第6話 唐のお客さま

文字数 4,063文字

 考えてみたら唐人だってやっぱり怖かった。唐人は日本人と似てるって言うけど、うまくやりおおせる自信なんてあるわけない。

 だけど、不安で青ざめてる私を見かねたのか、先輩がそっと耳打ちしてくれたの。
「大丈夫。唐人行きは数の多いけん、行列も組まんとよ」
 要するに形式ばったことをしないから、あまり緊張しなくていいっていう話だった。
 しかも彼女、いたずらっぽい笑みを浮かべて意味ありげに笑うのよ。
「……日本行きより唐人行きの方がうまか仕事じゃけんね」
 
 どういうことかしら? 私は改めて先輩を振り仰いだけど、彼女は肩をすくめただけでそれ以上は教えてくれなかった。
 とにかく私たちは他の店の遊女たちと合流し、快晴の空の下をぞろぞろと唐館に向かって歩き出した。何だか今日の天気と同じように、明るく開放的な気分になってきたわ。

 丸山の門を出た時には、もはや行楽気分よ。
 だってこれだけの女の子が歩いてるんだもの、みんなきゃあきゃあとふざけ合って、止まんないわよ。遣り手婆さんたちは静かにしろって怒ってるけど、誰もそんなこと聞きゃあしない。

 十禅寺町に入ると、いよいよ石造りの牌楼が見えてきた。私は他の女たちに続いてそこをくぐり、同時に目を見開いた。
 うわあ、これが唐館? 大きいのね。
 敷地内に二階建ての大きなお屋敷が何棟もあるわ。難しい漢字の書かれた旗が風になびいてて、丸い窓とか、回廊に付けられた真っ赤な勾欄がやっぱり異国を感じさせる。

 さらに建物の中へ足を踏み入れたら、その豪華さにびっくりしたわ。
 景徳鎮の青花(せいか)の壺に、黒檀の椅子。唐国の調度品って端正な感じね。それに何だか不思議な匂い。お香が焚かれてるのかな。

 その煙の向こうで、数人の男たちが私たちを待ち構えてた。三角の帽子を頭に乗せ、長い三編みを背に垂らしてる。
 ぎらりとこちらを見る、その目が怖かった。
 私は思わず呼吸を止める。ああ異国の男だって思ったわ。

 怖かったけど、感じたのはそれだけじゃなかった。彼らのたたずまいや大きな声から、この国とは違う風が吹いてくるような気がしたの。
 乾いた風を感じる。大地を揺るがす馬蹄の音が聞こえる。それは本来、異国に行かなければ味わえないはずの新鮮な感覚に違いなかった。

 やがて私は一人の男の前に引っ張り出された。
 この人が今日のお客様?
 私は緊張でガチガチになってたけど、その人は口ひげの下に優しい微笑をたたえてたわ。しかもその人、私の緋色の掻取を見て何か聞いてきたの。
「妳為什麼選這個圖樣?」

 え、何て言ってるの?
 私は脇にいる、若い唐通事(とうつうじ)を見上げた。もちろんこの人は日本人よ。

 だけど私、その通詞様のことは好きじゃなかった。遊女との取り持ち役なんて嫌だっていう態度が見え見えなんだもん。
 彼らは家業として代々通訳を務めてて、苗字帯刀を許され、お武家様と同じ格好をしてる。長崎では特権階級よ。すごく威張ってるのよ。
 でも彼らに頼らなきゃ、お客様と意思の疎通ができないんだからしょうがない。

「なぜこの絵柄を選んだのか、とお聞きになっておる」
 通詞様は私の顔なんか見ず、いかにも面倒くさそうに伝えてきた。

 だけどその瞬間、私は息を呑んだわ。とても答えられなかったわ。
 しばらく沈黙が続いちゃった。
「これ、失礼のなきよう、早う、お答えせい!」
 通事様はようやく私の方を見て小突いてきたけど、違うのよ。私はただ感動したの。

 先代の瓜生野さんにもらったあの掻取(かいどり)、やっぱり古かったんでしょうね。すぐに縫い目が裂けてきて、みすぼらしくなっちゃって、私はけっきょく多額の借金をして衣装を自前で誂えたの。それがこの着物。

 生地は血のように真っ赤な綸子を選んで、柄は二人の軍神を縫い取りしてもらったの。英雄の姿はとにかく豪壮な雰囲気になるし、お守りのようにご利益が得られるような気がするから。
 でも、あくまで自己満足だと思ってたのよ。実際これまでのお客様の中に、そんなに熱心に見てくれる人なんていなかったわ。

 この唐のお方は、分かってくれたのよ!

 そうよ、これは『三国志演義』に出てくる関羽と周倉なの。もしかして、傍らの名馬の姿も手がかりになったのかしら?
 私が問うように見上げたら、相手はうん、という感じでうなずいた。
 もちろん分かってるよって、その表情で語ってた。当然よね。三国志は唐国のお話だもの。

 私はうれしくて、悲鳴を上げて相手に抱きついちゃった。
 その人は少しびっくりしてたけど、私がなぜ喜んでるのかは分かってくれてたわ。

 不思議だった。言葉も生活習慣もまったく違う異国の人なのに、同じ文学作品に親しんでる。共通の地盤がある。これを感動と呼ばずして何だっていうの?
 言葉はいらないんだって思った。
 そうよ、通事様なんて別にいなくてもいいのよ。
 
 そうして唐館に何度も呼ばれ、彼らの枕席にはべってみるうち、私もなるほどと思うようになったわ。
 確かに唐人の方がうまい仕事だった。
 遊女を呼べるのは船主か、お金持ち商人に限られるせいもあるでしょうけど、彼らは並の日本人よりよっぽど身なりが良かったの。日本のおじさんって息が臭かったりするでしょ? 彼らはそんな不快さを振りまくことはないし、何より女に優しいの。

 しかも骨董屋の娘として蓄えてきた知識が、まあまあ役立つこともあった。
 あるとき寝室に杜甫の『春望』の詩が軸装されて飾られててね。私もこれなら分かると思って、日本語の読み下しを朗詠してみせたの。
「国破れて、山河あり。城春ににして、草木深し」
 その時のお客様の喜びようと言ったらなかったわ。そのお軸、ご本人が書いたものだったのよ。

 そうやって唐人客に気に入ってもらえると、何日か逗留させてもらえることもあるのよ。
 その間、唐国のおいしい料理をふるまわれ、使用人にかしずかれて、もうお姫様のような生活よ。京屋にいれば当然お端下仕事をしなきゃならないし、おぎんさんに叱られたり折檻されたりする毎日だもん。これはもう、天と地の差よ。

 さらに唐国の祝い事のある日は特別だった。
 敷地内に舞台が設えられて、華やかな演劇が催されるんだけど、お客様と一緒に私たちも鑑賞させてもらえるの。

 それはもう、素晴らしかったわ。
 歌も踊りも魅力的でね。台詞が分からないから物語の細部には付いて行けないけど、古代の唐国を舞台にした物語のあらすじは知ってるもの。
 いよいよ覇王項羽が敵の漢軍に追い詰められて詩を詠み、虞美人が自殺を遂げるあの場面。私はもう万感胸に迫って、両手で口を覆い、だらだら涙を流しちゃった。

 音楽好きなお客様と接したときも面白かったわ。唐の商人は教養のある人が多くて、たいてい楽器も演奏できるのよ。
 唐の楽器と日本の楽器とで合奏ができるって知ってる? 性格の異なる音と音が組み合わさって、思いがけない響きになるのよ。

 揚琴と篠笛だったり、古箏(こそう)と小鼓だったり。
 私が弾けるのは三味線ぐらいで、それも大してうまいわけじゃなかったけど、耳で音を拾って、合奏にはちゃんと参加できたわ。
 お客様に教わって、二胡を弾いてみたこともあるの。お世辞でしょうけど、その場にいた唐人の皆さんにいっぱい褒めてもらったのよ。いい音をしてるねって。
 私、生まれる国を間違えちゃったのかしらって思ったわ。

 楽しみはまだ他にもあった。
 極めつけは、お客様からの贈り物。

 しっ。これ内緒よ? 抜け荷は厳しく取り締まられているもの。
 でも、みんなやってる。
 私たち、帰り際に番所で改めを受けなくちゃならないんだけど、体内に入れて運べばなかなか露見しないって唐人たちも知ってるのよね。

 初めての日は唐突に訪れたわ。その男は別れを惜しむように、まだ寝台の上にぐったりと横たわる私の顎を持ち上げ、指先につまんだ赤い玉を見せてくれたの。

 一見して高価と分かる珊瑚だった。
「這是妳讓我開心快樂的回禮(楽しませてくれた礼だ)」
 彼は耳元でささやき、私の両足を再び開かせ、ふざけて秘所にねじ込んできた。私はくすぐったくて、寝具に身をうずめて笑っちゃった。
 ここが長崎で良かったって思ったわ。世界にはうなるほど金を持っている男がいるんだから。

 でも宝石を体内に内蔵して、いざ番所の前で帰りの列に並んだ時のことよ。
 急に怖くなってきたの。
 抜け荷は死罪。まさか自分がそんな大それたことをするとは思わなかった。

 前に並んでる遊女が順に呼ばれて歩いていく。自分の番がどんどん近づいて、私の足は震え、今にも倒れそうだった。
 あと三人、あと二人。
 心の臓がばくばくと波打って、気づけば脇に大量の汗をかいてたわ。
 見つかったらどうしよう。打ち首になるのかな。晒し首になるのかな。
 
 別に、見つかったっていいじゃない。
 稲妻のようにそうひらめいたのは、番士に呼ばれたその時よ。どうせ理不尽な世の中だもの。失敗したら堂々と死ねばいい。そう開き直ったの。
 
 大事な物を落とさぬよう、私は小股に力を入れてそっと進み出た。
 複数人の番士が、乱暴な手付きで調べを進めてくる。
 両手を見せろ。袂は空になっているか。着物の襟に不自然な縫込みはないか。草履に細工はなされていないか。

 ひととおりの調べが済むと、番士はうなずいたわ。
「よか。早よ()ね」
 人数が多いから、すぐに次の女を手招きしてる。

 私は軽くお辞儀をして、静かに歩き出した。すぐそこの門までの距離が、ものすごく長く感じられたわ。もうどんなに歩いても、たどり着けないんじゃないかって思うほど。

 だけど、私は門を出た。
 見上げたら、視界を遮る高い建物は周囲になくて、そのまま自分が空まで突き抜けていくような気がしたわ。
 
 初めての、抜け荷の成功だった。この感動を誰にも言えないのが悔しかったわ。
 小雨のそぼ降る、誰もいない倉庫街。私はそこで両の拳を握りしめ、くるりと一回転して空に絶叫した。
 勝った、と思ったわ。冷たい世の中をちょっとだけ見返してやったような気がしたわ。

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