第29話 言い争い
文字数 2,572文字
二隻の船が水平線の彼方へ去った後は、急に冷たい風が吹き抜けるようになった。
出島の遊女の顔ぶれはだいぶ変わったけど、私はカピタン部屋での同棲を続けてる。
その日もおもんにせがまれて、私は長椅子で絵本を読み聞かせてた。途中でヘンドリックが部屋に入ってきたわ。
いつもならすぐに机に向かうんだけど、今日はどうしたのかしら。彼は私たちの前まで来て、立ったままこちらを見下ろしてる。
私はおもんへの語りかけを続けながら、目だけを上げた。
するとヘンドリックは、いつになく冷ややかな口調で告げてきたの。
「通詞に、いろいろ聞かれて困ったよ」
どきりとした。ヘンドリックが怒ってるのが分かったから。
私の声が止まり、おもんが不思議そうに見上げてきた。
一体何が始まるんだろう? 私は頭上に暗雲が垂れ込めてくるような気がしたわ。
ヘンドリックは構わず、手を後ろで組んでコツコツと不穏な靴音を鳴らし、部屋の中を歩き回った。
「確かにこん夏、来とったのは、フレデニーレ・スターテュン(アメリカ)とデーネマルケン(デンマーク)の船じゃ。ばってんそいは、そがんに責められる事柄じゃなか。ヤパンに損害ば与える話じゃなかのやし、お奉行様の許可ならちゃんと得とう」
本を持つ私の手がわずかに震え、かさかさと音を立てた。
ヘンドリックの言ってること、私には半分も理解できない。だけど何となくピンときたわ。あれから少し時間が経ったけど、私が不用意に元次郎様の前でしゃべったことに、何か問題があったんじゃないかしら。
もちろん、そんなに悪いことをしたつもりはなかった。たぶん元次郎様も情報源を漏らしたわけじゃないでしょうけど、追い詰められたヘンドリックは何かを察してしまったのよ。
ヘンドリックは静かな怒りを滲ませて、早口でまくし立てたわ。
「我が国は交戦中であるゆえ、ヘンミー商館長の時代にお奉行様と協約ば結んだ。乗組員のうち最低二人がオランダ人であること、積荷はすべてオランダのものであるとの保証をつけることを条件とし、我々は中立国に籍を持つ船の、長崎入港の許可ば得たんじゃ」
大声ではなかったけど、ヘンドリックはいつもの冷静さを完全に失ってる。私に分かったのは、お役人みたいな冷たい口調が次第に熱を帯びていく、あくまで感情的な部分だけよ。
くるり、とヘンドリックは私の方に向き直った。
「そいやとに、ヤパンはなして、オランダば信じてくれなかと?」
ヘンドリックの全身から棘が出てるように見えたわ。
私は唇を噛み締めた。こんなのは初めてのことよ。彼は身請けまでしてやった女に裏切られたと感じたのかもしれない。
ヘンドリックと私とは、力関係に歴然とした差があった。
私は過酷な場所にいたんだもの。経験的に分かってることがある。こういう場合、まずは相手の感情をやり過ごさなくちゃならないの。何一つ言い返してはならないのよ。
私は目を反らし、一切の表情を消した。あとは身じろぎもしないわ。
「おもん」
ヘンドリックは自分をポカンと見上げている娘の頭を撫でた。
「向こうでムハマッドと遊んでおいで」
私は余計に嫌な予感がしたわ。二人きりになったら、ヘンドリックはついに私を殴るのかしら。
おもんはちょっと不服そうな顔をしたけど、ヘンドリックに呼ばれたムハマッドが迎えに来た上、父親にちょんと背中を押されたから、大人しく部屋を出て行ったわ。
私は身構えてた。すぐに恐ろしい事態が襲ってくることを覚悟してた。
だけどヘンドリックは私の隣に静かに腰を下ろし、片腕を背もたれに回しただけだった。
「オリオノは僕の妻て言うたやろ? なしてヤパンの役人と親しくする?」
息がかかりそうなほど近くから、ヘンドリックは私の顔を覗き込んできた。まだ感情的なものを引きずってるようだったけど、聞いてきたその内容は奇妙なものだったわ。
何を言ってるんだろうって思った。
確かに私、ちょっとだけオランダに不利になるようなことを口にしたのかもしれないけど、そもそも私は日本人よ? ヘンドリックは、それを忘れてしまったわけではないでしょうに。
私は伏せていた目を上げ、勇気を振り絞って彼を見返したわ。
「……だって、そりゃ、ヤパンのお役人様に頼まれごとばしたら、うちは断れませんけん」
「脅されたのか!」
ヘンドリックは目を見開いた。本気で驚いたみたいだった。
「困った時は僕に言え。僕がオリオノのこと、守る」
そう言って、自分の胸を叩いてみせるの。それも本気で言ってるのか、私からすれば疑わしいものだったわ。
「……あなたがヤパンにいらっしゃる間は、そいで良かですばってん……」
私は口をつぐみ、やがて苦笑しちゃったわ。
「だってそうでしょう? あなたはいつか、お国に帰る。うちはずっとヤパンで暮らす。やけん、ヤパンのお役人様に楯突くことは絶対にできません」
いつしか、私もイライラしてた。みなまで言わせるなって感じよ。
私はいずれ一人になって、誰にも守ってもらえなくなる日が来るの。そのとき、この国の偉い人に睨まれてたら困るでしょ。当たり前のことよ。
思った通り、ヘンドリックは沈黙したわ。
痛いところを突かれたからでしょう。
そうよ、彼だって知らないはずはないの。私たちにはいつか必ず別れる日が来るってね。
ただ考えないようにしてるんだと思う。世の中の大多数の男は、都合の悪いことから逃げようとするものよ。
だけどヘンドリックが私を責めるのなら、私だってこの人を許さない。
「うちのことば助けて下さったこと、あなたには感謝しとります。ばってん一つだけ、言うとくことがあるばい」
金銭的なことは私だって言いにくいけど、何より大事なことよ。この際、はっきり言わせてもらおうじゃないの。
「あなたはご帰国のあと、おもんちの面倒ば、うちに押し付くる気ぃね?」
そうよ、これがずっと気になってたこと。
思った通り、ヘンドリックはさっと青ざめた。
こうなったら立場が逆転よ。ヘンドリックはうつむいて黙り込み、私の方が唾を飛ばす勢いでまくし立てたわ。
「だったら、相応の銭ば置いてってくれんね! うちへの手切れ金だけじゃ済まんばい。うちも精一杯やってはみますばってん、生活の回らんようになれば、あん子の将来は保証できませんけんね」
出島の遊女の顔ぶれはだいぶ変わったけど、私はカピタン部屋での同棲を続けてる。
その日もおもんにせがまれて、私は長椅子で絵本を読み聞かせてた。途中でヘンドリックが部屋に入ってきたわ。
いつもならすぐに机に向かうんだけど、今日はどうしたのかしら。彼は私たちの前まで来て、立ったままこちらを見下ろしてる。
私はおもんへの語りかけを続けながら、目だけを上げた。
するとヘンドリックは、いつになく冷ややかな口調で告げてきたの。
「通詞に、いろいろ聞かれて困ったよ」
どきりとした。ヘンドリックが怒ってるのが分かったから。
私の声が止まり、おもんが不思議そうに見上げてきた。
一体何が始まるんだろう? 私は頭上に暗雲が垂れ込めてくるような気がしたわ。
ヘンドリックは構わず、手を後ろで組んでコツコツと不穏な靴音を鳴らし、部屋の中を歩き回った。
「確かにこん夏、来とったのは、フレデニーレ・スターテュン(アメリカ)とデーネマルケン(デンマーク)の船じゃ。ばってんそいは、そがんに責められる事柄じゃなか。ヤパンに損害ば与える話じゃなかのやし、お奉行様の許可ならちゃんと得とう」
本を持つ私の手がわずかに震え、かさかさと音を立てた。
ヘンドリックの言ってること、私には半分も理解できない。だけど何となくピンときたわ。あれから少し時間が経ったけど、私が不用意に元次郎様の前でしゃべったことに、何か問題があったんじゃないかしら。
もちろん、そんなに悪いことをしたつもりはなかった。たぶん元次郎様も情報源を漏らしたわけじゃないでしょうけど、追い詰められたヘンドリックは何かを察してしまったのよ。
ヘンドリックは静かな怒りを滲ませて、早口でまくし立てたわ。
「我が国は交戦中であるゆえ、ヘンミー商館長の時代にお奉行様と協約ば結んだ。乗組員のうち最低二人がオランダ人であること、積荷はすべてオランダのものであるとの保証をつけることを条件とし、我々は中立国に籍を持つ船の、長崎入港の許可ば得たんじゃ」
大声ではなかったけど、ヘンドリックはいつもの冷静さを完全に失ってる。私に分かったのは、お役人みたいな冷たい口調が次第に熱を帯びていく、あくまで感情的な部分だけよ。
くるり、とヘンドリックは私の方に向き直った。
「そいやとに、ヤパンはなして、オランダば信じてくれなかと?」
ヘンドリックの全身から棘が出てるように見えたわ。
私は唇を噛み締めた。こんなのは初めてのことよ。彼は身請けまでしてやった女に裏切られたと感じたのかもしれない。
ヘンドリックと私とは、力関係に歴然とした差があった。
私は過酷な場所にいたんだもの。経験的に分かってることがある。こういう場合、まずは相手の感情をやり過ごさなくちゃならないの。何一つ言い返してはならないのよ。
私は目を反らし、一切の表情を消した。あとは身じろぎもしないわ。
「おもん」
ヘンドリックは自分をポカンと見上げている娘の頭を撫でた。
「向こうでムハマッドと遊んでおいで」
私は余計に嫌な予感がしたわ。二人きりになったら、ヘンドリックはついに私を殴るのかしら。
おもんはちょっと不服そうな顔をしたけど、ヘンドリックに呼ばれたムハマッドが迎えに来た上、父親にちょんと背中を押されたから、大人しく部屋を出て行ったわ。
私は身構えてた。すぐに恐ろしい事態が襲ってくることを覚悟してた。
だけどヘンドリックは私の隣に静かに腰を下ろし、片腕を背もたれに回しただけだった。
「オリオノは僕の妻て言うたやろ? なしてヤパンの役人と親しくする?」
息がかかりそうなほど近くから、ヘンドリックは私の顔を覗き込んできた。まだ感情的なものを引きずってるようだったけど、聞いてきたその内容は奇妙なものだったわ。
何を言ってるんだろうって思った。
確かに私、ちょっとだけオランダに不利になるようなことを口にしたのかもしれないけど、そもそも私は日本人よ? ヘンドリックは、それを忘れてしまったわけではないでしょうに。
私は伏せていた目を上げ、勇気を振り絞って彼を見返したわ。
「……だって、そりゃ、ヤパンのお役人様に頼まれごとばしたら、うちは断れませんけん」
「脅されたのか!」
ヘンドリックは目を見開いた。本気で驚いたみたいだった。
「困った時は僕に言え。僕がオリオノのこと、守る」
そう言って、自分の胸を叩いてみせるの。それも本気で言ってるのか、私からすれば疑わしいものだったわ。
「……あなたがヤパンにいらっしゃる間は、そいで良かですばってん……」
私は口をつぐみ、やがて苦笑しちゃったわ。
「だってそうでしょう? あなたはいつか、お国に帰る。うちはずっとヤパンで暮らす。やけん、ヤパンのお役人様に楯突くことは絶対にできません」
いつしか、私もイライラしてた。みなまで言わせるなって感じよ。
私はいずれ一人になって、誰にも守ってもらえなくなる日が来るの。そのとき、この国の偉い人に睨まれてたら困るでしょ。当たり前のことよ。
思った通り、ヘンドリックは沈黙したわ。
痛いところを突かれたからでしょう。
そうよ、彼だって知らないはずはないの。私たちにはいつか必ず別れる日が来るってね。
ただ考えないようにしてるんだと思う。世の中の大多数の男は、都合の悪いことから逃げようとするものよ。
だけどヘンドリックが私を責めるのなら、私だってこの人を許さない。
「うちのことば助けて下さったこと、あなたには感謝しとります。ばってん一つだけ、言うとくことがあるばい」
金銭的なことは私だって言いにくいけど、何より大事なことよ。この際、はっきり言わせてもらおうじゃないの。
「あなたはご帰国のあと、おもんちの面倒ば、うちに押し付くる気ぃね?」
そうよ、これがずっと気になってたこと。
思った通り、ヘンドリックはさっと青ざめた。
こうなったら立場が逆転よ。ヘンドリックはうつむいて黙り込み、私の方が唾を飛ばす勢いでまくし立てたわ。
「だったら、相応の銭ば置いてってくれんね! うちへの手切れ金だけじゃ済まんばい。うちも精一杯やってはみますばってん、生活の回らんようになれば、あん子の将来は保証できませんけんね」