第70話「捨つべきは倍捨つべし」

文字数 4,263文字

 時光達がボコベー城で防御態勢をとってから数週間過ぎた。その間プレスター・ジョンの軍勢が海峡を渡ってくる様子は全くなかった。防御準備のために蝦夷ヶ島やカラプトから集まって来たアイヌの戦士達は、当初は野戦築城や食糧の備蓄等で忙しくしており気を張っていたものの、ここまで敵が攻めて来る気配がないと気の緩みが見られるようになってきた。

 城内を見回りそれに活を入れたりして指導する立場にある時光も、この様な状況が続くことに疑問を持ち始めていた。

「丑松。どう思う?」

「どうでしょうな。準備が整っていないとかですかな?」

 海峡やそれを挟んだ大陸を見渡せる櫓に上った時光は、直属の家来である丑松に尋ねた。目的語などが不明瞭な問いかけであるが、時光を幼い頃から知る丑松は十分察してくれるのだ。

「冬に攻めてきた時はあんなに急で、しかも準備を万全にして来た奴らだ。こんなに時間がかかるものだろうか?」

「では、この夏の季節ですから、大風を恐れているのでは? ここのところ曇りがちですから、警戒してもおかしくありません。まあ実際は嵐などにはなっておりませんが」

「それも考えたが、この季節に侵攻作戦を計画する連中だぞ。大風の影響など織り込み済みだろうし、観天望気を心得ている者ならここ最近の天候が大風にならないことなど分かるはずだ。少なくとも俺にも予想できたし、地元のニヴフの戦士に聞いてみても同じ結論だった」

 大風――現在で言う所の台風は、当然のことながら時光達がいるカラプトまではその勢力を保つことが出来ない。しかし、低気圧としてそれなりの威力はあるため、その中を航海するのは自殺行為である。これは数年後に行われた元王朝本隊による日本侵攻において、モンゴルの艦隊が暴風雨により大損害を出したことからも明らかだ。暴風雨が無くても日本侵攻は失敗していた可能性が大であるが、大打撃になったであろうことは否定できない。

 しかし、長距離を航海しなければならない九州への侵攻に比べ、カラプトと大陸の間は短い所で約2二里程度でしかない。海流の調子もあるが一刻も経たずに渡ることは可能であり、嵐を避けて渡海することは容易である。

 また、当時世界で最高水準の航海技術を持っていたのは漢人の宋王朝であるが、その宋王朝からモンゴル帝国に降伏し、キリスト教のつながりによりプレスター・ジョンの配下として働く者は多数いる。

 航海技術とは単に造船の技術のみを言うのではない。船を運用したり、天体の観測により自己位置を知ったり、海図を造ったりと様々な技術があるのだ。そして、観天望気の術も当然船乗りの得意分野である。

 要はプレスター・ジョンの軍勢にとって、この季節に海を渡るのはさほど難しい事ではないのだ。

 海の専門家の協力を欠き、日本への侵攻の際に海の藻屑と化した元王朝の本隊とは違うのである。

「もうそろそろ大陸に派遣していた斥侯が帰るころだ。何か掴めるかもしれん」

「おっ。丁度その斥侯が戻ったのでは? ほら、城に向かって来るのが見えますぞ」

 丑松の言う通り、海辺の方からボコベー城に向かって来るニヴフの戦士の姿が見えた。恐らく一週間ほど前にプレスター・ジョンの本拠地まで偵察に出したものである。

 時光は丑松と共に櫓を下り、会議室として使用している広間に向かった。

 さて、時光達の予想通り、城に戻って来たのはプレスター・ジョンの本拠地であるヌルガン城を偵察してきた斥侯であった。帰来報告を聞くため、広間に斥侯を通し、城の主だった戦士の代表者も集めた。

「ご苦労。敵中深くまでの偵察で疲れていると思うが、早速結果を知りたい。敵の作戦状況はどうなっているのだ?」

「その事なんだが、俺はヌルガン城まで行って、見て来たんだが、そこには敵の本隊はいなかった。周囲の集落でも聞いてみたんだが、ずっと前に出て行ったきり帰っていないらしい」

「何だと? しかし、その本隊が攻めてくるはずのこの城は、見ての通り平和そのもので、敵の姿なんか見えないぞ? 対岸で準備している先遣隊に合流したのか?」

 先遣隊に合流したところで、全軍を輸送できるだけの船は保有していない筈である。それなのに合流して軍の動きを鈍重にするのは愚策と言える。

「それは違う。帰りに先遣隊の奴らが準備している所に行って、奴らを監視している仲間と接触したのだが、敵の本隊が合流した気配は無いらしい」

 監視が見落としたというのはあり得ない。プレスター・ジョンの本隊は一万を超える勢力だ。これが合流して気が付かない訳がない。

 では一体どこに行ったというのだろうか。

 その時、時光はあることに思い至った。数週間、時光は敵が隠していた船団を発見したのだが、別の場所も偵察しようとした時、プレスター・ジョンの配下の戦士であるイスラフィールに見つかりそれ以上は進めなかった。この時のイスラフィールは、武人として殺気を探知する能力が高い時光にも、狩人として野外における探知能力の高いニヴフの戦士にも、全く気配を悟らせない恐るべき力を示していた。

 時光はこれまで、時光達が隠密に行動し、船団を発見したところでイスラフィールに見つかったと思っていた。しかし、イスラフィールの実力を考えると、船団を発見するまで時光達を捕捉出来なかったというのは奇妙である。

 ならば浮かび上がってくる答えがある。船団をわざと発見させ注意を惹きつけ、囮を見せた後にそれ以上先に進めないように引き留め、本命を隠匿したのである。

 では、イスラフィールが隠していた本命は何かと考えると、それを突き止める鍵は消えたプレスター・ジョンの本隊である。

「何という事だ。恐らく敵は別のところにもっと多くの船団を隠していて、プレスター・ジョンの本隊はその船団で進軍したんだ」

「何だと? では俺達がずっと警戒していた対岸の先遣隊は囮だというのか?」

「多分な」

 アイヌの戦士を束ねるサケノンクルは飲み込みが早い。すぐに置かれている状況が理解できたようだ。

 それにしても先遣隊を囮にしたこの作戦は大胆である。なにせ先遣隊の指揮官であるミハイルは、半年前の戦いで散々に時光達を負かした名将である。それを単なる囮として使うのだ。中々出来る事ではない。

「で、奴らはどこに向かったというのだ? 防御の固いこのボコベー城の正面を避け、カラプトの何処かの海岸に来たらすぐに分かると思うのだが」

「カラプトに上陸していないのなら答えは一つだろう?」

「まさか……」

「そう。蝦夷ヶ島だ」

 思えばプレスター・ジョンと会談した時、カラプト、蝦夷ヶ島、そして日本を順に制圧していくような口ぶりだったが、別に順番を明言していた訳ではない。しかし、話しぶりから何となくまずカラプトに来るように固定観念を抱いてしまい、この地に戦力を集中させているのだ。恐らく、階段の時から時光達を惑わすつもりだったのだろう。

 つまりは完全に敵の陽動作戦に引っかかってしまったという事だ。

「蝦夷ヶ島には金や燃え石などの資源がある。奴らはまずこの資源を手に入れることで基盤を築くつもりなのだろう。プレスター・ジョンはモンゴル帝国に散らばるキリスト教徒を手足として使える。だけど今の奴の勢力圏であるヌルガン城一帯だけでは大軍を養えない。もしも蝦夷ヶ島を手に入れて豊富な資源を手に入れたなら、それを基盤にして一挙に勢力を拡大させることが出来るのかもしれない」

 時光の予測が当たっていた場合、蝦夷ヶ島と日本を隔てる海峡は極めて狭く、大軍を養えるようになったプレスター・ジョンの軍勢は防御準備の薄い北方から日本を支配するのは容易かもしれない。

「ではどうする?」

「皆で蝦夷ヶ島に渡り、プレスター・ジョンの本隊を叩く」

 カラプトを死守することで敵の連絡線を絶ち、敵の行動を妨害するという選択肢もあるのだが、敵が有力な船団を保有している以上それは効果が薄い。ならば転戦して決戦を挑んだ方がましである。

 また、半年前の戦いで時光が行った敵の本拠地への奇襲攻撃は今回あまり意味がない。なぜなら、敵が蝦夷ヶ島を完全に制圧すれば食糧も含めた物資が手に入るので後方を気にする必要がないし、ヌルガン城はプレスター・ジョンの来歴とは特に縁が無いのだ。物資の事さえ考えなければプレスター・ジョンはヌルガン城を気に掛ける必要はない。

「では俺達の主力は蝦夷ヶ島に向かうという事だな。敵の先遣隊が残っているのが気になるが、まあこの城はかなりの準備をしたんだ。少数の勢力でもそれなりに持ちこたえるだろうな」

「それは違う。俺は()()と言ったんだ。その意味は全軍という事だ。その位しないとプレスター・ジョンの本隊に太刀打ちできない」

「本気か? 本当にここの守りを残さないのか?」

「そうだ。中途半端な事では勝つことなど無理だ。もしもこれに反対するようなら俺を指揮官から解任してくれ」

 サケノンクル達北方の民の戦士達は顔を見合わせる。彼らには色々な思いがある。

 先ず、これまで何か月も汗水を流して準備してきた城を、一戦もする事なく放棄することだ。これにはかなりの未練がある。

 そして、一番大きいのはカラプトを完全に放棄するような作戦をすることだ。彼らは自らの生きる世界を守るために集まって来たのだ。それなのにそれを放棄して別の場所で戦うというのは、ある意味その思いを捨て去る様なことだ。かなりの抵抗がある。

 時光とて彼らとここ数年共に暮らしてきたのだ。彼らの考え方は理解している。しかし、こうでもしなければ勝利は覚束ないだろう。

 何より、海の向こうでこちらの様子を窺っているのは、かつて二度に渡って時光を敗北せしめたミハイルである。念入りに準備した堅固な陣地によってその時の借りを返したいという気持ちは、時光だって大きいのだ。

 日本の兵法書である闘戦経という書物の中に、「取るべきは倍取るべし 捨つべきは倍捨つべし」という言葉がある。要は戦力は集中させるべきで、それには思い切りが必要だという事だ。そして、この状況においては単に戦力の集中だけでなく、故郷を守りたいという思いを守るためには、その故郷を守りたいという思いですら一時的に捨てるという、強烈な思い切りも含まれているという事なのである。

 時光はサケノンクル達の結論を待った。もし彼らに拒否されたら如何ともしがたい。これは一種の賭けである。

「トキミツ。お前の作戦に従おう。今まで俺達と共に戦って助けてくれたお前を信じる」

 時光は賭けに勝った。
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