第36話 偉大なる植民地
文字数 3,416文字
海原にもすっかり見飽きて、もう二度と遠洋航海は嫌だと思い始めた頃だった。
「見えたぞ。バタヴィアだ!」
船室で寝転んでいた僕は、その声に跳ね起きて上甲板に駆け上がった。だが、しばらくはまぶしくて目も開けられない。
出航から早くも十ヶ月。船はジャワ島をぐるりと回り、北岸に近づきつつある。濃い密林の中に、白っぽい屋根のようなものが見え隠れしている。
あれか、と思って見つめていると、やがて巨大な白亜の城が姿を現し、周辺の集落も含めて僕たちの視界に入ってきた。
偉大なる植民地だ。
「立派なもんじゃないか」
「ああ、ほっとしたな」
他の乗組員たちも、みんな晴れ晴れとした表情だ。
僕も万感の思いで、初めて見るバタヴィアの姿に目を細めた。町を取り囲むヨーロッパ風の城壁には、四隅に美しい三角屋根の塔がある。さっき一番最初に見えたのはあれだ。
それぞれサファイアや真珠といった具合に、宝石の名を与えられているという。
思い出したくもないけど、航海中のことも、ちょっとだけ話しておこう。
快適なんてほど遠かったよ。冬のオランダを出てから、暑さと寒さが交互に襲ってきて、僕たちは信じられないほど体力を奪われた。
大西洋を南下し、まずは寒さが緩んできてほっとしたが、それもつかの間、今度は灼熱の日差しが照り付けた。アフリカ大陸の西側、赤道直下のエルミナ城塞付近では水も食料も腐り、船内にはひどい臭いが充満した。
そして今度は、空気がまた冷涼になっていくんだ。
アフリカ南端を回って大西洋からインド洋に入った後は、南極還流に乗って東へ東へと進んだ。この間、極地気候とまではいかなかったが、連日強風の吹き付ける、寒い日々が続いたよ。
そしてニーウホランド(オーストラリア)に近づいた後は、また別の海流に乗ってインド洋の東端をまっしぐらに北上した。
途中から生ぬるい風が吹き始めたと思ったら、やがてすさまじい蒸し暑さが襲ってきて、今が最高潮だ。
それでも、とりあえずは無事の到着ができた。神のご加護があったんだと思う。僕はまばゆい光を放つ空に向かって、何度も何度も十字を切ったよ。
しかし心配なのは、隔離病室に入れられたままのアントンだ。
昔から彼は風邪一つひかなかったし、僕より強靭な肉体に恵まれているとばかり思ってきた。
だけど最初に赤道を越えた日、祝いの食卓を囲んだ後に、彼は早くも腹痛を訴え出したんだ。
当初、僕はそんなに心配していなかった。ご馳走が出たから、調子に乗って食べ過ぎたんだろう、ぐらいに思っていたんだ。
聞いていた通り、船中の栄養状態はそう悪くなかったし、船室ではそこそこの清潔さも保たれ、壊血病患者なんて今はいないということになっていた。船には医者もいるから、診察の上、大丈夫だろうと言ってもくれたんだ。
だがその後、僕が何度見舞ってもアントンの顔色は悪いままだった。明らかに痩せ、目も落ち窪み、話すと口臭がひどくて、間もなく一般船室から隔離病室へと移されてしまった。
まさかとは思う。
思うが、現実に航海中、同じ船でも数人が亡くなっているんだ。やはり万一のことを考えてしまうよ。
アントンがいなくいなったら、どうなる?
僕は独りぼっちだ。ずっとアントンに甘え、頼ってきたこの僕が、はるかな東インドで独りぼっちになる。友達と一緒だからこそ、僕はこの冒険を決意したのに。
いや、今の段階であまり悪い想像をするのはやめよう。
とにかく、いよいよ上陸だ。あとはなるようになると自分に言い聞かせ、僕は混雑する上甲板で、自分の手荷物とともに乗り込む艀の順番を待っていた。
「病人が優先だ。通せ!」
そんな声が聞こえて間もなくのことだった。アントンが担架に乗せられ、他の患者とともに運び出されてくる。
僕はすぐさま駆け寄った。
「アントン、アントン! 着いたぞ。見ろよ、バタヴィアはあんなに美しい」
先ほど一人で味わった感動を、そっくり彼に移し替えてあげようと思った。
アントンは答える元気もなさそうだが、僕は自分でうなずきながら語りかけた。
「もう大丈夫だ。ここにはちゃんとした病院があるからな。治療を受ければ、あっという間に良くなるよ」
そう信じたかった。アントンも意識はあるので、わずかにうなずいてくれたようだった。
だけど、先に下船していくアントンを見送ったとき、僕はやるせなさで一杯になった。
腹立たしいを通り越した、この怒り。一体どこへぶつければいいのだろう?
この航海中、僕たちはほとんど上陸して休むことができなかった。大海原をひたすら進む、心細い日々の中で、一人、また一人と病に倒れる者が出た。
そして治療の甲斐もなく死んでいったんだ。
どの人も、港町でゆっくり休めば助かったかもしれないのに。
船は何度か、寄港地に着岸した。だが許されたのは、最低限の水と食料を積むことだけ。オランダ人には上陸が許されず、すぐに出航を余儀なくされた。重病人を置いていくことは、もちろんできなかった。
これを疑問に思う者は多くて、誰かが航海士に質問したことも何度かあったが、いつもここはオランダ領ではないから仕方がないと説明されるばかりだ。
寄港地はすべて、オランダと友好的な関係にある第三国の支配地域だった。立ち寄らせてもらえるだけでも有難いと思わねばならない。
僕たちは静かに悲しんだ。国力が衰えるって、こういうことなんだな。
それでも僕たちは、まさかアフリカ最南端のケープでは休めるだろうと思っていた。
だってそうだろ? ケープは長い間、インド航路最大の中継地点としてその名を知られてきた。その町を築き上げたオランダ人が上陸できないなんて、ありえないよ。
大西洋を南下している時には、ケープまであと何日かって、みんなわくわくしてたんだ。
「上陸用の服は準備してあるか? ばっちり決めて、遊びに行こうぜ!」
もちろん僕だって、その日を楽しみにしていたさ。アントンもその頃には元気になって、一緒にケープの居酒屋に繰り出せるかもしれない、なんていうことも思っていた。
ケープでは滞在中、模型の船を作って競争するのが、オランダの船乗りの伝統なんだそうだ。そこには、楽しみがいっぱいあるはずだった。
だが、僕たちにそんな楽しい休日は訪れなかったんだ。
「ケープまで、あとどのぐらいですか?」
僕が航海士の一人に質問した時、冷たい反応を返されたのが忘れられない。
「下らぬことを聞くな! 何も知らぬくせに」
叱られたのは分かったけど、どうして叱られたのかは分からなかったよ。
だけどその後、別の航海士が事情を教えてくれた。僕がアントンの健康状態を心配しているのを知って、こっそり船室に来てくれたんだ。
「残念な報せだが、君、ケープには立ち寄れないよ。あそこは敵の支配下にあるからね」
僕は唖然とした。そんなこと、一般の国民にはまったく知らされていなかったから。
ケープのはるか沖合を、オランダ船は泥棒のようにコソコソと通り過ぎた。
僕も遠眼鏡を借りて水平線近くに目を凝らした。確かに敵国の旗が掲げられてたよ。赤と白の十字、イングランド国旗だ。
そんなわけで、アントンを含めた病人たちは、船中でうめき声を上げながら地獄の航海をさせられた。悔しいよ。一昔前だったら、こんなにつらい思いをさせなくて済んだかもしれないのに。
だけど今、このバタヴィアに僕とアントンは生きて到着した。これで良しとしなければならない。もちろん犠牲になった他の仲間のことについては、バタヴィアの教会できちんとお祈りさせてもらうよ。
そんなことを考えながら、僕が桟橋に降り立った時のことだ。
いきなり横から荷物を奪い取られた。
「お持ちしましょう、旦那」
僕はびっくりして、その小柄な男を見つめた。
オランダ語を話しているが、この土地の原住民のようだった。たぶん港湾労働の奴隷が、小遣い稼ぎでやっているんだろう。
見れば、周囲で他の同僚や乗組員も同じ目にあっている。
僕は慌ててその男から荷物を取り返した。
「結構だ。自分で運べる」
何だか気を抜けない雰囲気だった。おまけにひどい高温多湿じゃないか。汗がべとつき、蚊が常にうなりを上げて身にまとわりつく。
僕は辟易しながら他の同僚と列を作り、歩き出した。赤レンガの倉庫が立ち並んでいる。その間をぞろぞろと抜けて、僕たちは中心街へと向かった。
「見えたぞ。バタヴィアだ!」
船室で寝転んでいた僕は、その声に跳ね起きて上甲板に駆け上がった。だが、しばらくはまぶしくて目も開けられない。
出航から早くも十ヶ月。船はジャワ島をぐるりと回り、北岸に近づきつつある。濃い密林の中に、白っぽい屋根のようなものが見え隠れしている。
あれか、と思って見つめていると、やがて巨大な白亜の城が姿を現し、周辺の集落も含めて僕たちの視界に入ってきた。
偉大なる植民地だ。
「立派なもんじゃないか」
「ああ、ほっとしたな」
他の乗組員たちも、みんな晴れ晴れとした表情だ。
僕も万感の思いで、初めて見るバタヴィアの姿に目を細めた。町を取り囲むヨーロッパ風の城壁には、四隅に美しい三角屋根の塔がある。さっき一番最初に見えたのはあれだ。
それぞれサファイアや真珠といった具合に、宝石の名を与えられているという。
思い出したくもないけど、航海中のことも、ちょっとだけ話しておこう。
快適なんてほど遠かったよ。冬のオランダを出てから、暑さと寒さが交互に襲ってきて、僕たちは信じられないほど体力を奪われた。
大西洋を南下し、まずは寒さが緩んできてほっとしたが、それもつかの間、今度は灼熱の日差しが照り付けた。アフリカ大陸の西側、赤道直下のエルミナ城塞付近では水も食料も腐り、船内にはひどい臭いが充満した。
そして今度は、空気がまた冷涼になっていくんだ。
アフリカ南端を回って大西洋からインド洋に入った後は、南極還流に乗って東へ東へと進んだ。この間、極地気候とまではいかなかったが、連日強風の吹き付ける、寒い日々が続いたよ。
そしてニーウホランド(オーストラリア)に近づいた後は、また別の海流に乗ってインド洋の東端をまっしぐらに北上した。
途中から生ぬるい風が吹き始めたと思ったら、やがてすさまじい蒸し暑さが襲ってきて、今が最高潮だ。
それでも、とりあえずは無事の到着ができた。神のご加護があったんだと思う。僕はまばゆい光を放つ空に向かって、何度も何度も十字を切ったよ。
しかし心配なのは、隔離病室に入れられたままのアントンだ。
昔から彼は風邪一つひかなかったし、僕より強靭な肉体に恵まれているとばかり思ってきた。
だけど最初に赤道を越えた日、祝いの食卓を囲んだ後に、彼は早くも腹痛を訴え出したんだ。
当初、僕はそんなに心配していなかった。ご馳走が出たから、調子に乗って食べ過ぎたんだろう、ぐらいに思っていたんだ。
聞いていた通り、船中の栄養状態はそう悪くなかったし、船室ではそこそこの清潔さも保たれ、壊血病患者なんて今はいないということになっていた。船には医者もいるから、診察の上、大丈夫だろうと言ってもくれたんだ。
だがその後、僕が何度見舞ってもアントンの顔色は悪いままだった。明らかに痩せ、目も落ち窪み、話すと口臭がひどくて、間もなく一般船室から隔離病室へと移されてしまった。
まさかとは思う。
思うが、現実に航海中、同じ船でも数人が亡くなっているんだ。やはり万一のことを考えてしまうよ。
アントンがいなくいなったら、どうなる?
僕は独りぼっちだ。ずっとアントンに甘え、頼ってきたこの僕が、はるかな東インドで独りぼっちになる。友達と一緒だからこそ、僕はこの冒険を決意したのに。
いや、今の段階であまり悪い想像をするのはやめよう。
とにかく、いよいよ上陸だ。あとはなるようになると自分に言い聞かせ、僕は混雑する上甲板で、自分の手荷物とともに乗り込む艀の順番を待っていた。
「病人が優先だ。通せ!」
そんな声が聞こえて間もなくのことだった。アントンが担架に乗せられ、他の患者とともに運び出されてくる。
僕はすぐさま駆け寄った。
「アントン、アントン! 着いたぞ。見ろよ、バタヴィアはあんなに美しい」
先ほど一人で味わった感動を、そっくり彼に移し替えてあげようと思った。
アントンは答える元気もなさそうだが、僕は自分でうなずきながら語りかけた。
「もう大丈夫だ。ここにはちゃんとした病院があるからな。治療を受ければ、あっという間に良くなるよ」
そう信じたかった。アントンも意識はあるので、わずかにうなずいてくれたようだった。
だけど、先に下船していくアントンを見送ったとき、僕はやるせなさで一杯になった。
腹立たしいを通り越した、この怒り。一体どこへぶつければいいのだろう?
この航海中、僕たちはほとんど上陸して休むことができなかった。大海原をひたすら進む、心細い日々の中で、一人、また一人と病に倒れる者が出た。
そして治療の甲斐もなく死んでいったんだ。
どの人も、港町でゆっくり休めば助かったかもしれないのに。
船は何度か、寄港地に着岸した。だが許されたのは、最低限の水と食料を積むことだけ。オランダ人には上陸が許されず、すぐに出航を余儀なくされた。重病人を置いていくことは、もちろんできなかった。
これを疑問に思う者は多くて、誰かが航海士に質問したことも何度かあったが、いつもここはオランダ領ではないから仕方がないと説明されるばかりだ。
寄港地はすべて、オランダと友好的な関係にある第三国の支配地域だった。立ち寄らせてもらえるだけでも有難いと思わねばならない。
僕たちは静かに悲しんだ。国力が衰えるって、こういうことなんだな。
それでも僕たちは、まさかアフリカ最南端のケープでは休めるだろうと思っていた。
だってそうだろ? ケープは長い間、インド航路最大の中継地点としてその名を知られてきた。その町を築き上げたオランダ人が上陸できないなんて、ありえないよ。
大西洋を南下している時には、ケープまであと何日かって、みんなわくわくしてたんだ。
「上陸用の服は準備してあるか? ばっちり決めて、遊びに行こうぜ!」
もちろん僕だって、その日を楽しみにしていたさ。アントンもその頃には元気になって、一緒にケープの居酒屋に繰り出せるかもしれない、なんていうことも思っていた。
ケープでは滞在中、模型の船を作って競争するのが、オランダの船乗りの伝統なんだそうだ。そこには、楽しみがいっぱいあるはずだった。
だが、僕たちにそんな楽しい休日は訪れなかったんだ。
「ケープまで、あとどのぐらいですか?」
僕が航海士の一人に質問した時、冷たい反応を返されたのが忘れられない。
「下らぬことを聞くな! 何も知らぬくせに」
叱られたのは分かったけど、どうして叱られたのかは分からなかったよ。
だけどその後、別の航海士が事情を教えてくれた。僕がアントンの健康状態を心配しているのを知って、こっそり船室に来てくれたんだ。
「残念な報せだが、君、ケープには立ち寄れないよ。あそこは敵の支配下にあるからね」
僕は唖然とした。そんなこと、一般の国民にはまったく知らされていなかったから。
ケープのはるか沖合を、オランダ船は泥棒のようにコソコソと通り過ぎた。
僕も遠眼鏡を借りて水平線近くに目を凝らした。確かに敵国の旗が掲げられてたよ。赤と白の十字、イングランド国旗だ。
そんなわけで、アントンを含めた病人たちは、船中でうめき声を上げながら地獄の航海をさせられた。悔しいよ。一昔前だったら、こんなにつらい思いをさせなくて済んだかもしれないのに。
だけど今、このバタヴィアに僕とアントンは生きて到着した。これで良しとしなければならない。もちろん犠牲になった他の仲間のことについては、バタヴィアの教会できちんとお祈りさせてもらうよ。
そんなことを考えながら、僕が桟橋に降り立った時のことだ。
いきなり横から荷物を奪い取られた。
「お持ちしましょう、旦那」
僕はびっくりして、その小柄な男を見つめた。
オランダ語を話しているが、この土地の原住民のようだった。たぶん港湾労働の奴隷が、小遣い稼ぎでやっているんだろう。
見れば、周囲で他の同僚や乗組員も同じ目にあっている。
僕は慌ててその男から荷物を取り返した。
「結構だ。自分で運べる」
何だか気を抜けない雰囲気だった。おまけにひどい高温多湿じゃないか。汗がべとつき、蚊が常にうなりを上げて身にまとわりつく。
僕は辟易しながら他の同僚と列を作り、歩き出した。赤レンガの倉庫が立ち並んでいる。その間をぞろぞろと抜けて、僕たちは中心街へと向かった。