第77話「暗殺者」

文字数 3,447文字

 その夜、イスラフィールはイシカリの沿岸に浮かぶ船を眺めていた。月は雲に隠れ、星の頼りない明りしかないのだが、幼い頃からの訓練によって夜目が効くイスラフィールの目には、沖合に停泊する巨大な船影がはっきりと見えている。

 あまりに大きすぎるので、人や物の往き来は小舟によってなされている。ここ数日の作業で蝦夷ヶ島から算出された黄金や石炭が、大量に積載されている。

 明日には出港も可能なはずだ。

 イスラフィールは夜の視察を終えると、宿泊用に仮設した小屋に戻った。粗末な作りだが、大人数が詰め込まれた小屋でないだけましというものだ。

「おや? 君はマルコ君か」

「その通りです。明かりも無いのに良く分かりますね」

「訓練を積んでいるからな。で、どうしたんだ?」

 小屋の中で待っていたのは、ヴェネツィア出身の少年であるマルコ=ポーロである。彼は父親であるニコーロと共に、プレスター・ジョンの協力者として様々な工作を行っている。

「明日の早朝、プレスター・ジョンの元に出発しますので、挨拶をしに来ました」

「ああそうか。船に荷物を積むのが終わったから、その報告だな。あの船が大陸に到着すれば、戦況は完全にこちらに有利になる。その後は日本まで制圧して力を蓄えれば、フビライの打倒も夢ではない」

 いつもは表情を表に出すことがないイスラフィールが、珍しく熱っぽさを感じさせる口調で話すので、マルコは興味を抱いた。

「イスラフィールさんは、フビライ皇帝を倒したいのですか?」

「フビライを、と言うよりは、モンゴル帝国をだな」

 イスラフィールは、キリスト教徒の多いプレスター・ジョンの配下の中では、珍しくイスラム教徒である。そして、その中でもニザール派の出身であった。

 イスラム教ニザール派は、イラン高原に勢力を伸ばした一派であるが、特徴的なのは敵対する勢力に対する()()である。

 彼らは十字軍やセルジューク朝等、敵対する大勢力に対しては、その要人を暗殺することで勢力を保っていた。その暗殺があまりにも有名であり、また、命を顧みない勇敢なものであるため、敵対勢力からは大麻を吸引して正気を失わせた暗殺者を使っているなどと中傷を受ける事もあるが、実際はそうではない。

 信仰心、郷土愛、仲間や組織への忠誠や義務感、そして訓練による賜物である。

 しかし、そんなニザール派にも終焉の時がやって来た。フビライの弟にあたるフレグ率いるモンゴル軍が、その地域にも勢力を伸ばしてきたのである。それまで相手にして来たどの勢力よりも強力なモンゴル軍に対しては、暗殺も含めてどの様な抵抗も無駄であった。

 結果、各地の拠点は陥落するか降伏し、独立勢力としてまとまったニザール派は壊滅してしまった。十数年前のことである。

 ニザール派で生き残った人々は、各地に散らばり勢力の回復を目指して苦難の日々を送っている。イスラフィールもその一人であり、その手段としてプレスター・ジョンに仕える事にしたのだ。

 プレスター・ジョンはモンゴル人であり、その点は宿敵と同じである。しかし、彼はキリスト教徒であり啓典の民だ。しかも、フビライなどの現在のモンゴル帝国を牛耳る一族に対して深い恨みを持っている。ならばこれを利用しない手はない。

 そして、イスラフィールにとって好機が訪れた。海を渡って侵攻した蝦夷ヶ島で、大量の黄金を得ることに成功したのだ。これを大陸に持ち帰って元手にすれば、各地に散らばったニザール派の同志を呼び寄せ、一大勢力を築くことが可能だ。

 イスラフィールはこれまでプレスター・ジョンの配下でも、幹部―—四大天使と呼ばれている——として扱われていたが、他の幹部達はそれぞれヨーロッパ出身者の騎士団や漢人の軍隊を率いている。そのため、自らの配下を持たないイスラフィールは、他の幹部の手伝いや、プレスター・ジョンの護衛、偵察などの独立任務に任じてきたが、これからは大部隊を率いて戦う事も可能であろう。

 イスラフィールはプレスター・ジョンの配下の中でも、最も個人としての戦闘力に優れ、単騎でも十分活躍してきたのだが、元々ニザール派の指導者の家系に生まれた者である。幼い頃にニザール派は崩壊したので部下を率いた経験は無いのだが、自らの出自を考えれば散らばった民を率いて活躍し、その手柄を以て彼らを幸せにしたいところである。

「なるほど。イスラフィールさんは、ニザール派を復活させてかつての部下達に故郷を取り戻したいのですね」

「そういう事だ。そのためにこれまで戦ってきたが、やっとそれが叶いそうだ」

「良かったですね。で、ニザール派に「山の老人」っていうのがいるのは、本当なんですか?」

「……マルコ君。ちゃんと人の話聞いていたか? ニザール派は世間で言われている様な怪しげな教団ではないぞ。多少の暗殺はするが、それは他の勢力だってそんなに変わるものじゃない」

「あ、そうですか。いやー、山の老人に率いられた暗殺教団とかの方が、面白そうなんですけどね」

 マルコ=ポーロは話を膨らませる傾向があると、これまでの付き合いでイスラフィールは感じ取っていた。とは言え、やり過ぎは良くないが、話は面白いので情報収集で各地を飛び回るにはうってつけの人材である。

「個人で面白いと思う分には、まあ構わんが。そういう事を話して周られるのはごめんこうむりたい」

「分かりました。決して出鱈目な話を口に出したりしません」

 マルコ=ポーロは物分かり良く、山の老人や麻薬で操られた暗殺教団などの与太話を口にしない事を約束した。話さないならば妙な誤解が広まることは無いはずだ。

「しかし、マルコ君や君のお父さんや叔父さんは、変わっているな。私の様なムスリムに、普通に話しかけて来るフランク人のキリスト教徒は珍しいぞ」

 プレスター・ジョンの配下にもキリスト教徒は多いが、彼らはモンゴル人や漢人など、イスラム教徒と接触する機会も無ければ知識も無い者達だ。十字軍の遠征や聖戦(ジハド)に代表されている様なキリスト教徒とイスラム教徒の死闘を知らない。そのため、イスラフィールに対しても変わりなく話しかけて来る。

 ミハイルは十字軍にも参加したことのある根っからの騎士で、イスラム教徒と殺し合った経験もあるのだが、彼は騎士物語から飛び出てきたような高潔で公平な人物であるため、イスラフィールに対しても変わりなく接してくる。そのミハイルに薫陶を受けた騎士団も同じだ。

 しかし、ただのヨーロッパ人商人であるマルコ達が、イスラム教徒に対しても親しげな態度をとるのはどうしたことであろうか。

「あ、その事ですか? 僕たちの出身のヴェネツィアは商人の町で、良く言えば合理的、悪く言えば利益のみを追求する気質なので、異教徒でも無闇に敵対したりしないのです。いつお得意様になるのか分かりませんからね」

「商売についてはあまり知らない、というか欲得に塗れるのは良くない事だと思っていたが、そういう側面があるならそう悪い事ではないのかもしれないな」

 イスラフィールは不十分な理解ながらも、マルコ達の姿勢に一定の評価を与えた。ヴェネツィアは相手がイスラム教徒であろうと商売になるのなら交流する姿勢などから、教皇に破門されたりすることもあるのだが、それだけ利潤以外の偏見は無いということの証である。

 宗教的な情熱で集うプレスター・ジョンの軍勢とは相容れない価値観だが、互いの利益が噛み合えば問題など無い。

「静かに……何か聞こえるな」

「そうですか? 僕には何も聞こえませんが」

 会話途中で、イスラフィールが何かに気付き、音を立てないように指示した。

 マルコの耳には、小屋の外に吹く風の音や、それに揺らされる木々や草の音しか聞こえない。

「いや。百人以上がこちらに向かって来る。間違いない。マルコ君はここを離れて身を隠し、プレスター・ジョンの元に行け」

「イスラフィールさんはどうするんですか? ここには人足ばかりで、戦いが得意な人はあなたしかいませんよ」

 ここイシカリの停泊地には、大陸から連れて来た船員や荷運びの要員はおり、数の上では百人以上いるのだが、戦闘技術については、成人男子が全て優秀な狩人であるアイヌや、躊躇いなく敵を葬り去る悪魔(シャイターン)の精神と魔人(ジン)の如き戦闘力を誇る日本の武士とは比べ物にならない。

「ふふ。私の特技を忘れたかな?」

「特技……あっ」

「そう。暗殺だよ。指揮官を失った軍など、物の数ではないさ」

 イスラフィールはそう言って笑うと、戦支度をはじめた。
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