第41話 偽善

文字数 3,352文字

 はっとするほど白い砂浜。
 透明な緑色の海が陽射しを乱反射している。

 バンダネイラ島は、ジャワ島から二千キロほど東に位置している。宝石のように美しく、磨き抜かれた島なのに、その歴史は口にするのも憚られるような闇の中にある。

 ベルギカ要塞から出て、僕はフラフラとあてどなく浜辺を歩いている。あの悪夢を早く忘れたくて仕方がなかった。
 あれから一週間以上が経つというのに、まだ耳鳴りと頭痛は続いている。

 ここからそう遠くない浜辺で、首謀者の処刑は行われた。僕は人の死の立会いはおろか、断頭台を見るのも初めてで、そんなものがちゃんと植民地に用意されていること自体驚きだった。
 だがとにかく、あの凄惨な光景は本当にあったんだ。

 あのとき、目隠しをされた罪人が次々と台に登らされ、命を奪われていった。白砂と澄んだ海水が流血でどす黒く汚れていくのを、僕はひたすら現実のものとは思えない気分で眺めていた。

 もちろん僕たちバタヴィアから来た人員は、直接手を下すわけではない。だけど死刑が最後まで執行されるのを見届けなくてはならなかった。それが任務だったんだ。

 僕は恐怖でひたすら目を伏せ、小声で神の許しを乞い続けていた。
 数人目には断頭台の刃がこぼれて、一撃では死ねなくなった。苦悶の叫び声を聞くにつけ、覚悟していたはずの死刑囚の間に激しい動揺が起こった。

 兵士たちが狂ったように押さえつけていたが、僕はもうそちらに目を向けることもできなかった。なぜこんなにもむごたらしいことをせねばならないのか、もはやあの場にいた全員が分からなくなっていたんじゃないだろうか。
 
 バンダ諸島の原住民が、イギリスと密貿易をしているという情報が入ったのは二月ほど前のこと。現地役人が取り締まろうとしたところ、原住民側が猛反発したらしい。総督府はバタヴィアから軍を派遣してこれを鎮圧しなければならなかった。
 
 モルッカ諸島の中でも、バンダ諸島は特に良質のナツメグの産地として知られている。見ての通り、ここは天国に例えられるほど美しい島だ。
 しかしその昔、総督ヤン・ピーテルス・クーンが大虐殺を行い、真の意味での原住民は絶滅している。

 つまりここで言う原住民とは、他の島から連行されてきた奴隷のことだ。鎮圧軍もまた奴隷で構成されていることを思えば、実質、原住民同士の戦いだったんだろう。

 宗主国オランダの国力が衰えれば、虐げられていた土地での反乱は当然増えるものだった。
 オランダ兵は恒常的に不足し、今回はとうとう僕たち事務員までが戦後処理に駆り出されたというわけだった。最近バタヴィアでは一部の先鋭的な貴族たちが実権を握るようになってきているが、彼らは結局その場しのぎの対応しか思いつかないらしい。相変わらずVOCの旧社員を目の敵にし、嫌な仕事はあいつらにやらせておけばいいという考えだ。

 僕は今、自分の目が光を失っていることを自覚している。
 貴族たちに言いたいよ。お前らも一度処刑に立ち会ってみたらいいと。無残に転がる死骸を自分の目で見るがいいと。

 情けないが、僕は無力だった。ひどい世の中に対して憤ってみても、現実を変えることなんてできない。こんなにも光あふれる世界にいながら、もう二度と自分が笑える日は来ないような気がするよ。

 今、要塞の中では玉突きなどで遊んでいる者もいるが、気が知れないと思う。さっき僕も誘われたんだが、まだまだ、とてもそんな気分になれない。

 せめて早くバタヴィアに戻りたいと思いながら、僕は小道をとぼとぼと歩き出した。
 美しい海を見れば、またあの処刑を思い出してしまうから、あえて反対側にある山側の道に向かった。
 
 ふと異変を感じたのはその時だ。
 
 畑の向こうで、顔に覆い布をした男たちが荷車で何かを運んでいる。
 そこに積み上げられているのが人間の死体らしいということはすぐに分かった。あれだけの数があるということは、流行病か何かだろうか。
 
 男たちは車を傾け、地面に掘られた大きな穴の中に死体を滑り落とした。
 僕は目を伏せた。余計に暗澹とした気分になったよ。

 それだけでやり過ごそうと思ったのに、目を背ける直前、僕は見てしまった。
 車の端にしがみついている子供がいる。男たちはそれに気づいていながら、子供を穴にふるい落とそうと躍起になっている。
 
 もう考えている余裕はなかった。僕は無我夢中で駆け出した。
「よせ! その子はまだ生きている」
 
 作業をしているのも奴隷の男たちだった。彼らはうつろな目を僕に向けつつ、思ったよりはまともなオランダ語で述べた。
「もう長くはありませんよ。地下牢より、外で死なせてやった方がましですから」

 見るとそれは、七、八歳ぐらいと思われる少年だった。台の上でぐったりとし、胸を激しく上下させているが、目だけは僕の方へと向けている。

 僕はぎゅっと両の拳を握った。
「助かるかもしれないじゃないか。どうしてまだ息のある者を見捨てるんだ」

 男の一人はほんのわずかな間、僕を見たようだった。
 だがまたすぐに暗い顔を伏せ、淡々と返してきたよ。
「ご親切は有難いんですがね、旦那。ここまで症状が進んだら、もう助かりませんよ」
 
 僕は唖然とした。
 何という冷めた態度だ。同じ奴隷同士で、仲間を見捨てられるものなのか?

 だけど彼らがそう言う理由は、僕にも少しはわかるような気がした。
 奴隷というのは、一切の希望を持つことをやめているものだ。気まぐれに与えられるわずかな温情など、どうせ大したことはないと知っている。喜びも悲しみも捨て去っているからこそ生きて行ける。
 そんな状況を作り出したのは他ならぬオランダ人だ。僕は余計な口をはさむべきじゃなかった。

 かといって、僕はこの少年を見過ごせなかった。
 これから売られる奴隷たちは、要塞の地下の密室にぎゅうぎゅう詰めにされている。重症者の処分はそこで感染を広げないための処置なんだろう。
 僕はわずかな間、目を閉じた。

 どんな事情があろうとも。
 痛切に思った。このような殺人まがいを許していいはずがないじゃないか。

 目を開け、毅然として二人を見返す。
「ならば、僕が引き取る。その子をこっちへ」

 言ってしまってから、自分でも馬鹿だなと思った。
 引き取ってどうすればいいんだろう。僕のような下っ端役人は、召使いを雇えるような身分じゃないのに。
 だいたいこんな病気の子とは、一緒にいるだけで危険だった。この島でも病気を媒介する蚊は多く、僕自身が感染することも十分に考えられた。

 やめておけ。下手な温情をかけることは、かえって残酷だぞ。
 男たちからそんな風に言われるかもしれないと思ったし、自分でもそう思った。
 しかし意外にも、彼らは僕の「気まぐれ」を見逃すことにしたようだ。無表情のまま、顎で少年を指す。
「……ご勝手にどうぞ」

 少しだけ、救われたような気がした。
 やはり彼らとて人間だ。この子を殺さずに済んだことに、ほっとしたに違いない。

「さあ、おいで」
 僕は少年を引き寄せ、少し強引に背負いあげた。

 背負ったまま、さっきよりもむしろ力強く歩き出した。感染は怖かったが、これで感染するなら、すればいいと思い直した。

 もちろん、こんなのは偽善だと自覚している。どのみちすべての奴隷を助けられるわけじゃなかった。仮にこの子の命が助かっても、オランダ人がしていること、してきたことの贖罪にはならないだろう。

 それでも僕はキリスト教徒として生きたいんだ。先祖代々の深い信仰。それと結びついた質素な暮らしの中で、体に染み付いた信念というものがある。僕の魂そのものと言っていいその信念だけは、捨て去ってはならないような気がした。

 そうだ、これでいい、と僕は思った。
 あの処刑を見て、僕は体の芯まで死の恐怖にひたってしまった。だけどかえってそのことが、僕の中に眠る先祖の血をよみがえらせたんじゃないだろうか。
 生き抜かねばならないと僕は思い定めた。だからこうするんだ。
 
 たぶんここには、僕自身の切実な思いがあるんだろう。この汚れきった胸の内を、少しでも浄化したい。何を言われてもいい、命と引き換えにしてでも、本来の自分を取り戻したい。
 そう、この子のためじゃない。自分のためだ。
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