第73話 異例の願い

文字数 2,140文字

 1817年に至って、僕はようやく日本商館長を退任。後任のヤン・コック・ブロムホフ氏に商館を引き渡して、この国を去ることとなった。
 長かった一時代が終わるんだ。

 いよいよ離日するに当たって、僕は長崎奉行所に異例の願い事をした。
 
 その返答を聞いて奉行所から戻ってきた後のことだ。正装し二角帽を小脇に抱えた僕は、同行してくれた(かみしも)姿の名村多吉郎と一緒にカピタン部屋に入った。
 
 部屋の内部ですすり泣いていた人々がさっと顔を上げ、数人は立ち上がった。
 今や年長者の一人となった馬場為八郎が、一同を代表するように言う。
「カピタン。このような日に、お疲れ様でございました」
 
「うん。みんな、ありがとう」
 僕は万感の思いで人々を見渡した。
 その真ん中で、若手の通詞、名村元次郎に付き添われるようにしながら、九歳になった丈吉がちょこんと椅子に腰かけている。

 息子は気丈なのかそれともよく分かっていないのか、母親の死を目にしても涙を見せてはいなかった。僕はそんな丈吉の前に進み出ると、ゆっくりと膝を付いて目の高さを合わせる。

「良か知らせじゃ。丈吉」
 ぎこちなく見えたかもしれないが、僕なりに精一杯の笑顔を見せたつもりだ。
「すべて、お奉行様はお認め下さった。わいの将来は安泰じゃ」

 僕は日本で作った財産の大半を、交易をつかさどる長崎会所に託すことにしたんだ。財産は現金ではなく、この国で高額で取引される白砂糖に替えたが、今の為替割合でちょうど三百籠ほどになった。
 その代金と利子とで銀四貰目(四百両に相当)を毎年丈吉に給付して欲しい。それが今回の、お奉行様への願い事だ。

 本来なら、オランダ人と日本人との間にできた子に、こんな待遇は許されない。
 だが現在の長崎奉行、遠山左衛門尉(さえもんのじょう)景晋(かげくに)様は違った。僕のこれまでの功績を踏まえ、格別のはからいとしてこの要望に応じてくれたんだ。

 遠山様はさらに、丈吉が成人した暁には別家を立てさせ、地役人としての取り立てをするとも約束してくれた。オランダ流に言えば、「乾いた土地に羊を持たせた」というわけだ。

 これが、僕にできる精一杯だった。
「良かね。お奉行様に、しっかりお仕えすっとよ」
 言い聞かせると、丈吉は健気にもはいと答えた。僕は危うく涙を流しそうになり、ちょっと荒々しく息子の頭をなでた。
 
 遠山様はまた、丈吉に道富という苗字を与えてくれた。道富はドゥーフの当て字だが、僕は今後も日本風にミチトミと表記しようと思っている。日本人による混血児への根強い差別を思うと、西洋人風の顔立ちをした息子の将来はなお不安だった。
 
 もちろん本当は、何としてもこの子を連れ帰りたかった。
 帰国が決まった際、オリオノはすでに病臥していた。祖母に当たるおすみにも会ってみたが、老齢ということもあり、生活が荒んでいる様子が感じられた。
 
 何より孫の丈吉を新たな金づるにしかねなかった。僕は少しばかりの金子を包んで渡したものの、とても丈吉の養育を託せる相手じゃないと判断したんだ。

 僕はそれらの事情を洗いざらい遠山様に打ち明け、何度も何度も頭を下げ、丈吉の出国の許しを懇願した。僕は本国にも子供はいない。この子だけなんですと必死に訴えた。

 お奉行様は僕の事情を理解してくれたし、深い同情を寄せてもくれた。
 しかし国法を曲げてまで許可してはくれなかったんだ。丈吉を連れての帰国は、断念せざるを得なかった。

 オリオノは過酷な遊女暮らしの中で、肝の臓を悪くしていたようだ。ここ半年ほどの間にみるみる痩せて顔色も悪くなり、最後の一月は痛み止めの薬を用いて延命しているに過ぎなかった。
 仮に出国が許され、無理に船に乗せたとしても、航海の厳しさに耐えられなかっただろう。
 
 けれども、死に瀕した妻を置いて、自分だけ栄誉と賞賛の中で帰国するのは僕にとって断腸の思いだった。今日ここで看取ってやれたのは、神の恩寵という他ないだろう。

「すまない、みんな」
 僕は二角帽を抱きしめるようにして立ち上がった。
「オリオノと、二人きりにしてくれないか」

 全員が心得たように立ち上がった。丈吉も馬場や名村親子に促され、部屋を出て行く。

 僕は宵闇のせまる薄暗い部屋を静かに歩き、オリオノの顔に掛けられた白い布を取り払った。
 まだ苦しみを引きずっているかのように、口が半開きになっている。僕は手を伸ばし、その口を閉じさせた。

 一緒に暮らす時間が長くなれば、良い時ばかりというわけにはいかなかった。
 正直なところ、女の浅ましさに幻滅してしまったことも何度かはある。例えば僕が前妻の園生に仕送りを続けていることが発覚した時など、オリオノはずいぶんと怒ったものだ。

「夫も子供も捨てて出ていった人ば、なして助けねばならんとですか!」
 確かにその怒りも分からないではない。その時は最も生活が苦しい時期だったし、オリオノは懸命に子供たちの養育を引き受けてくれていた。おもんと丈吉とを差別するようなことも絶対にしないと決めていたようだ。

 けれども一方で、オリオノは世の中に自分たちよりも惨めな人間がいるということに思いが至らないようだったんだ。園生の家も困っていた。僕も主張を曲げられず、この件について最後まで話し合いは付かなかった。

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