第88話「泥流地帯」

文字数 2,436文字

 日の出を控えて薄らいだ闇の中、トカプチの山の山頂部分が赤く光っていた。そして、日常的に噴き出している量など比べ程にならない噴煙が、空高く立ち昇っていた。そして、噴煙によりできた雲の中には稲光が閃光を放っている。

 また、噴火の影響だろう。地面がかすかに振動している。

「これはどういう事だ!? 何が起きているんだ!? いや、火山が噴火したのは分かった。ここは大丈夫なのか?」

「恐らく大丈夫だ。はるか昔にこの丘陵に達するほどの溶岩が押し寄せた時は、溶岩が山頂から溢れ出したそうだ。今見る限り溶岩は山頂に留まっている。それに、溶岩の速度は人が歩くのと同じくらいだ。もしも溶岩がこちらに迫って来たとしても逃げれば助かる。もしもこれが冬だったなら厚く積もった雪が熱で溶けて麓まで濁流となって押し寄せたかもしれないが、幸い今は夏だ」

「そうか。それは良かった」

 この地域出身である年かさのアイヌの言葉に、時光は胸をなでおろした。

 こうなっては最早戦どころではない。時光は固唾をのんで地獄の様な光景を眺めていた。そして、あることに気が付いた。

「おい。溶岩は流れてこないし、夏だったら濁流も流れてこないんだよな? だったらあれは何だ?」

 時光が指摘しなくとも皆気付いている。山腹から一筋の土煙がこちらに向かって迫ってくるのだ。まだ夜が明けていないため確実に判断することは出来ないが、状況から察するに土石流の類だろう。遠くに見えるのにもかかわらずかなり早いように見える。

「皆! なるべく高い所に退避するんだ!」

 時光達は安全な場所を求めて丘陵のなるべく高い所へ移動を開始した。




 ここで、このフラヌ平原における火山活動について解説することとする。

 これまで「トカプチの山」と呼んできた火山は、現代において「十勝岳」と呼ばれている。

 十勝岳は人類が北海道で生活する遥か昔から火山活動を繰り返しており、十勝岳を含む十勝岳連峰を形成したのも火山活動により噴出した溶岩などの影響である。また、時光達が陣取っているピイエ丘陵は現在では美瑛丘陵と呼ばれているが、これを形成したのも火山活動の結果である。

 そして、激しい火山活動は有史以降も繰り返している。

 近年の有名な十勝岳の噴火としては、大正十五年に起きた噴火が挙げられるだろう。大正十二年頃から火山活動を活発化させていたのだが、その年の五月の大規模な噴火によって中央火口丘が破壊され、熱い岩屑なだれが積雪を溶かして、大規模な融雪型火山泥流を発生させた。泥流は麓の上富良野と美瑛の村を広範囲にわたって埋没させ、死者・行方不明者144名、負傷者約200名、建物372棟、家畜68頭の被害を発生させた。

 この時の泥流の速度は平均時速約60km、通常の溶岩は約3~4kmなのに比べてあまりにも速く、とても逃げきれるものではなかった。

 また、泥流に関しては、溶岩の到達する地域よりもさらに遠くまで達するので、溶岩だけなら安全な地域であっても危険が生じる恐れがある。

 そして、すでに雪が残っていないのにも関わらず何故時光達の前で泥流が発生したのかというと、十勝岳の山腹に一時的に形成されていた湖が、噴火の影響で崩壊したことによる。最近の大雨で十勝岳に振る注いだ雨水が、地形の影響で一ヵ所に大量に溜まり、それが一挙に噴出したのだ。大正時代の噴火においても融雪だけではなく同様の現象が起きたという説もある。また、火山灰の降り積もって出来た山は、通常よりも土砂崩れが発生しやすい事も泥流を大規模化させた一因である。近年の災害事例出言えば、平成二十五年に発生した伊豆大島の土砂災害が挙げられる。伊豆大島は火山活動により海中に形成された島なのだが、その結果火山灰が多い土地柄である。そのため、その年の台風が来た時に通常では土砂崩れが発生しないであろう降雨量で発生することになり、多数の死者を出したのである。

 ここまで災害について色々と述べてきたが、現在では科学的に災害の理由が解明されているが、時光達の事態にその様な知見は無い。とすればこれをどう解釈するかと言うと、神などの超越的な存在に頼るしかない。




 しばらく時が過ぎて日が昇り、ピイエ丘陵が陽の光で照らされた時、時光達の前には泥流で蹂躙された麓の平原が姿を現した。

 木々は薙ぎ倒され、緑で覆われていた平原は土によって見えなくなってしまった。

 難を逃れたらしいプレスター・ジョンの軍勢の兵士が見えるが、地を覆い隠すほどいた大軍が見る影も無く、昨日の半数程しか確認できない。

 昨晩、時光達が夜襲を仕掛けていたとすれば、彼らと同じく泥流に巻き込まれていたかもしれない。

「カムイが怒っているんだ……血を流し過ぎたんだ」

 惨状を目の当たりにした誰かがそう言った。理屈だけで考えれば神仏は関係ないはずだ。だが、そう思わせてしまう何かがこの光景にはあった。

「なあ。助けに行かないか? まだ埋まっている奴らも掘り返せば助かるかもしれない」

 時光は恐る恐る提案した。泥流で埋まっているのは、被災者と言えどもアイヌ達に取って見れば侵略者である。そして昨日までの戦闘では互いに凄惨な殺し合いをし、数多くの仲間を失っているのだ。故郷に攻め込まれているアイヌ達と、部外者である時光では敵に対する感覚が違ってもおかしくはなく、何を甘い事をと反発を受けても仕方がない。

「それが良いでしょう。神の意思にも叶う事です」

 修道士のグリエルモが工具にするための棒を手にしながら、時光に賛同の意を示した。彼も時光と同じく部外者であるが、その口調には慈悲の心が込められており他意は感じられない。

「そうだな。もう戦いは終わりだ。それをカムイだって望んでいるだろう」

 悲惨な光景を目の当たりにして憎しみの心が失せたのか、これまでの連戦に継ぐ連戦で血を流し過ぎてうんざりしていたのかは分からない。だが、泥流に飲まれた敵を救助することに皆賛意を示し、救助活動が始まった。
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