第70話 姉と妹
文字数 2,455文字
十月。
私は古道具屋、恵比寿屋の奥の部屋に横たわってる。
あんなに長く離れていた家なのに、不思議ね。天井の木目に見覚えがあるわ。
産声がかすかに聞こえる。
私はただ、うつらうつらしてる。数人の女がいて、盥 で産湯を使わせてるみたい。
身じろぎした途端、切り裂くような痛みがよみがえってきた。
「い、痛……」
そうつぶやくと、なぜか知らない女が振り返って、素っ頓狂な声を上げた。
「あれまあ、生き返ったよ」
「お姉ちゃん!」
別の女が叫び、古畳の上を四つん這いになって、狂ったように私の前に進み出てきたわ。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん、見ゆっとか?」
その女は顔をくしゃくしゃにして泣きながら、私の目の前でさかんに手を動かした。
ようやく焦点が定まってくる。
妹のおことの顔が像を結んだわ。
まあ何てことなの。おことったらずいぶん老け込んで、着物もくたびれて、ひどい姿ね。かつて町内で一番美しいと言われた面影はどこにもないじゃない。
呆れてそれを見つめる一方、私はぼんやり考えた。
命が危険にさらされた時、やはり支えてくれるのは家族ってことなのかしら。実家の土井家にいるってことは、そういうことよね。
今さらそれを嫌がって、虚勢を張ろうとは思わない。そんな元気は今の私にない。
ただ、私は乾いた気持ちでおことを見てる。
この妹とは、実に九年ぶりの再会よ。
「よう、産んだとね。危なかったとよ。もう駄目かと思うたわ」
妹は、涙を拭いながらそう言った。
彼女は産婆から白い布にくるんだ赤ん坊を受け取ると、私の側に再びにじりよってきたわ。
夢のような、そんな姿を見て、私はようやく目を見開いた。
そうだ、私、赤ちゃんを産んだんだっけ。
「まだ動かんで。お姉ちゃんは出血の多かったけん」
赤ん坊の首根を支える妹の手つきは、実に慣れたものだった。
「ほら、男の子たい」
顔のすぐ横に差し出された赤ちゃんは、まだしわくちゃの真っ赤な顔をしてる。どのぐらい西洋人に似ているのか、まったく分からなかった。
ただ、おくるみの中で、小さな胸が上下してる。ちゃんと息をしてるのは確かよ。
私は震えながらも何とか腕を動かし、自分の人差し指を赤ん坊の手のひらに近づけてみた。すると案外な力でぎゅっと握ってきたわ。
温かい手。
この子は、フェートン号事件に負けなかったんだ。
そういえば、ここへ運ばれてきた時には私、まだ意識があったの。周囲で多くの人が騒いでたけど、私には何も言い返す余裕はなかった。
そして実に三日間にも渡る、気の狂うような陣痛。私はもう死ぬんだと思ってた。だけど絶望しかけたその時こそ、誰かにずっと励まされ、手を握られてたような気がする。
他の誰でもない。この妹が、伴走してくれてたんだわ。
「おこと……ありがとおな」
私はようやくそれだけ言った。
「おことちが、こん子ば産ませてくれたんね」
言いながら、自分の声がしわがれてることにびっくりしたわ。そういえばずっと飲まず食わずなんだっけ。
でもそれより、染みるように思ったことがある。
私、はっきりと分かったの。おことはずっと苦しんできたのよ。私を裏切り、自分だけが逃げたことを、妹はずっとずっと気に病んで、のたうち回るような苦しさの中で生きてきたのよ。
だからこそ、何としても自分が産ませねばならないと思ったんでしょう。
「産んだのはお姉ちゃんやけん。うちは、別になあんも」
おことは泣き出しそうな顔で笑ったけど、そう言う彼女の髪はひどく乱れていて、不眠不休の戦いの名残をとどめてる。
ほんの一瞬、私たちは見つめ合ったわ。
「……お姉ちゃん、ごめんな」
果たして妹は絞り出すように言い、首を垂れ肩を震わせた。
「馬鹿な家族やけん。うち、お姉ちゃんに合わせる顔のなかて思うとった。ばってん、名村様にそがんことじゃいけんて怒られてな」
おことは継ぎの当たった袖で口元を覆い、しゃくり上げ始めた。
「うち、どがん恨みでも受け止めっけん、何でん言って」
私は淡々とした気分でそれを見つめてたわ。
この妹を許せるかどうか、まだ分からなかった。
そりゃ遊女になったからこそ、私は食べて来られたし、ヘンドリックにも出会えたわ。
だけどそれ以上に私は深く傷ついた。これで良かった、なんてとても言えるもんじゃない。おようという女は踏みにじられた挙句、死んでしまったのよ。
それでも、おことのみすぼらしい身なりから感じるものはあるの。
化粧っ気のない顔。あかぎれだらけの手。ろくに手入れもされていない乱れ髪。
そこには、遊女奉公に劣らぬかもしれない苦労がにじみ出てたわ。
ほのかな記憶がよみがえってる。
いくつもの星霜を抜けたずっと昔、この長崎に仲の良い姉妹がいたの。二人は手をつないで石段を駆け上がり、丘の上で同時に振り返って異国船を見たわ。
強い風が吹いてる。帆柱の先には、くっきりと三色旗がたなびいてた。
私は一人で赤ちゃんを産んだんじゃない。
世の中は暗いことばかり。自分さえ良ければっていう人は多いし、そのずるさは私の中にもあると思う。
それでも今の私は、人の中にある善意を少しだけ信じられるかもしれない。その一つ一つは夜明けの薄明りのように弱いものであっても、いつかは闇を打ち払う日の光となる。力強い光が、世界中の目を覚まさせるわ。
今は夜。しかも寒い冬がもうそこまで来てて、日の光は遠かった。
だけど、それだったら逆にもう一つの希望が見えるんじゃないかしら?
「おことち、お願い」
布団から手を伸ばし、私は濡れ縁に続く杉戸を指差した。
「寒いやもしれんばってん、ちょっとだけその戸ぉば開けてみて」
「……ん。分かった」
おことは袖で涙をごしごしと拭くと、すぐに立ち上がり、そのようにしてくれた。
思った通りよ。私は夜空をまっすぐに指差した。
「見て。あいが、オリオン座たい」
それは凛として、強く輝いてたわ。世界へとつながる星々は、どんな憎しみにも残虐にも屈することなく、静かにそこにあり続けてる。
私は古道具屋、恵比寿屋の奥の部屋に横たわってる。
あんなに長く離れていた家なのに、不思議ね。天井の木目に見覚えがあるわ。
産声がかすかに聞こえる。
私はただ、うつらうつらしてる。数人の女がいて、
身じろぎした途端、切り裂くような痛みがよみがえってきた。
「い、痛……」
そうつぶやくと、なぜか知らない女が振り返って、素っ頓狂な声を上げた。
「あれまあ、生き返ったよ」
「お姉ちゃん!」
別の女が叫び、古畳の上を四つん這いになって、狂ったように私の前に進み出てきたわ。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん、見ゆっとか?」
その女は顔をくしゃくしゃにして泣きながら、私の目の前でさかんに手を動かした。
ようやく焦点が定まってくる。
妹のおことの顔が像を結んだわ。
まあ何てことなの。おことったらずいぶん老け込んで、着物もくたびれて、ひどい姿ね。かつて町内で一番美しいと言われた面影はどこにもないじゃない。
呆れてそれを見つめる一方、私はぼんやり考えた。
命が危険にさらされた時、やはり支えてくれるのは家族ってことなのかしら。実家の土井家にいるってことは、そういうことよね。
今さらそれを嫌がって、虚勢を張ろうとは思わない。そんな元気は今の私にない。
ただ、私は乾いた気持ちでおことを見てる。
この妹とは、実に九年ぶりの再会よ。
「よう、産んだとね。危なかったとよ。もう駄目かと思うたわ」
妹は、涙を拭いながらそう言った。
彼女は産婆から白い布にくるんだ赤ん坊を受け取ると、私の側に再びにじりよってきたわ。
夢のような、そんな姿を見て、私はようやく目を見開いた。
そうだ、私、赤ちゃんを産んだんだっけ。
「まだ動かんで。お姉ちゃんは出血の多かったけん」
赤ん坊の首根を支える妹の手つきは、実に慣れたものだった。
「ほら、男の子たい」
顔のすぐ横に差し出された赤ちゃんは、まだしわくちゃの真っ赤な顔をしてる。どのぐらい西洋人に似ているのか、まったく分からなかった。
ただ、おくるみの中で、小さな胸が上下してる。ちゃんと息をしてるのは確かよ。
私は震えながらも何とか腕を動かし、自分の人差し指を赤ん坊の手のひらに近づけてみた。すると案外な力でぎゅっと握ってきたわ。
温かい手。
この子は、フェートン号事件に負けなかったんだ。
そういえば、ここへ運ばれてきた時には私、まだ意識があったの。周囲で多くの人が騒いでたけど、私には何も言い返す余裕はなかった。
そして実に三日間にも渡る、気の狂うような陣痛。私はもう死ぬんだと思ってた。だけど絶望しかけたその時こそ、誰かにずっと励まされ、手を握られてたような気がする。
他の誰でもない。この妹が、伴走してくれてたんだわ。
「おこと……ありがとおな」
私はようやくそれだけ言った。
「おことちが、こん子ば産ませてくれたんね」
言いながら、自分の声がしわがれてることにびっくりしたわ。そういえばずっと飲まず食わずなんだっけ。
でもそれより、染みるように思ったことがある。
私、はっきりと分かったの。おことはずっと苦しんできたのよ。私を裏切り、自分だけが逃げたことを、妹はずっとずっと気に病んで、のたうち回るような苦しさの中で生きてきたのよ。
だからこそ、何としても自分が産ませねばならないと思ったんでしょう。
「産んだのはお姉ちゃんやけん。うちは、別になあんも」
おことは泣き出しそうな顔で笑ったけど、そう言う彼女の髪はひどく乱れていて、不眠不休の戦いの名残をとどめてる。
ほんの一瞬、私たちは見つめ合ったわ。
「……お姉ちゃん、ごめんな」
果たして妹は絞り出すように言い、首を垂れ肩を震わせた。
「馬鹿な家族やけん。うち、お姉ちゃんに合わせる顔のなかて思うとった。ばってん、名村様にそがんことじゃいけんて怒られてな」
おことは継ぎの当たった袖で口元を覆い、しゃくり上げ始めた。
「うち、どがん恨みでも受け止めっけん、何でん言って」
私は淡々とした気分でそれを見つめてたわ。
この妹を許せるかどうか、まだ分からなかった。
そりゃ遊女になったからこそ、私は食べて来られたし、ヘンドリックにも出会えたわ。
だけどそれ以上に私は深く傷ついた。これで良かった、なんてとても言えるもんじゃない。おようという女は踏みにじられた挙句、死んでしまったのよ。
それでも、おことのみすぼらしい身なりから感じるものはあるの。
化粧っ気のない顔。あかぎれだらけの手。ろくに手入れもされていない乱れ髪。
そこには、遊女奉公に劣らぬかもしれない苦労がにじみ出てたわ。
ほのかな記憶がよみがえってる。
いくつもの星霜を抜けたずっと昔、この長崎に仲の良い姉妹がいたの。二人は手をつないで石段を駆け上がり、丘の上で同時に振り返って異国船を見たわ。
強い風が吹いてる。帆柱の先には、くっきりと三色旗がたなびいてた。
私は一人で赤ちゃんを産んだんじゃない。
世の中は暗いことばかり。自分さえ良ければっていう人は多いし、そのずるさは私の中にもあると思う。
それでも今の私は、人の中にある善意を少しだけ信じられるかもしれない。その一つ一つは夜明けの薄明りのように弱いものであっても、いつかは闇を打ち払う日の光となる。力強い光が、世界中の目を覚まさせるわ。
今は夜。しかも寒い冬がもうそこまで来てて、日の光は遠かった。
だけど、それだったら逆にもう一つの希望が見えるんじゃないかしら?
「おことち、お願い」
布団から手を伸ばし、私は濡れ縁に続く杉戸を指差した。
「寒いやもしれんばってん、ちょっとだけその戸ぉば開けてみて」
「……ん。分かった」
おことは袖で涙をごしごしと拭くと、すぐに立ち上がり、そのようにしてくれた。
思った通りよ。私は夜空をまっすぐに指差した。
「見て。あいが、オリオン座たい」
それは凛として、強く輝いてたわ。世界へとつながる星々は、どんな憎しみにも残虐にも屈することなく、静かにそこにあり続けてる。