第35話 さよならオランダ

文字数 2,983文字

 出発を目前にした初冬のある日、僕とアントンは村に帰り、家族親戚に別れの挨拶をして回ることにした。

 言い出したのはアントンだ。僕の肩をつかみ、最後ぐらいきちんとけじめをつけて旅立とうと提案してきた。

 僕は気が進まなかった。
「冷たくされて、今さら顔を合わせたくない奴もいるからな……」
 ぐずぐず言ってたら、アントンにびしっと叱られたよ。
「そんなこと言ってる場合かよ! もう二度と会えないかもしれないんだぞ」
 彼の言う通りだった。さすがはアントン。僕よりずっとしっかりしてるよ。

 だけど実家のドゥーフ家の晴れがましさは想像以上で、僕は少なからず閉口した。
「頑張って行って来なさいね」
 と、兄嫁のヨハンナが満足気に言う。
「お船では、おいしい食事が出るんですってね? まあうらやましいじゃないの。私が代わって行きたいぐらいだわ」
 心にもないことをよくも、と思ったが、口答えできる立場じゃない。もはや諦めの境地で黙ってたよ。

 だけど兄のアレクサンダーまでがほっとした様子だったのは、何とも悲しかった。実の兄がそんなに僕を厄介払いしたがっているとは思わなかったよ。

 二人とも、肩から荷を下ろした気分だったんだろう。引っ込み思案で、冒険なんか好きじゃないこの僕が、死を覚悟の上で植民地に向かうのを知ってるはずなのに。

 だけど他の村人たちも楽観論を口にするのは同じだった。
 船旅は大変だろうが、今は航海術も発達した。沈むことはまずないだろう。
 病気も少なくなった。植民地では食べ物に困るようなことはない。栄養状態も良くなるから、むしろ本国にいる時より健康になれるだろう。

 みんな驚くほど前向きなことを言うんだ。僕がインドで死ぬことを、心のどこかでは予想しているはずなのに。下手をすれば、インドにたどり着く前に船ごと海の藻屑と消えるかもしれないのに。
 いや、たぶん死ぬと思うからこそ、せめてもの慰めの言葉をくれたというところかもしれない。

 切り捨てられるって、こういうことなんだろうか。
 僕もアントンも、自分たちの置かれた立場をこれでもかというほど再認識させられて、帰り道では言葉少なだったよ。

 それでも僕は、こんな冷たい村に帰りたくないとは思わなかった。むしろ涙が出そうなほど切実に、生きて帰りたいと思った。
 船が難破しようと病気に倒れようと、僕は這ってでもここへ帰ってくるよ。
 アントンが一緒で良かった。せめて自分が一人じゃないことを、神に感謝したい。

 最後に二人で、運河の堤の土手に登った。この村の風景を記憶に刻みつけておきたかった。ここを好きだと思ったことはなくても、自分たちが生まれ育った土地に違いないんだ。

 背の高いポプラ並木の上に大きな雲が流れ、運河の水面にも同じ雲の姿が映っている。遠くには城壁。これが僕たちの故郷だ。

 この運河で、僕自身も櫂を操り、たくさんの毛織物を運んできた。先祖代々、命を削るようにして織り上げてきた毛織物だった。

 子供の頃、まだ存命だった祖母が暖炉の脇で語ってくれたのを思い出す。
 この家がどんな風に毛織物に携わってきたか。
 始まりは、オランダの毛織物産業の夜明けとほぼ同時だ。

 それは今から二百年以上も前にさかのぼる。

 南ネーデルラントがスペイン、ハプスブルク家に統治されていた16世紀。かの地ではゴイセン(カルヴァン派新教徒)が多かったために、カトリックの王とその一派による専制政治と相いれなかったらしい。恐ろしい宗教弾圧が繰り広げられた。

 南ネーデルラントでは、古くからフランデレン、ブラバントといった町に毛織物業に従事する商工者集団がいた。彼らは処刑を逃れようと、命からがら北ネーデルラントの町に移った。うちのご先祖も、アントウェルペンの町を脱出する時には異端審問にかけられる寸前だったそうだ。
 
 アムステルダムやレイデンといった町の発展はここから始まる。ちなみに今のオランダの諸州がスペインに対して独立戦争を仕掛けたのは、その後のことだ。

 だが人々が逃げた先は、暮らしにくい低地だった。オランダ人は巨大な風車で干拓を繰り返し、抑圧から解放される日を信じて羊を追い、糸をつむぎ、機織りをした。

 泥と羊とともにあるその生き様は、脈々と子孫に受け継がれてきたと言っていいだろう。僕の祖母も、村で一番厳格で抑圧的な人だと言われていた。子供の僕にも厳しかった。たぶんあれは、謹厳でなければ生き残れなかった織元の血筋がなせる技だったんじゃないだろうか。

 オランダの歴史の中で、大多数の庶民はずっと厳しい暮らしを強いられた。
 しかしその一方で、この国は奇跡の繁栄を見た一時期がある。

 スペインの圧政から解放された17世紀のことだ。オランダ人は弾けるような自由を謳歌した。アムステルダムは急成長して巨大都市となり、ヨーロッパ全体の政治経済の中心となっていった。
 VOCも商業銀行も、みんなこの時代にできたという。豊かになったオランダは、科学も軍事も芸術も世界最高のものを生み出した。

 今でもごく普通のオランダ人の家に、「黄金時代」の世界地図がよく飾られている。そこには必ずオランダの三色旗を掲げた帆船が描かれていて、ヨーロッパから新大陸、東インドを自由に駆け巡ってるよ。
 オランダが世界を制した時代が、かつては本当にあったんだ。

 だけど僕は、そんな話を聞いてもどこか冷めた気分になってしまう。
 自分たちの知らない過去の栄光。少なくとも僕には関係なかった。上の世代がこの国の繁栄を誇らしげに語るとき、オランダが世界一だとか何とか、得意になって言い出すとき、僕は少なからず反抗心を抱いてきたと言っていい。とっくに他の国に抜かれているのに、オランダのどこがそんなに優れているっていうんだ?

 だけど僕も、いざ新天地を目指すことになった。先祖と同じ、波乱万丈の道を行くんだ。そんな冷めた態度は改めなければならない。

 といっても、過去の栄光にすがり付こうというわけじゃない。今の時代にふさわしいように、謹厳実直にやっていこうと思うんだ。僕のようなオランダの若者に求められているのは、無理やりにでも土地を切りひらき、泥にまみれても生き抜いてきた昔のオランダ人の強い精神力じゃないだろうか。

 出航は、1797年のクリスマスだった。
 エイマイデンの港に集結した船団は四隻。どの船にも三色旗とVOCの社旗が翻ってる。
 粉雪の混じる、寒風吹きすさぶ中ではあったが、総帆展帆がなされると、それぞれ貴婦人に例えられる優美な姿ができあがった。

 祝砲が上がる。
 足元の床が大きく揺れ動き、本当に船が動き出したと分かった。
 街並みや埠頭が遠ざかっていく。船上に張り巡らされた縄は凍りついて霜がこびりつき、白い帆に細かな雪が叩きつけられている。

 聖誕の祝祭に沸く町の喧騒はもう見えないのに、船上の人々は未練がましく、陸地に心細い目を投げかけている。
 アントンもその場からまったく動こうとしないので、僕は人だかりからそっと離れた。
 そして、一人だけ反対側の舷側に回ったんだ。

 目の前は果てしない海。
 でも僕は、もう前しか見ようとは思わない。オランダ人であればこそ、振り返らずに新天地を目指すんだ。僕の目指す土地は、この先にきっとある。

 冬の北海は灰色の空に覆われ、水平線も定かではない。
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