第56話 虚偽

文字数 3,526文字

 僕は苦々しい思いでその名を聞いた。
「そう、ラッフルズ。最も注意すべき男だ。今は一書記官に過ぎないが、すでにかなりの影響力を持っている」
 
 記事によれば、この男がイギリス東インド会社の中の強硬派を率いているらしい。そして彼らは主張しているようなんだ。今こそ好機だ、オランダ領のジャワや周囲の拠点を奪うべきだと。
 オランダの(ことわざ)にある通り、大きな魚が小さな魚を飲み込む勢いだ。
 
 総督府にいた頃、僕はラッフルズの書いた文字を見たことがある。イギリス側から届いた書簡を、たまたま手にしたんだ。
 それは外交文書とは思えないほどの、端正で技巧的な文字と文章だった。内心、僕はこいつに敵わないと思った。

「彼とは面識がない。だけど何となく予感するんだ。ラッフルズはきっと東インドで、エンガラントの覇権を確立する」
 僕にそれを阻止する力がないのが情けなかった。同じ東インドにいるヨーロッパ人なのに、彼はすでに巨人で、片や僕は無力だ。

「タキチロー。僕はラッフルズに嫉妬してるのかもしれない」
 もう何を隠す必要もなく、僕は頭を抱えている。
「国の成長期と人生を共にする者は幸運だ。大きな仕事を成し遂げられる」
 僕だってもっと違う時代、違う国に生まれていたらと何度思ったか知れない。斜陽の国に生まれたこの不遇感。身動きが取れず、本音も漏らせない毎日だ。

 だが考えてみれば、僕はまだ幸運な方かもしれなかった。祖国でもバタヴィアでも僕はものの数に入らない存在だったのに、日本という国ではこうしてほんの少しだけ、価値を認めてもらえたんだから。

「僕には長崎が、ヤパンがあって良かった。たとえ追放されても、僕はヤパンを愛し続けるよ。だから、君は心置きなく、エンガラントの人間と付き合うがいい」
 言いながら、本当にそうなるだろうなと思った。タキチローは僕のことなんか忘れ、今度はラッフルズと友達になるんだ。

 夕日がカピタン部屋に差し込み、壁も敷物も、なつかしいオレンジの色に染められている。恨むまいと思う。僕にとって、日本は永遠に美しい思い出だ。

 タキチローは新聞に目を落としたまま、いつまでも動かなかった。何を言わずとも、彼の内部で激しい葛藤が起こっているのは感じられる。
 そりゃそうだろう。オランダはいつまでも世界帝国を気取って、日本での特権を手放さずに来たんだ。日本人をだましていたんだ。この裏切り者め、と叫びたいだろう。

「さて、君はどうする。タキチロー」
 僕は気を取り直すと、来客椅子の方へ回った。
「幕府への忠義を優先して我々を告発するか。それとも沈黙を守り、我々と心中するか」

 言いながらどっかりと腰を下ろし、脚を組んだ。
 するとタキチローは、突如として僕の方を振り向いたんだ。
「そのどちらでもないと言ったら?」
 目を合わせた途端、僕はおやと思った。

 不敵な笑み、とでも言うべきものだった。もちろんその表情は、初めて見るものじゃない。良くも悪くもオランダと癒着してきた、長崎の男の顔に違いないからだ。
 だけどタキチローは誰よりも幕府に忠実だと思ってきたんだ。一匹狼の野蛮な匂いを彼が発することは、かなり意外だったと言っていい。

 そんな僕の驚きをよそに、彼はしゃあしゃあと言ってのけた。
「長崎の町は、交易からの収益に依存しています。当然オランダという国も、その枠組みから外すことはできません。簡単に別の国に乗り換えるわけには参りませんよ。他の役人と話し合ったところで、しばらく沈黙して様子を見ようという結論に至るに決まっています」

 それは有難いが、いつまでもそんなごまかしが通用するわけがない。僕は首を振った。
「だけどタキチロー。世界がこれからどうなるか、誰にもわからないんだよ?」
「ネーデルラントが、再び独立を果たせば良いでしょう? それまでの辛抱です」

 思わずはっとした。どこかで聞いた話だ。

「さ、再独立、だって?」
 僕は絶句しつつもタキチローの言葉を繰り返し、やがて失笑してしまった。
「簡単に言ってくれるね。ナポレオンがどれほど強いか、君は知らないだろうに」

「御国には、ナポレオンとやらを蹴散らす力が本当にないのでしょうか」
 今度はタキチローの方が挑むように、僕をじっと見つめてくる。
「あるいは、ナポレオンを上回るような、第三国の台頭が考えられませんか?」

 参ったな、と僕は前かがみになって頭を掻いた。
「わかるわけないじゃないか。誰だって先が読めたら苦労はないよ」

 今のところ世界最強の国といえばフランスだろうが、成り上がり者のナポレオンの時代がずっと続くとも思えない。イギリスは急速に勢力を拡大しているが、これまた覇権を獲得するところまで行くかどうかは分からない。

「フェー・エス(アメリカ)の独立を見ろ。エンガラントとて世界中で一人勝ちというわけじゃない。そのフェー・エスとて、独立を果たしたとはいえ、まだまだ不安定だ」
 もちろんオランダはこのまま消えるわけではないと信じたい。そう、再独立を願わぬオランダ人がどこにいようか。僕の一番の望みだって、それだと言ってもいい。
 だけどそんなものは、僕の個人的な感傷でしかない。

「……正直、どうしていいか分からないんだ」
 再び苦しさが舞い戻ってきたような気がして、僕は両手を口に当てた。
「僕はネーデルラントの立場を死守せねばならない。だけど、君たち長崎の役人を窮地に追い込みたくはない。当面、来年の風説書(ふうせつがき)の記載をどうしようか、僕は今、ものすごく悩んでいる」

 風説書とは、幕府に提出を義務付けられている海外情勢の報告書のことだ。通常はオランダ商館長が作成し、通詞が日本語に訳している。
 歴代の商館長は、オランダに不利な情報は極力載せずにきた。今のところ、僕もその態度を踏襲している。

 だけど、もう隠し事はできない。
 
 肩に入っていた力がふっと抜け、僕は目まいを覚えた。こうして打ち明けてしまうと、長い間僕を苦しめてきたこの葛藤も、何だか重みを失うようだった。
 
 タキチローはうつむいてしばらく何かを考えていたが、やがて顔を上げた。
「紙とペンをお借りできないでしょうか?」
 もちろん構わない。僕は再び立ち上がると、机の上から真鍮のインク壺と羽ペンを持ってきた。

 タキチローの方は、刀を外して長椅子に腰を下ろしている。
 僕が道具を差し出すと、彼は自宅でもごく普通にやっているんだろう。慣れた手つきでインク壺の蓋を開け、手にした羽根ペンの先に吸わせにかかった。

「……主人が領地にいないのは、我が国でも同じです。多くの大名が江戸と領地を行ったり来たりしているのを、カピタンもご存知でしょう」
 彼は文案を書き始めた。ペン先から生まれる線に、たちまち命が宿っていく。
「オラニエ公はただ静養に出ているだけ。そういうことにしましょう」
 頭の中にすでにまとめていたかのようにその文章には淀みがなく、しかも生み出される筆記体は並のオランダ人以上、いや、あのラッフルズ以上に流麗だった。

「現国王については、跡継ぎがいなかったために他国より養子を迎えたと表記します。我が国でもおなじみの習慣ですから、理解されるでしょう」
「……」
 僕は絶句して、彼の筆跡にじっと目を落とすばかりだ。

 もちろん余計な波風を立てずに済む方法があれば、僕としては非常に助かる。
 だけどそれ、内容的には虚偽が含まれるじゃないか。迷いもなくその壁を乗り越えようとするタキチローの様子に、見ている僕の方が不安になってきた。

 ここは日本。武士が切腹する国だ。

 タキチローの斜め向かいに腰を下ろしたまま、僕はチラッチラッと彼の方を見た。不安を覚えた時いつもそうするように、膝の間で両手の指を付き合わせながら。
 どうすれば良いのだろう。オランダがこのまま独立できなかったら、タキチローとてただでは済まなくなってしまう。

「……なあ、タキチロー」
 僕はついに呼び掛けた。もう黙っていられなかった。
「我々のためにそこまでして、君は大丈夫なのか」

「ご心配には及びません。この商館の皆様のことは、どんなことをしてでも守ります」
 タキチローは強気だった。虚偽の風説書を作ることが命がけの行為であることを、彼自身も認識しているというのに。

 僕はもう何も言えない。ペン先が紙をこする音だけが、しばらく部屋の中に響いた。

 だがそのとき、彼はペンを走らせながらつぶやいたんだ。
 何かのついでであるかのように、自然に、そして静かに。
「私は、おようをどうしてやることもできませんでした。あなたには感謝の言葉もありません」

 え、と声が出てしまった。
 僕はタキチローの横顔を茫然と見つめた。
 彼はそれ以上、何も語らない。

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