんだぜ?」
 そいつは意味ありげにニヤリと笑った。
「だけどお前ら、航海中に自分の船室に連れ込もう、なんて考えるなよ。丸太みたいに屈強な女ばかりだ。殴られて終わりだよ」
 といっても、水夫には男の老人や子供の方が多いそうだ。脱走を防ぐため鎖で縛られていて、ほとんど自由はないという。

 水夫不足の問題は、僕たちにも直接降りかかってきた。
 帆のたたみ方や縄の結い方などの訓練をさせられる中で、そのことがよく分かった。要するに、船上ではとても手が足りない。僕たち下級商務員も手伝わねばならない。だから船員としての基礎も一通り身につけねばならないってわけさ。
 
 問題はまだある。会社雇いの兵士も人員不足であることは同じなんだ。
 海を越えた交易には常に危険が付きまとうもので、船や貨物、人員を守る武力というのは、会社にとってなくてはならないもの。しかしそれが足りないんだから、どうしようもない。

 つまり、僕たちは兵士としても使えるように訓練された。
 研修と称して、僕たちは大砲の清掃や、白兵戦を踏まえた剣の実技も、毎日やらされるんだ。誰がどう見ても、戦闘訓練だよね。
 僕たちは軍隊を避けたつもりだったのに、やっぱり戦争をやらされるんだ。もちろん、海上で敵国の船に襲われでもすれば、全員が剣を抜いて戦うのが当然かもしれないけど。

 それから、いくつか不気味な噂話も耳にした。
 嵐で船が沈むことは、航海術の発達した今でも多いそうだ。インド航路にはたくさんの難所があって、すでにおびただしい数のオランダ船が波に飲み込まれ、オランダの船乗りたちの亡霊が世界中をさまよっているという。

 もちろん怪物やら人魚やらの話も混じってのことだから、一体どこまでが本当のことなのか分からない。
 でもオランダを出航するといきなり北海、ドーヴァー海峡といった荒れやすい海にさしかかるのは確かなんだよね。他にもアフリカ南端、喜望峰周辺の海に、コロマンデル海岸やベンガル湾。物語に聞く難所は数え切れない。

 アントンは期待が大きかったからだろうな。実態を知れば知るほど落胆してしまって、膝を抱えて落ち込んでいた。
「……ごめん、ヘンドリック。とんだ所へ誘い込んじまったようだ」
 彼は悔いていた。この先の地獄を感じ取り、もうやめて帰ろうかなどと言いだす時もあった。帰る所などあろうはずもないのに。

「僕は後悔してないよ」
 僕はアントンの背中を軽く叩いた。厳しい話を聞いて、僕の方がかえって覚悟を決められたのは自分でも意外だったね。
「むしろ、よくぞ誘ってくれたと思ってる。あとはインドで頑張るのみだ」

 僕の念頭にあったのは私貿易のことだ。これも事情に詳しい同僚に聞いたんだが、確かにそういう旨味があるのなら、命を賭けて植民地にまで行く価値はありそうだと感じた。アントンだって一発当てたいとか何とか言っていたんだから、まさにこれを想定してたんじゃないか?

 私貿易とは、危険と引き換えに約束された金儲けの道だ。かつて植民地の成功者と呼ばれる人々がその道筋をつけてきたという。
 まずはオランダにいるうちに、植民地で売れそうな物を個人の手回り品としてこっそり船に持ち込み、現地に付いたらそこの商人にさばいてもらうんだ。東インドではさらに現地の域内貿易に個人的に参入し、より多くの利益を手にすることができる。

 船も航海の費用も会社持ちである以上、現在これは規約で禁じられている。つまり密貿易になってしまうので、絶対に手を出さないようにって僕も言われたよ。

 でも実際には、上は植民地の総督から下は給仕係まで、みんなやってるそうなんだ。
 そりゃそうだと思うよ。だって薄給の社員が少しでも蓄財をしようと思ったらこれしかないんだし、庶民の男がひとたびレヘントの睨みの効いていない世界の海へ飛び出したら、自分の才覚で道を切り開くのは当たり前じゃないか。

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