第45話「プレスター・ジョンの軍勢」

文字数 2,657文字

 ボコベー城を追われた時光率いる軍は、霧と夜陰に紛れて海峡を渡った。海峡を覆う氷は余りの低温で表面は全く溶けておらず、ほとんど滑る事はなかったので速やかに進軍出来た。幸いカラプトに攻め込んできた蒙古軍に察知されることは無く、無事に大陸にたどり着いた。

「ここがボコベーの対岸のワシブニだったかな?」

「そうだ。そして、この地域のモンゴル軍の一大拠点は、ここから北西に3日程行ったところにある、ヌルガンという土地だ。どうする? そこを攻めるか?」

 カラプトと大陸を往来することの多いニヴフの民の中でも、高い地位にある人物であるホトボンという男が時光の問いに答えた。ホトボンの提案するヌルガンという拠点については、これまでの情報収集で時光も承知していた。

「それは俺も考えたが、流石に敵の本拠地を攻撃するのは危険だと考えている。前線の敵を引き付けるようにするのが目的だから、本気で攻撃しなくてもいいんだが、敵が強すぎると一気にやられてしまうかもしれない」

「それもそうか」

「だが、ヌルガンの方に行くのは良い考えだと思う。敵の補給路はヌルガンの方からこっちに来ているだろうから、途中に中継地点がある可能性が高いし、もし無くても補給部隊はこのワシブニとヌルガンを繋ぐ経路を通るはずだ。補給部隊を叩くというのは十分目的を達することになるだろう」

 敵の補給を封じるというのは、古来から劣勢な軍にとっての常道である。カラプトに侵入した蒙古軍も、まさか全ての食料を現地調達で賄うのではないはずだ。ならば後方の連絡線を遮断されるのは心理的にも物理的にも脅威だろう。

 加えて、時光達は十分な準備をして大陸に渡ってきたのではない。少人数なので狩猟などで調達することは可能だが、それにのみ注力する訳にはいかない。なので補給部隊から物資を奪うことが出来れば、一石二鳥なのだ。

「それでは俺達はこれよりヌルガンに向かう。敵に見つかってはいけないから、道の脇の森を通ることにする。それと、敵を見つけたとしても合図があるまで、絶対に攻撃するなよ」

 補給部隊とは言え、十分な護衛をつけている可能性があるため、下手に攻撃を仕掛けるわけにはいかない。時光達は現在窮地に陥っており、一発逆転の投機的な作戦に身を投じているが、だからこそ出来る限り慎重に行動しなくてはならないのだ。

 ワシブニを出発し、ヌルガンの方に向けて二日ほど進んだ時、少し先行して進ませているニヴフの戦士から報告があった。ヌルガンの方向から敵が向かって来ており、現在近くの広場で休憩中だというのだ。

「休憩中か……これは良いぞ。無警戒に休憩している奴らなら、奇襲をかける相手としておあつらえ向きだ」

「それが、少し様子がおかしいんだ」

「何がだ?」

 報告してくれたニヴフの戦士は、どう報告すればよいのか悩んだ様子である。

「単なる補給部隊とは思えないのだ。確かに多くの荷車があるのだが。それに同行する兵の数が尋常ではない」

「という事は、敵の第二陣かもしれないな。分かった。直接見に行こう。案内してくれ」

 時光は大鎧を脱いで偵察に向かうことにした。毛皮で作った鎧下の上に、白い大きな布を羽織って偽装する。雪に覆われた大地においてこの外見は、周囲に同化してくれるはずだ。

「これは……本当に多いな」

 案内を受けて蒙古軍を観察できる場所に到着した時光は、蒙古軍の規模に驚きを隠せなかった。

 時光は少し小高い丘の高台で伏せながら蒙古軍を見下ろしているが、その数は千や二千ではきかなかった。おそらく三千は下らないだろう。

「これは、多分敵の本隊だな」

「トキミツ。あれを見ろ多分あれが奴らの大将だ」

 案内の言う方向を見ると騎乗した者達が集まっており、何やら話し合っている。恐らく今後の行軍について話し合っているのだろう。

 何故、その者達が軍の指揮官層であるのか分かるのかと言うと、彼らの装備の作りの良さだ。全員が明らかに出来の良い鎧兜を装着している。みすぼらしい恰好の者は一人もいない。

 蒙古軍の上層部らしき者達は多種多様だ。当然蒙古風の者が多いのだが、以前対戦した西洋の騎士風の者、宋王朝風の者なども混じっている。そして、彼らの中心に位置し、恐らく大将なのだろうと予想できる男の風体は、奇妙なものであった。

 彼は若い蒙古の民らしい顔立ちであり、鎧兜も当然蒙古風の者だ。しかし、その上に二本の棒を交叉させた紋章を描いた上衣や外套を身に付けている。時光はこの紋章が十字架と呼ばれる物であり、キリスト教という神の教えを信じる者が身に付けるものであると知っている。時光の仲間である羅馬(ローマ)から来た坊主のグリエルモはキリスト教の坊主であり、そのことを首から下げた十字架を見せながら語っていたのだ。

 蒙古の民にもキリスト教を信じる者がいるのだろうか、と時光は訝しんだ。

「プレスター・ジョンよ! 何処においでですか?!」

 時光の思考は突然聞こえて来た大声で中断された。プレスター・ジョンとは一体何のことかと思いながら声の方を見ると、二人の騎兵が駆けて来るのが見え、どうやら片方の男が叫んでいるようだ。この声に、十字架を身に付けた蒙古軍の大将が手を振って応えているのも見える。

 どうやら蒙古軍の大将はプレスター・ジョンと呼ばれているらしい。

 叫びながら馬を走らせている男は、頭から足元まで防寒着で覆っているが、赤い髪が帽子から少し覗いている。顔立ちからしてまだ若い男で、彼の青い瞳から、西洋の出身であることを時光は判断した。その顔立ちから、以前共に戦った西洋人である、ニコーロ=ポーロとその弟のマフェオ=ポーロのことが時光の脳裏に浮かんだ。

 そして、西洋人の若者と共に馬で駆けて来た人物を見た時、時光の驚きは頂点に達した。鎖帷子(チェインメイル)を身に付け、円筒形の金属兜で完全に顔を隠した小柄な女騎士、それは以前死闘を繰り広げ、命のやり取りをした相手であるガウリイルであった。

 完全に顔を隠しているが、その鎧姿は見間違えたりはしない。

 ガウリイルは蒙古軍に所属しているのだから、蒙古軍の支配地域に侵入し、蒙古軍を見張っていれば彼女の姿を見かけるのは不思議な事ではないかもしれない。しかし、時光は何故か運命的なものを感じたのだ。

「どうする? 流石にやり過ごすか?」

「……」

「トキミツ。どうした?」

「ん? ああ、すまん。そうだな。これだけの敵を相手には出来ない。潜伏して通り過ぎるのを待とう」

 時光は蒙古軍がこの地を出発し、姿を消すまで監視を続けたのだった。
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