第63話 御朱印状

文字数 2,105文字

 僕が寝室に戻ったとき、オリオノはまだ寝台で苦しみ、うめいていた。

「さあ行くぞ、オリオノ」
 抱き上げようとしたが、オリオノはなおも頑固に首を振って抵抗してきた。僕はもう、苛立ちで爆発しそうだ。
「いい加減にせんね! ここが火の海になってからじゃ遅か」

 せっかくタキチローたちが長崎奉行の許可を取りつけ、僕たち商館の関係者全員が避難できるよう手筈を整えてくれたんだ。
 西役所の方で受け入れてもらえるという。とにかく早く行かねばならない。全員が逃げ遅れるわけにはいかないんだ。

 いや、分かってるよ。僕だってやましさでいっぱいなんだ。妊娠中の妻に、それもこんなに大事な時に風邪をうつしてしまうなんて、どんなに自分を責めても足りやしない。そのせいでオリオノは早産しかかっている。

 しかし、そうはいっても、だ。焼け死ぬわけにはいかない。一刻も早く逃げなくてはならないんだ。
 
 僕が遠眼鏡で見た限り、かなりの大型かつ重装備のフリゲート艦だった。オランダの三色旗を掲げてはいるが、たぶんイギリスだろう。あれだけの軍船を用意できて、なおかつオランダ人を標的に襲ってくる国は他に思い当たらない。

 とにかく砲撃はいつ始まるか分からなかった。その前に脱出しなければならないんだ。
 無理やりにでも抱きかかえようとすると、オリオノは一層大きく首を振った。
「いや! 動けんとよ!」

 両腕を振りかざして、泣きながら抵抗するんだ。
「今動いたら、赤ちゃんが死んじゃう。やっと……やっと産めるて思うたとに」

 まったく困ったもんだ。
 さっきから彼女は泣きながら言いつのっている。自分はここへ置いて、僕だけ他の者と一緒に逃げろって。
 妻を置き去りにする? そんなこと、できるわけないじゃないか。

 僕はもう一度、説得を試みるしかなかった。
「オリオノ。子供はまた作れば良か。ばってん僕の妻、たった一人。代わりはなかよ」
「また作ればいいですって!」
 オリオノは涙を振り飛ばして怒り狂った。ついさっきまでぐったりしていたのに、とんだ変わりようだ。

「あなたにこん気持ちがわかると! もううちには後がなかです。こん子ば授かったんは奇跡ばい。うち、炎に焼かれてもこん子ば産みます」
 どうも火に油を注いでしまったようだ。我ながら浅はかな物言いだったと思うが、今はそんなことにかかずらってもいられない。
 
 オリオノは振り上げた拳を一旦は下ろしたものの、そんな僕に挑戦的な視線を送ってくる。
「ねえヘンドリック」
 その不穏な声に、何となく嫌な予感がした。

「うちのことば、本当に愛してくれとるなら、ここで一緒に死んでくれんね」
 彼女の目はどこか据わっていて、胡乱な悪魔が住み着いたようだ。

 心中なんて、と馬鹿にしていたのは彼女の方だ。僕は最初から命がけの愛だとはっきり言っていたじゃないか。死を恐れているわけじゃない。

 ただ、今はそんなことを言っている場合じゃないだろう。無茶なことをして、周囲に迷惑をかけて良いわけがない。
 彼女は分かっていながら、僕を追い詰める。そうやって僕を試して、自分が愛されていることを確かめたいんだろう。
 
 僕が答えられずにいると、彼女はまたわっと激しく泣き出した。
「約束したでしょ? 無理なの? 男の人って本当に嘘ばっかり」
 ならば本当にここで死んでやろうかと言おうとした時、ドンドンと無造作に扉が叩かれる音でそれは遮られた。

 扉が薄く開き、タキチローが厳しい表情で顔を出す。
「まだですか? 皆さん、下でお待ちです」
「うん、今行く」

 他の商館員や従僕たちはすでに避難準備ができているそうだ。タキチローは早口で告げる。
「皆さん、カピタンの指示通りに包みを持ちましたよ」
 そうなのだ。商館の銀器などは一旦失えば、この国ではなかなか手に入らない。手荷物と一緒に持ち出してくれと、さっき頼んだところだったんだ。

 となれば、後は僕たちだけだった。
 タキチローは僕が苦戦しているのを見て取ったらしく、つかつかと歩み寄ってひざまずいている僕の肩をつかんだ。
「おようはこちらで運びます。カピタンは、例の物を」

 忘れていたわけではないが、確かにその通りだった。

 僕は無言で立ち上がり、一人で薄暗い執務室へと入っていった。
 机の引き出しから鍵を出すと、僕は書棚へと歩み寄り、手前の本を数冊取り出した。その奥に隠し扉がある。こじあけるのは久しぶりのことで、キーっときしみ音が響く。
 
 銀の聖櫃は、今日も鈍い光を放っていた。
 
 中には御朱印状が入っている。初代国王イエヤスの名で発行された、オランダに対する渡航許可証だ。歴代商館長のみが手を触れることを許されている。
 17世紀初頭の奉書紙のままだった。出島大火の時もこれだけは当時の商館長が懐に入れ、死に物狂いで守り抜いたそうだ。

 オランダ商館がここ、出島へ移ってきてから167年。御朱印状が出島の外へ持ち出されたことは一度とてなかった。平民出身の僕がその禁を破るなんて、何たる運命の変転かと思う。
 
 僕は厳かな気持ちで聖櫃を取り出した。御朱印状は銀の覆いを通してもなお、幾筋もの強烈かつ神聖な光を放っているようだった。

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