第44話「大陸へ」

文字数 2,751文字

 投石器により崩れ去るボコベー城を後にした時光は、アイヌやニヴフの戦士を引き連れて、城の近くの森に潜伏していた。

 攻城戦に参陣していた蒙古軍の数がそこまで多くなかったため、退路に配置されていた部隊の規模が大したことがなかったので何とか突破することが出来た。この際時光は、馬を駆り先陣を切って突撃し、味方の退路を確保するために血路を切り拓いた。

 果断に城を放棄した行為は、敵の不意を打つことに成功し、被害を最小限にして退却することが出来た。ただし、時光の率いるカラプト・蝦夷ヶ島軍は歩兵が主体であり、蒙古軍は大規模な騎兵を擁している。速やかな追撃が行われていれば捕捉されていたかもしれない。

 それを防いだのは濃霧の発生だった。ボコベーは海峡を臨む沿岸地域であり、更には湿地帯だ。現在は冬の寒さで凍結しているが湿気が多い事には変わりない。偶然ではあるが退却の際に濃霧が発生し、時光達の姿を隠してくれたのだ。

 敵の指揮官は注意深い人物らしく、危険を冒して追撃してくる事はなかった。もし追撃が行われていたなら、地の利を活かして効果的な反撃を行えたかもしれない。そのことを残念に時光は思ったが、カラプト・蝦夷ヶ島軍は敗北したばかりで士気が低い。本来なら視界の劣悪な状況は土地勘のある方が圧倒的に有利なのだが、その真価を発揮することは出来ないだろうと考えて、ひとまず助かったことを神仏に感謝した。

「トキミツ。逃げ延びたのは大体五百といったところだ。怪我をした奴も多いが、手当は終わっている」

「そうか……」

 エコリアチの報告に時光は今後の方針についてしばし黙考する。これまでも蒙古軍相手に苦戦したことはあったが、ここまで完全に敗れたのは初めてだ。

「南に逃げて増援部隊と合流するんだろう? いつ出発する? 今すぐか? 夜になってからか?」

「南に向かうのは、おまえと直接の部下だけだ。エコリアチ。俺と主力は向かわない」

 時光の出した結論はエコリアチや他の戦士達にとって予想外のものであった。みんな驚いた表情で時光の方を見ている。

「正気か? 明日になって霧が晴れたら奴らに殺されるぞ。もしかして敗戦の責任を感じて、俺が逃げる時間を稼ぐつもりじゃないだろうな?」

「安心しろ。そんな自己犠牲で物を言ってるんじゃない。別に主力はここに残る訳じゃない」

 周囲を見回しながら、落ち着いた口調で時光は自分の策を述べようとする。敗北により不安になった男達は指揮官である時光の一挙手一投足に注目しており、彼らの士気を回復させなければ明日の勝利は無い。

「俺は主力を引き連れて、この濃霧に乗じて凍った海峡を渡り、大陸にある奴らの兵站拠点を落とす」

「何! こちらから攻め込むというのか?」

「そうだ。二里に満たない海峡だ。霧で視界が悪いだろうが二刻もあれば大陸に着くだろう。そしてこちら側には大陸と往き来して土地勘のあるニヴフが大勢いる。大陸で行動するのは不可能じゃない」

 予想外の積極策に、周囲に集まった戦士達がざわめきだした。敗北から立ち直りきっていないため困惑も多いが、強敵である蒙古軍を恐れぬ時光の大胆さにつられ、顔に精気が戻って来た。

「考えてもみろ。確かにカラプトと蝦夷ヶ島の全兵力を集めれば奴らの兵力を上回るだろうが、それにはかなりの時間がかかる。それまでに奴らが南に進軍して来たら、どれだけこの島を制圧されるか分かったものじゃない。それでそうなったらこっちは兵を集合させるどころじゃない」

「確かにそうだな。それに敵にも増援を連れて来る余裕を与えることになるな」

「うむ。しかし、だからと言って中途半端な戦力では奴らを止めることは出来ないだろう」

「だからこちらから攻め込むのか?」

「そうだ」

 ここまで言った時光は言葉を区切り、力強い視線で周りを見回した。戦士たちは皆、時光の言葉に聞き入っている。

「これまでの斥侯の報告からすると、今回攻めて来た奴らはそれ程多くの物資を持ってきていない。恐らく占領したボコベー城を拠点にして大陸と補給経路を繋ぐつもりだろう。しかし、大陸側にある兵站の拠点を攻めれば、その作戦は成り立たなくなるだろう」

「理屈は分かるが、その大陸の拠点を落とせるのか?」

 エコリアチの反論はもっともである。大陸の地理に通じている者が多いし、彼らの報告を以前から時光は聞いているため、敵の補給拠点は予想がつくので攻撃することは容易だ。しかし、攻略に成功するかは全くの別問題である。

「いや、攻略に成功する必要は無いんだ。後方を脅かされた蒙古軍は、先に進むことが出来なくなるだろう。攻め込むこと自体が目的なんだ」

 時光の立案した作戦は、戦国時代の大陸における戦史に基づいている。

 著名な兵家である孫武の子孫に孫臏(そんぴん)という人物がいる。彼もまた著名な兵家であり、孫武と共に孫子として知られている。その孫臏の実施した計略に「囲魏救趙」というものがある。これは、同盟国が攻められて救援部隊を出撃させた時、直接同盟国に向かわせたのではなく、攻め込んだ国の都を包囲することにより撤退させたという事例である。

 状況としては今の自分達に適合していると時光は思っている。

「なるほど。そりゃあ飯が届かなくなったら大変だからな。だが、それは現地調達で解決されたりはしないか?」

 以前の戦いで兵糧不足に陥った蒙古軍はカラプトに散らばるニヴフの村で、強引な食料の徴発をやろうとしていた。これにより反発を招き、カラプトから蒙古が追い出される事態になったのであるが、今回も同様の事をしたとしてもおかしくはない。

 エコリアチの意見に、ニヴフの戦士達の表情が曇る。当然である。自分達の村が襲撃される恐れがあるのだから。

「その可能性もあるが、敵中で孤立しているという状況は、心理的に耐えがたいものだろう。必ず蒙古軍の進軍は止まるし、場合によっては引き返して大陸に渡った俺達を始末に来るだろう」

 可能な限りの自信を込めて、時光は断言した。

 これまで時光が述べて来た事は、あくまで予想の範囲でしかないし、しかも時光は敗戦したばかりだ。信用を失っていたとしてもおかしくない。そして、時光の予想通りになったとしても大陸で屍を晒す可能性だってあるのだ。

 それでも時光は自分の予想と武運を信じるしかない。何もしなかったら敗北は確実なのだから。

「分かった。俺はあんたの言う事を信じるぞ。なんてったってあんたは蝦夷守だからな」

「俺もだ。大陸には良く行ってたから、案内は任せてくれ。奴らに一泡吹かせてやろうぜ」

 敗北に打ちのめされていた戦士達は、静かな闘志を取り戻し、時光を信じて戦うことを決意してくれた。

 この後、作戦の詳細を詰め、暗闇が辺りを覆う頃、新たなる戦いへの行動を開始した。
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