第52話 暗い知らせ

文字数 3,320文字

 長崎にいる僕の元には、欧州情勢はほぼ一年遅れで届く。

 バタヴィア船は、貨物と一緒にさまざまな報告を届けてくれるんだ。それは書簡の形を取ることもあれば、誰かが使いを果たしてくれることもある。

「いやあ、すごいすごい。ナポレオン・ボナパルト万歳!」
 ある年、晴れやかな笑顔でそう言った使者がいた。
「まさに連戦連勝。彼こそ不世出の英雄ですな」

 はるか極東にいる僕は、少し冷めた気分でそんな話を聞いている。
 はっきり言って、いくらヨーロッパ情勢の変化を聞かされても、今一つ実感が持てなかった。ただ、ここ数年は植民地でもナポレオンの話題で持ち切りのようだから、よほど影響力のある男なのだとは思う。

 案の定と言うべきか、もたらされる内容は、年を追うにつれてだんだん暗い影を帯びていくようだった。
 絶大な人気を集めていたナポレオンだったが、彼はやがて民衆の支持を裏切る形で自らがフランス皇帝の座についた。その時には、日本にやってきた使者も怒りで顔を真っ赤にしてたよ。
「残念です。ナポレオンなんて、権力を欲するだけの、ごく普通の男だったんですね」

 やっぱりね、と僕は冷めた言葉を心中で吐いてしまう。
 民主主義なんてどうせその程度のもんだ。権力者に逆らってみたところで無駄なんだよ、と。

 とはいえ、そのナポレオンが海軍力の強化に関心を示さなくなったという話は、さすがに無視できなかった。それは僕にとって、現実的な問題を含んでいたからだ。

「トラファルガーの敗戦が、よほど衝撃的だったんでしょうね」
 と言ったのは、まさに昨年やってきた使者だ。
「もはやナポレオンは、海戦が嫌いになってしまったようですよ。オランダ海軍はフランス海軍の麾下(きか)に入ったわけですが、彼らがどんなに海軍の存在意義を主張しても駄目だそうです。なにせ皇帝が聞く耳を持たないんですから」

 この使者はおかしそうに笑いをこらえながら言うんだ。ざまあ見やがれ、という感じなんだろう。フランスが海に乗り出してこない限り、植民地のオランダ人は好き放題できるんだから、その気持ちも分からないではない。

 だけど、僕は顎に手を当て、じっと考えた。
 フランス海軍をもう恐れずに済む? それって喜んでいいことなんだろうか。
 
 だって、今一番喜んでいるのはイギリスじゃないだろうか。彼らは以前に増して、オランダの海外植民地を狙ってくるだろう。長崎のような、小さな交易拠点とて同じことだ。

「おい、君!」
 面白おかしく語っているつもりになってるその男を、僕は叱りつけた。
「ちっとも良い知らせじゃないよ。ここ長崎の安全をどう守れば良いのか、君も一緒に考えてくれなくちゃ」

 だってそうだろ? 親玉のフランスが当てにできないのなら、こっちは自力で危機を乗り越えなくちゃならない。
 だがもちろん、使者の男に何が言えるわけでもなかった。大して恐縮するでもなく、各地の商館は商館で、何とか工夫で乗り越えていけるだろうという楽観論を口にするばかりだ。

 そんなわけで、僕は次第に警戒を強めていった。
 オランダの傭船という形でアメリカ船が長崎にやってきても、僕はすぐに信用しなかった。彼らがイギリスと密約を結んでいる可能性が捨てきれなかったから。

 僕は日本人の目を盗んでアメリカ人と話をし、彼らがオランダとのみ契約している証拠を提出させた。日本人とアメリカ人とは慎重に引き離し、接触させなかった。そしてアメリカ船には、必ずオランダの三色旗を掲げさせた。
 そうすることでしか、僕は代々のカピタンに受け継がれてきた秘密を守れなくなっていた。

 1807年の夏、バタヴィアからオランダ海軍将校のフォールマン氏が、デンマーク船で長崎にやってきた。軍のお偉いさんがやって来るっていうんで、僕は出島の船着き場で緊張しながら出迎えたよ。

 フォールマン氏は桟橋をまっすぐに歩いてきて、爽やかな笑顔で僕と握手してくれた。
 だが最初のうちは僕と目を合わせようとしなかったし、当たり障りのない挨拶以外は何も口にしなかった。それがちょっと不気味に感じられたよ。

 たぶん、また何か暗い知らせを持ってきたんだろう。
 他の仲間も何となくそう察して、チラッチラッと目くばせし合っていたようだ。

 果たしてカピタン部屋に場を移し、日本駐在の一同が不安げに見守る中で、フォールマン氏は重々しく切りだした。
「同胞諸君よ、落ち着いて聞いてもらいたい」

 その趣旨は、本国に関するものだった。
 フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトは、オランダの地を対イギリス戦の橋頭堡とする意向を持っている。そのため自身の弟で、国民軍の総司令官であるルイ・ボナパルトをオランダに遣わし、新国王の座に据えたという。

「……!」

 僕たち全員が息を呑み、目を見開いた。衝撃のあまり声も出なかった。
 外はきれいに晴れ、窓から差し込む光もまぶしいほどなのに、この商館だけ一気に暗闇に包まれたような気がしたよ。

 だけどフォールマン氏にとっては、そんな反応も予想済みだったようだ。彼は表情を変えることもなく、淡々と、そしてすらすらと続きを述べていたよ。

「ハーグ入りされた陛下は、即座に大臣を任命し、ナポレオン法典に基づいた新憲法を発布された。次いでアムステルダムの新教会で戴冠式が行われ、今はネーデルラント風にローデウェイク一世と名乗られている。以後、我らが国名はホラント王国となり、これをもって、バタヴィア共和国はその歴史を閉じることと相成った」

「ちょっとお待ちください、閣下」
 僕はたまりかねて叫んだ。
「ネーデルラントは、黙ってフランス人の王を受け入れたんですか。誰一人、拒絶しようという者はいなかったんですか!」

 握った拳がぶるぶると震えている。だけど、他のみんなも同じ気持ちのはずだ。
 いまだかつて、オランダに王国が存在したことはない。オランダはどこまでも都市の連合体なんだ。

 もちろんオランダにも特権階級はいて、特に無総督時代にはレヘントが寡頭政治を行い、庶民を弾圧してきた。だが総督のオラニエ公を含め、危うい均衡を保った彼らの力関係は、たった一人で絶対的な権力を持つ国王とは根本的に異なっていたんだ。

 世界は神が創ったが、オランダはオランダ人が創った、という言葉がある。

 低地に追いやられ、厳しい暮らしを強いられた先祖たちは、身を削るようにして干拓を繰り返し、オランダの大地を築き上げた。そんな祖国がフランス人に乗っ取られたと聞けば、冷静でいられなくなるのは当然じゃないか。

 フォールマン氏は同情するような目を僕に向けてきたものの、言葉の選び方は極めて慎重だった。
「すでに1795年、バタヴィア共和国成立の時点で、情勢は決まっていたのだ。国王陛下が即位されてすでに一年以上が経つ。ヨーロッパから遠く離れたこの地で今さら騒いだところで、何がどう変わるものでもない。商館長も、以後は口を慎まれるがよかろう」
 
 絶句し、うつむいた僕の前で、それから、とフォールマン氏は胸を反らせた。
「ここ長崎を含め、残されたネーデルラントの拠点は貴重なものとなっている。この先何があっても、守り通す覚悟を持って欲しい。もう甘い認識では駄目だぞ。これからの時代、君たちの仕事は商売だけじゃないんだから」

 僕はむっとした。
 何だよ、その言い方。民間人を見下してるのか。

 このとき僕が感じた怒りは、植民地に来てまで威張り通すレヘントへの反発に根差していたかもしれない。しかも祖国にのしかかった重たい運命が後押ししていたかもしれない。

 だけど苛立ちは抑えられなかった。今さらこの人に言われなくても、異国の地での仕事は常に死と隣り合わせなんだよ。

 しかも、ここは日本だ。
 ちょっとした手違いで、幕府の役人に嫌われることがあるかもしれない。そうなったら、いつ打ち首になってもおかしくはない。
 サムライたちは、僕たちに一定の敬意を表して切腹を許してくれるかもしれない。だけどオランダ人にとってはどっちの死に方も同じさ。想像したくもないよ。

 日本で働くって、そういうことだ。
 僕たちみんな、覚悟の上で商館運営をしてるんだ。見くびらないでもらいたいね。

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