第35話「雪原の暗殺者」

文字数 3,507文字

 斥侯からの報告を受けた時光達は、アイヌの戦士団を率いてモンゴル軍の増援部隊と対峙していた。

 戦場は開けた雪の降り積もる平地で、敵の主力である騎兵に適した地形だ。アイヌにとって得意な地形である森に籠った方が有利なのだが、それでは無視されてしまい通過される恐れがある。その場合折角勢力を取り戻したカラプト南部を再度失ってしまうし、アイヌの本拠地である蝦夷ヶ島との連絡に使用する船の係留地を制圧されてしまう恐れがある。

 更には現在カラプトの主要な民族であるニヴフに対して味方になる事を促すため、各地に使者を送っている。ここで逃げてしまってはこの動きが無駄になってしまうだろう。もっとも、数百にも及ぶ騎兵を擁する約二千の軍勢が進軍してきたのだ。この威容を目の当たりにしたカラプト北部が味方になってくれる事は、まずあり得ないだろう。

「配置についたか?」

「ああ、問題ない。いつでも始められるぞ」

 時光の問いに対して、アイヌの戦士団を束ねるサケノンクルが自信を持って答えた。

「じゃあ行……」

「お待ちを!」

 攻撃を開始しようとした時光を遮る者がいた。

 羅馬(ローマ)から旅してきた坊主のグリエルモである。

「斥侯の者が言っていた通り、敵の中には重装槍騎兵が混じっていますが、私の見る限りヨーロッパの騎士です。それに、彼らの十字架が描かれた盾を見るに信心深い者達でしょう。出来れば争いたくありませんし、同じキリスト者ならきっと修道士である私の説得に応じてくれる事でしょう。しばしお待ちを」

「ふむ……」

 時光はグリエルモの意見を考えてみた。今まで聞いて来たところによると、モンゴル帝国は大陸において数々の国を征服し、それらの国の人材を取り入れて軍を構成しているらしい。時光自身、この前蝦夷ヶ島でモンゴルの斥侯と交戦したが、彼らの中には漢人が混ざっていたし、日本の武士である安藤五郎を味方にしようと工作していた。

 モンゴル軍の増援に混じっている騎士達も、その類であることは容易に予想できる。西の故郷から遠く離れて、この様な地で戦わされているという境遇を考えると、離反させるというのは十分可能なのかもしれない。

 まして、グリエルモは彼ら西方の民が崇める神仏の坊主なのだ。成功する確率は十分見込めるだろう。

「よし分かった。説得してみてくれ」

「はい!」

 時光の承認を得たグリエルモは、喜び勇んで敵の目の前に馬を進めた。なお、アイヌ側で騎乗しているのは、馬を操る技術を持つ時光とオピポー、そしてグリエルモだけである。

「信心深き神の戦士達よ! どうか私の声に耳を……ぐはぁ?!」

 懐から分厚い本――グリエルモの語るところによると聖書――を取り出して、それを掲げながら説得を開始したグリエルモであったが、それは遮られることになった。

 先頭を進んでいた騎士の合図により、付き従っていた歩兵が携える弩から矢が放たれ、グリエルモの肩を貫いたのである。

 ふらつきながらもなんとか落馬を免れたグリエルモは、馬首を返して時光のところに戻って来た。

「大丈夫か?」

 肩には臓器が無いので即致命傷というわけではないが、だからと言って死に至らないという訳ではない。

「奴らは不信心者か異端です。殺しましょう」

「……まだ余裕がありそうだな」

 少し前までは出来れば戦いたくないと言っていた男が、この豹変ぶりである。時光は少し呆れたが、とりあえず命に別状はなさそうなので安心した。傷口を見たところ、短くて太い矢が深々と突き刺さっており、すぐに抜くのは難しそうだ。後方に下がらせることになった。

「まあ彼の事は置いておいて、それでは攻撃を開始するぞ。俺に続け!」

 騎乗した時光を先頭に、アイヌの戦士団の本隊は前進を開始した。注意深く間合いを詰めると、矢の雨を降らせる。アイヌ得意の百発百中の距離ではなく、もっと遠間の間合いから斜め上を目掛けて射撃する距離を稼ぐ射法だ。集団戦の訓練を受けていないアイヌの戦士団のそれは、最精鋭のモンゴル軍に比べて稚拙ではあったが、それでも敵陣に正確に降り注いだ。

 アイヌの扱う矢には毒が塗られている。かすり傷でも十分な効果を発揮するのだが、

「何だありゃぁ! 弾き返されるぞ!」

 アイヌの戦士団のあちこちから驚きの声があがる。アイヌ側が放った矢は敵陣に到達したのだが、そのほとんどが手にした大型の盾や金属鎧にはじき返されてしまった。騎士だけではなく騎馬まで鎧を着けているのだ。矢を放ち続ければその内隙間に命中するかもしれないが、そこまで大量の矢は携行していない。また、もっと近づけば鎧の隙間を狙えるかもしれないが、見るからに接近戦が得意そうな槍騎兵に徒歩で近づくのは危険である。

「皆! 一旦下がるぞ! 態勢を立て直すんだ!」

 何度か射撃を繰り返しても効果がないと判断した時光は、一時撤退の号令を出した。矢が効かない恐るべき敵からの撤退のためか、アイヌの戦士団の様子は撤退と言うよりも壊乱に近かった。

 算を乱して逃げ出す様を見ていたモンゴル軍は、これを好機と見たのだろう。隙を突くべく進軍を開始した。

「上手くかかったな! トキミツ!」

「ああ。これは勝ったな!」

 オピポーが時光の傍で馬を走らせながら嬉しそうに言い、それに負けない位嬉しそうな表情で時光も答えた。

 要は今アイヌの戦士団が行っているのは偽装撤退なのである。

 先日の戦いで見事な隊形を組むモンゴル軍を、散兵戦術を採用することでアイヌ側は勝利を獲得した。今回も同じ様にすれば勝てそうなものだが、そうとばかりは言えない。

 前回の敵は兵站の限界などの原因から短期決戦を挑む必要があり、罠が待ち受けている所に進軍してきたのだが、今回の敵はその様な制限があるのかは不明である。

 また、前回アイヌ側の散兵戦術にしてやられた敗残兵が、増援部隊と合流しているのだ。タネがばれてしまっていては十分な効果が得られるかどうか分からない。

 だから、偽装撤退することで敵が油断して進撃してしまう環境を構築したのだ。今、アイヌ側が壊乱状態にあるように見えるのは、単なる演技である。また、すでに散兵を潜伏させており、時光達を追撃してきた敵はその地域に足を踏み入れることになる。隠蔽した散兵なら近距離から鎧の隙間に向かって精密な射撃を実施できので十分打撃を与えられる。

 そして今、アイヌ側の偽装撤退に釣られてモンゴル軍は進軍を開始したのだ。勝利は目の前のはずであった。

「なに?! 迂回だと?!」

 時光の予想は裏切られた。モンゴル軍は真っすぐ追撃してくることなく、大回りして散兵の潜む地域を避けて進撃してきたのだ。完全に時光の策は見破られていたのである。

 時光は詳しく知らなかったのだが、偽装撤退と伏兵の組み合わせはモンゴル軍の得意技であり、彼らの方が一枚上手と言っても良いのだった。また、モンゴル軍の一部を構成している騎士達、彼らは以前同じような戦術で敗北を喫し、モンゴル軍の軍門に下ることになったのだ。つまり既に予習済みであったのだ。

 策が外れたアイヌの戦士団は今度こそ壊乱状態に近くなった。何の策も無しに戦える相手ではないことは、これまでの経験で分かっているのだ。

「ちぃっ! サケノンクル! ここは退くぞ! 近くの森に下がって態勢を立て直すんだ!」

「しかし奴らは馬だ。逃げきれんぞ!」

「馬だって走り続けるのは限界がある。特に奴らは重武装だ。脇目もふらずに逃げれば被害を抑えられる!」

 既にモンゴル軍とアイヌの戦士団は接触を開始しており、壮絶な戦いが繰り広げられている。間合いが近くなったことで、鎧の隙間を狙われた騎士や馬が矢を受けて倒れ伏しているがそれは少数である。騎士の長槍に貫かれたり馬蹄にかけられたりしてアイヌ側の方が被害が大きい。最早この状態から逆転するのは難しいだろう。

「分かった。下がらせよう。トキミツも退くぞ」

「ああ。俺も下がるが殿(しんがり)を務めさせて貰おう。これは馬に乗った俺がやるのが効率的だ。それに……」

「それに?」

「いや。何でもない」

 殿を務める時に、あわよくば敵の大将首を狙おうと思ったのだが、それを言うとサケノンクルが心配するであろうため、口を濁した。例え大将を倒したところで形勢逆転とはいかないだろうが、それでも敵の攻撃の手が緩むはずだ。

「それではまた会おう!」

「トキミツ! 後ろだ!」

「え?」

 サケノンクルの警告に振り向いた時光が見たのは、すぐ傍に迫る浅黒い肌の男だった。その男は手に黒い短刀を握って迫って来ていた。

 それを見た直後、時光の意識は途切れた。                          
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