第43話 辞令
文字数 3,670文字
僕はムハマッドをバタヴィアへ連れ帰ると、知り合いの男に使ってくれと頼み込んだ。
総督府の食堂を切り盛りする調理師の一人で、ベンという。
当たり前だが、ベンにいい顔はされなかった。
「こんな子を押し付けられても困るよ。食い扶持の方がよっぽどかかるじゃないか」
腕組みをし、渋るベンに向かい、僕は強硬に拝み倒した。
「そこを何とか。この子、皿洗いと給仕ならできるから」
まさに、ここでなら何とかなるような気がしたんだ。ここならベンも他の調理師も温厚な人物ばかりで、ムハマッドが職場で虐待されるようなことはないと思う。それに僕の目の届く場所だから、時々は様子を見に来られる。
もちろん身勝手だよな。自分の作った負担を、他人に押し付けてるんだから。ベンが怒るのも無理はない。
だけど僕一人ではムハマッドを助けてやれないんだ。ベンとて最初はムハマッドの教育に手がかかるだろうが、あとは戦力が増えて助かるはずなんだよ。
それだけに、ムハマッドにとってはこれで良いとは言えないかもしれなかった。結局は奴隷だから、こき使われた上にタダ働きだ。
しかも、その後ムハマッドの様子を見に行ったら、心配した通りのことが起こっていた。ムハマッドが若い調理師にこっぴどく叱られ、うなだれてるんだ。
ベンたち年長の者はその場にいなかった。しかもムハマッドの目の上には、殴られたような痣があるように見えた。
僕はその調理師に断り、ムハマッドを裏口に呼び出した。
「大丈夫か、その痣はどうしたんだ」
さっきのあいつがいじめたんだろうか?
疑念を持った僕がいくら問い詰めても、ムハマッドはなかなか答えなかった。
「……僕が悪いんです。僕が、大事なお皿を割っちゃったから」
ムハマッドがようやく口を開いたとき、出てきたのがそれだった。
「それに、ここでは残り物を頂けるんです。食べさせてもらえるだけでも、以前よりはずっとましですから」
こんな小さな子が、引きつった笑いとともに、そう言いつのるんだ。その不自然さといったらなかった。
僕は胸をえぐられるような気がする。
このムハマッドの立派過ぎる態度はどうだろう。こんな子供が不満の一つも言えないのか。あれは嫌だ、これも嫌だというのが普通の子供だろうに。
ムハマッドは自分の立場の弱さをよくわかっているんだろうな。もうそれだけで、この子の聡明さを説明して有り余ってるよ。
僕の方は情けないほど無力で、そんな彼の頭をなでることぐらいしかできなかった。
「君は頭がいいんだ。どんな仕事も、きっとできるようになるさ」
どうか、そうあって欲しい。ムハマッドのような少年がちゃんと生きる道を見いだせるような世の中であって欲しい。
自分が何もできていないくせに何を、と言われそうだが、それでも僕は彼を見守り、彼のために祈ろうと思う。少なくとも、ベンにもっと職場の隅々にまで目を配るよう、頼んでみるよ。
そんなある日のことだ。
僕はいきなり、名指しで総督の部屋に来るよう言われた。
「……ぼ、僕ですか?」
聞き違いかと思ってそう言ったんだが、使いの者はちらっと冷たい一瞥をくれるだけだった。
「だからそう言っただろう。早く来い、ヘンドリック・ドゥーフ。総督がお待ちだ」
平の職員が直々に総督に呼ばれるなんて、異例のことだ。
僕は青ざめた。自分にどんな落ち度があったんだろうって、これまでの仕事ぶりを真剣に思い返した。
はっとした。
もしやムハマッドのことか? 特定の奴隷に目をかけたから、僕は処分でも受けるんだろうか。総督府から追放されるんだろうか。
どうしよう。こんな植民地で失業したら、その苦労は本国の比じゃないよね? 僕は人生をやり直す自信がないよ。
僕はあれこれ深刻に悩んだが、どれもこれも、的外れもいいところだった。
後で分かったんだが、どうやら各地での反乱の対応にまだ多くの者が出払っていたため、総督府に残っていた者の中でたまたま僕が目についたようだ。例の急進派貴族たちにしてみれば、とりあえず面倒な仕事はあいつにやらせておこう、といういつもの調子だったのかもしれない。
何も事情を知らない僕は、ビクビクしながら部屋に入った。貴族がずらりと居並んでいる。
そして奥の机には、総督オーフェルストラーテンが座っていた。
実権が他の貴族たちに奪われたせいだろう。総督はすっかり老けこみ、かつての威光を失っているようだった。
背を丸め、疲れた表情。しかも例のお気に入りのかつらはどこへ行ってしまったのか、禿げ頭の上にかろうじて残った毛がふわふわと揺れている。
総督は乏しい表情で僕に辞令を告げた。
「……ヤパンへ赴任だ。出島商館の様子を、見てくるように」
いきなりそんなことを言われても、わけが分からない。僕は周囲に居並ぶ貴族を見回したが、全員がむっつりと黙って、誰も詳しいことを教えてくれそうになかった。
しかし、さすがにそれだけでは情報不足だと感じたんだろう。そのうちの若い一人が咳払いをすると、いかにも仕方なさそうに語りだした。
「商館長ヘンミーの急死の知らせがもたらされた。第三国の船がもたらした不確かな情報ゆえ、真偽がわからない。他の人間も含めて、生死を確かめて参れ」
彼が言うには、ここ二年ほどヤパンとの連絡が不能に陥っていて、そこの商館がどうなっているのか全く不明とのことだ。昨年の船はヤパンへの途上で座礁したが、これとて乗組員のうち、清国の船に引き上げられるなどして生還した者がいたから分かったのだという。
「まったくこんな時に面倒を起こしてくれたものだ」
と、ようやくしゃべり出した貴族たちは、死んだ商館長に向かってさんざん文句を垂れていた。僕はそのヘンミー氏とやらに、こっそり同情したよ。
ヤパン? どこにある国だっけ。
執務室に戻る途中、僕はふとそう思った。ジョグジャカルタやスラカルタ、バンテンといった周辺イスラム王国は多いが、その中にヤパンという国はあったかな。
かつての激務はどこへやら、守るべき会社がなくなってから、総督府は乱脈を極めている。旧社員たちはどこか退廃した空気を漂わせていて、今も数人残っていた同僚たちが仕事を放り出してチェスに興じているところだった。
しかも遊んでいる割には、さほど楽しそうでもない。僕は後頭部を掻きながら近づいて、そんな彼らに声を掛けてみた。
「なあ、みんな。ヤパンという国を知っているか?」
同僚たちは何やら声を上げ、ガタンと椅子から立ち上がった。
「ヤパンに行くのか、お前!」
どうでもいい物のように駒を投げ出し、僕に詰め寄ってくる。
僕はその反応に驚いたが、仲間たちは口々に言うんだ。
「ヤパンって、あの出島商館だろ?」
「そうだ。みんなが第一希望にしている所じゃないか。知らなかったのか」
そこまで言われてようやく思い当たった。前にワルデナールさんが教えてくれたんだ。ヴォルテールやモンテスキューも著書に記した、東の果ての、神秘の国だ。
あわてて総督府の書庫へ行き、僕は本の閲覧を申請した。
エンゲルベルト・ケンペル著『日本誌』のオランダ語版があったはずなんだ。
ケンペルは今から約百年前に日本へと渡り、皇帝トクガワツナヨシにも謁見したドイツ人学者だが、これが今、ヨーロッパ人が日本を知るための基本文献だと聞いている。
司書が出してくれた本を受け取ると、僕は重たい革の表紙をめくった。
「なるほど、精神的皇帝と世俗的皇帝の二人がいるのか……」
日本の文化風俗が優れているとあるが、僕はそれよりも、日本がヨーロッパ諸国の中でオランダだけに通商を許しているという点が興味深かった。他の国とは事情が違うようだ。よほどうまく運営がなされているんだろう。
直接日本を知っている者の話も聞きたくて、僕は何人かの経験者を見つけ出し、声を掛けてみた。
彼らが口を揃えて言ったことがある。日本は今でもオランダに対し、極めて友好的だそうだ。厳しい海禁政策を取っているせいで、オランダという国の衰退を知らないらしい。
「ナガサキって平和な町なんだぜ。他国の商館がないから、密告されたり、裏切られたり、そういうことに怯えなくていい」
ははあ、そういうわけでナガサキの人気が高いんだな。
清国の商人は来ているらしいが、こちらとはきっちり区別されている上、そもそも競合の意味が違うとされている。清人は清人で誇り高く、オランダ人など敵とも思っていないそうだ。
他にもいろいろ聞いた。
日本は事業規模こそ小さいものの、銅を供出してくれる貴重な存在であるらしい。そして今では、その海域に残ったオランダの最後の砦に他ならなかった。
何より僕が感銘を受けたのは、日本がかつて押し寄せたヨーロッパの国々に暴力を許さなかったという点だ。トクガワ王朝はその後も極めて安定した長期政権となっているといい、官僚組織がしっかり機能し、国内の治安も比較的良いらしい。
平和な国、ヤパン!
僕は胸を高鳴らせた。それならムハマッドも連れていってやれる。
総督府の食堂を切り盛りする調理師の一人で、ベンという。
当たり前だが、ベンにいい顔はされなかった。
「こんな子を押し付けられても困るよ。食い扶持の方がよっぽどかかるじゃないか」
腕組みをし、渋るベンに向かい、僕は強硬に拝み倒した。
「そこを何とか。この子、皿洗いと給仕ならできるから」
まさに、ここでなら何とかなるような気がしたんだ。ここならベンも他の調理師も温厚な人物ばかりで、ムハマッドが職場で虐待されるようなことはないと思う。それに僕の目の届く場所だから、時々は様子を見に来られる。
もちろん身勝手だよな。自分の作った負担を、他人に押し付けてるんだから。ベンが怒るのも無理はない。
だけど僕一人ではムハマッドを助けてやれないんだ。ベンとて最初はムハマッドの教育に手がかかるだろうが、あとは戦力が増えて助かるはずなんだよ。
それだけに、ムハマッドにとってはこれで良いとは言えないかもしれなかった。結局は奴隷だから、こき使われた上にタダ働きだ。
しかも、その後ムハマッドの様子を見に行ったら、心配した通りのことが起こっていた。ムハマッドが若い調理師にこっぴどく叱られ、うなだれてるんだ。
ベンたち年長の者はその場にいなかった。しかもムハマッドの目の上には、殴られたような痣があるように見えた。
僕はその調理師に断り、ムハマッドを裏口に呼び出した。
「大丈夫か、その痣はどうしたんだ」
さっきのあいつがいじめたんだろうか?
疑念を持った僕がいくら問い詰めても、ムハマッドはなかなか答えなかった。
「……僕が悪いんです。僕が、大事なお皿を割っちゃったから」
ムハマッドがようやく口を開いたとき、出てきたのがそれだった。
「それに、ここでは残り物を頂けるんです。食べさせてもらえるだけでも、以前よりはずっとましですから」
こんな小さな子が、引きつった笑いとともに、そう言いつのるんだ。その不自然さといったらなかった。
僕は胸をえぐられるような気がする。
このムハマッドの立派過ぎる態度はどうだろう。こんな子供が不満の一つも言えないのか。あれは嫌だ、これも嫌だというのが普通の子供だろうに。
ムハマッドは自分の立場の弱さをよくわかっているんだろうな。もうそれだけで、この子の聡明さを説明して有り余ってるよ。
僕の方は情けないほど無力で、そんな彼の頭をなでることぐらいしかできなかった。
「君は頭がいいんだ。どんな仕事も、きっとできるようになるさ」
どうか、そうあって欲しい。ムハマッドのような少年がちゃんと生きる道を見いだせるような世の中であって欲しい。
自分が何もできていないくせに何を、と言われそうだが、それでも僕は彼を見守り、彼のために祈ろうと思う。少なくとも、ベンにもっと職場の隅々にまで目を配るよう、頼んでみるよ。
そんなある日のことだ。
僕はいきなり、名指しで総督の部屋に来るよう言われた。
「……ぼ、僕ですか?」
聞き違いかと思ってそう言ったんだが、使いの者はちらっと冷たい一瞥をくれるだけだった。
「だからそう言っただろう。早く来い、ヘンドリック・ドゥーフ。総督がお待ちだ」
平の職員が直々に総督に呼ばれるなんて、異例のことだ。
僕は青ざめた。自分にどんな落ち度があったんだろうって、これまでの仕事ぶりを真剣に思い返した。
はっとした。
もしやムハマッドのことか? 特定の奴隷に目をかけたから、僕は処分でも受けるんだろうか。総督府から追放されるんだろうか。
どうしよう。こんな植民地で失業したら、その苦労は本国の比じゃないよね? 僕は人生をやり直す自信がないよ。
僕はあれこれ深刻に悩んだが、どれもこれも、的外れもいいところだった。
後で分かったんだが、どうやら各地での反乱の対応にまだ多くの者が出払っていたため、総督府に残っていた者の中でたまたま僕が目についたようだ。例の急進派貴族たちにしてみれば、とりあえず面倒な仕事はあいつにやらせておこう、といういつもの調子だったのかもしれない。
何も事情を知らない僕は、ビクビクしながら部屋に入った。貴族がずらりと居並んでいる。
そして奥の机には、総督オーフェルストラーテンが座っていた。
実権が他の貴族たちに奪われたせいだろう。総督はすっかり老けこみ、かつての威光を失っているようだった。
背を丸め、疲れた表情。しかも例のお気に入りのかつらはどこへ行ってしまったのか、禿げ頭の上にかろうじて残った毛がふわふわと揺れている。
総督は乏しい表情で僕に辞令を告げた。
「……ヤパンへ赴任だ。出島商館の様子を、見てくるように」
いきなりそんなことを言われても、わけが分からない。僕は周囲に居並ぶ貴族を見回したが、全員がむっつりと黙って、誰も詳しいことを教えてくれそうになかった。
しかし、さすがにそれだけでは情報不足だと感じたんだろう。そのうちの若い一人が咳払いをすると、いかにも仕方なさそうに語りだした。
「商館長ヘンミーの急死の知らせがもたらされた。第三国の船がもたらした不確かな情報ゆえ、真偽がわからない。他の人間も含めて、生死を確かめて参れ」
彼が言うには、ここ二年ほどヤパンとの連絡が不能に陥っていて、そこの商館がどうなっているのか全く不明とのことだ。昨年の船はヤパンへの途上で座礁したが、これとて乗組員のうち、清国の船に引き上げられるなどして生還した者がいたから分かったのだという。
「まったくこんな時に面倒を起こしてくれたものだ」
と、ようやくしゃべり出した貴族たちは、死んだ商館長に向かってさんざん文句を垂れていた。僕はそのヘンミー氏とやらに、こっそり同情したよ。
ヤパン? どこにある国だっけ。
執務室に戻る途中、僕はふとそう思った。ジョグジャカルタやスラカルタ、バンテンといった周辺イスラム王国は多いが、その中にヤパンという国はあったかな。
かつての激務はどこへやら、守るべき会社がなくなってから、総督府は乱脈を極めている。旧社員たちはどこか退廃した空気を漂わせていて、今も数人残っていた同僚たちが仕事を放り出してチェスに興じているところだった。
しかも遊んでいる割には、さほど楽しそうでもない。僕は後頭部を掻きながら近づいて、そんな彼らに声を掛けてみた。
「なあ、みんな。ヤパンという国を知っているか?」
同僚たちは何やら声を上げ、ガタンと椅子から立ち上がった。
「ヤパンに行くのか、お前!」
どうでもいい物のように駒を投げ出し、僕に詰め寄ってくる。
僕はその反応に驚いたが、仲間たちは口々に言うんだ。
「ヤパンって、あの出島商館だろ?」
「そうだ。みんなが第一希望にしている所じゃないか。知らなかったのか」
そこまで言われてようやく思い当たった。前にワルデナールさんが教えてくれたんだ。ヴォルテールやモンテスキューも著書に記した、東の果ての、神秘の国だ。
あわてて総督府の書庫へ行き、僕は本の閲覧を申請した。
エンゲルベルト・ケンペル著『日本誌』のオランダ語版があったはずなんだ。
ケンペルは今から約百年前に日本へと渡り、皇帝トクガワツナヨシにも謁見したドイツ人学者だが、これが今、ヨーロッパ人が日本を知るための基本文献だと聞いている。
司書が出してくれた本を受け取ると、僕は重たい革の表紙をめくった。
「なるほど、精神的皇帝と世俗的皇帝の二人がいるのか……」
日本の文化風俗が優れているとあるが、僕はそれよりも、日本がヨーロッパ諸国の中でオランダだけに通商を許しているという点が興味深かった。他の国とは事情が違うようだ。よほどうまく運営がなされているんだろう。
直接日本を知っている者の話も聞きたくて、僕は何人かの経験者を見つけ出し、声を掛けてみた。
彼らが口を揃えて言ったことがある。日本は今でもオランダに対し、極めて友好的だそうだ。厳しい海禁政策を取っているせいで、オランダという国の衰退を知らないらしい。
「ナガサキって平和な町なんだぜ。他国の商館がないから、密告されたり、裏切られたり、そういうことに怯えなくていい」
ははあ、そういうわけでナガサキの人気が高いんだな。
清国の商人は来ているらしいが、こちらとはきっちり区別されている上、そもそも競合の意味が違うとされている。清人は清人で誇り高く、オランダ人など敵とも思っていないそうだ。
他にもいろいろ聞いた。
日本は事業規模こそ小さいものの、銅を供出してくれる貴重な存在であるらしい。そして今では、その海域に残ったオランダの最後の砦に他ならなかった。
何より僕が感銘を受けたのは、日本がかつて押し寄せたヨーロッパの国々に暴力を許さなかったという点だ。トクガワ王朝はその後も極めて安定した長期政権となっているといい、官僚組織がしっかり機能し、国内の治安も比較的良いらしい。
平和な国、ヤパン!
僕は胸を高鳴らせた。それならムハマッドも連れていってやれる。