第40話「東方見聞録」

文字数 4,239文字

「ここまでが撓気時光(たわけときみつ)の報告書でございます」

 中年の武士安達泰盛(あだちやすもり)は長い手紙を手にしながら、相対する若者に向かって丁寧な口調で言った。

 まだ少年と言っても良いその若者の名は、北条時宗――幕府の執権であり、日本の最高権力者と言っても過言では無いだろう。

 権力には義務と責任が伴う。北条時宗はこの国の武力の頂点に立つ者として、大陸から日本を虎視眈々狙う蒙古から守るため、数多くの政策を推進してる。

 その一つが蝦夷ヶ島への撓気十四郎時光(たわけじゅうしろうときみつ)の派遣である。現在、防備を進めているのは大陸と近い九州が主であり、北には手が回っていない。しかし蝦夷地で蒙古による動きがみられるという事で、信頼できる人物を派遣したのだ。

 ただ、その撓気時光が蝦夷守(えぞのかみ)なる謎の官職に就いたとの報告をしてきたのだから、当初時宗は激怒していた。勝手に官職を名乗るというのは、朝廷にとっては朝敵であるし、幕府にとっては謀反にあたる。族滅されても仕方がないほどの事なのだ。後世、誰も彼もが勝手に官職を名乗るようになった戦国時代とは訳が違うのだ。

 しかし、報告書を読み進むうちに、何故撓気時光が蝦夷守を名乗ることになったのかを理解した。

 現地の蝦夷ヶ島やカラプト島に住むアイヌやニヴフは、(いにしえ)の日本の武将である阿倍比羅夫を尊敬、畏怖している。現地に蒙古の勢力が手を伸ばしている現状からして、これに対抗して日本側に味方させるには、過去の英雄の勇名を利用するしかなかったのだ。

 阿倍比羅夫の役職である越後守が現地では蝦夷守として伝わっているなどとは予想もしなかったことなのだが。

「どうなされますか? 撓気時光をお許しになられますかな?」

「許すより他あるまい。そうしなければ蒙古に勝てなかったのかも知れないのだ。ただし、日本との交流でその名を使う事はまかりならんと厳命せねばな」

 時宗は思案の末、時光を許すことにした。今は対外作戦を重視すべき時であり、時光は北方の守りの要だ。何しろ北の守りの要と頼んでいた蝦夷代官職である安藤五郎が蒙古に寝返っていたのだ。生き残った安藤氏にもどれだけ蒙古と気脈を通じている者がいるのか分かったものではない。この状況において北の守りを固めるには、日本の勢力圏より更に北の地域の守りを万全にするより他にない。

 もちろん、蝦夷ヶ島よりも更に北のカラプト島での事など、バレやしないだろうという計算はある。

「それがよろしいでしょう。では、この件はこれまでとしまして、これ以外の報告で気になる点はありますか?」

「ふむ。そうだな。今回の報告の中では、西方の騎士などの存在が気にかかる。それに撓気時光に切り付けた男だが、肌の特徴からすると(ペルシャ)人か何かだろう。蒙古だけでなく、奴らが征服した世界各地の兵と戦わねばならんとはな」

「そうですな。九州に侵攻する蒙古軍は、蒙古人だけと先入観を持たない方が良いでしょう」

 蒙古軍が日本に侵攻する際、一番の障害となるのは海を越えねばならないという事であり、遊牧民族である蒙古にとってこれは不得意分野のはずである。しかし、今蒙古は漢人の王朝である宋を攻略中である。宋は世界で最も優れた航海技術を有する国である。もし、蒙古が宋を従えて日本に侵攻して来たらどうなるか。

 現在蒙古は宋の重要拠点である襄陽を攻略中である。

 襄陽は三国時代に名将豪傑としてその名を知られる関羽ですら攻略に失敗し、命を落とすことになった難攻不落の堅城である。そう簡単に落ちるとは思えないが、宋を切り従えた蒙古がその力を倍化させて攻めて来るなどと、想像するだけでも恐ろしい。

「撓気時光の報告によると、蝦夷ヶ島の戦略的価値についての報告は、蒙古の本国にはいっていないようだが、警戒は継続するべきだろうな」

「まだまだ彼には彼の地で働いてもらう事にしましょう。蒙古侵攻の恐れが無くなった時こそ、呼び戻して恩賞を与えれば良いでしょう」

 撓気時光の北方での戦いは、まだ続くことになる。

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 北条時宗が撓気時光の報告書に目を通していた頃、別の場所でも同じように報告を受けている者がいた。

 通常では考えられないほど巨大な天幕(ゲル)中には、三人の男だけが膝を詰めて話し合っていた。

 一人は遊牧民族の中年男性だが、見る者が見れば普通の遊牧民族の男とはかけ離れていることは見て取れる。通常の遊牧民族の男は、水が乏しい地域で生活するという特性もあり、あまり服を洗濯するという習慣が無い。それでも気候のため不潔感は感じられるものではないのだが、この男の服装は服の素材、仕立て共に上等な物である。余程高貴な人物なのだろうと察することが出来る。

 それもそのはず、この男の名はフビライ。史上最大の帝国であるモンゴル帝国第五代皇帝である。

 通常なら世界最高の権力者として、それに相応しい宮殿で暮らしている。後に大都、更に後の時代には北京の名で知られる壮大な都市である中都は、今報告が行われているゲルのすぐ近くに存在している。

「狩りをお楽しみ中のところ、このように報告の場を作っていただきありがとうございます」

「いやいや。宮殿の改まった場で報告を受けるのも面倒だし、中都に戻るまで待たせるのも悪いからな」

 フビライに報告する二人の男、彼らはその顔立ちから西洋人であることが見て取れる。彼らは似た顔立ちをしているので血縁関係にあることを伺わせた。

 片方の男は、ニコーロ=ポーロ、もう片方の男はマフェオ=ポーロと言う。彼らはここから遥か西方の都市ヴェネツィアの商人であり、東方世界まで商売のために旅をしてきたのだ。そして、縁あってフビライに気に入られることになり、こうして見聞きしたことを報告しているのだ。

「それで、骨嵬(くい)の奴らが住む島は、戦略的価値は薄いというのだな?」

「はい、骨嵬――彼ら自身は自らをアイヌと称していますが、彼らの住む蝦夷ヶ島は資源に乏しく、山がちなので馬の飼育にも向いていませんので、攻め取る価値はありません。それに海は荒れやすいのでこちらから日本に攻め込むのも難しいでしょう」

「そうか、それは残念だ。折角見てもらって来て悪かったな」

 フビライは心底残念そうに言った。

「しかし、あの地域の連中は訳が分からぬ。その、蝦夷ヶ島の北のカラプトの連中は、骨嵬に攻められて助けて欲しいというから兵を差し向けたのだが、離反されたり色々あって和睦して帰って来たらしい。儂としてはあの方面は、大陸さえ押さえておけば満足だからどうでも良いのだがな。まあそれもお前たちが色々調べて来てくれたから決断出来ることだが」

 蝦夷ヶ島の調査に関してはカラプトに派遣した部隊に、斥侯を派遣するように命じてあったのだが、全滅して帰ってきたとの報告をフビライは受けている。なので、現地の報告はニコーロ達のもののみである。

「それでは我々は一旦故国に帰らせていただきます」

「おう、そうか。是非また来てもらいたい。渡した牌符を見せればどの地域でも協力してくれることだろう」

 モンゴル帝国には各地に道が整備されおり、旅人はこれを利用することで安全確実に移動することが出来る。そして、行政機関の発行した牌符を持つ者は各地で馬や食事等の支援を受けることが出来る。特に皇帝であるフビライが発行した牌符はその効果も抜群である。

「はい。今度は私の息子も連れてまいります。丁度旅をするには良い年齢でしょう」

「歓迎しよう。そしてまた儂のために働いてくれ」

「ははっ」

 ゲルを出たニコーロ達は馬に乗り、草原に向かって駆け出した。

「ふ~。上手く信じ込ませることが出来たようだな。兄者」

 周りに誰も見えなくなったところで馬の速度を落とし、マフェオがニコーロに話しかけた。

「ああ。ばれないかヒヤヒヤものだったが、上手く騙せ通したようだ。これも、蝦夷ヶ島に入り込んだ斥侯を、トキミツ達が全滅させてくれたおかげだな。我々だけではとても無理だった」

「それに、一緒にいると面倒だったグリエルモの奴を、上手く連れて行ってくれて良かったな。奴がいるとやりづらかったからな」

 ニコーロ達が蝦夷ヶ島に渡った時、ドミニコ会の修道士であるグリエルモが共に行動していた。彼は船の中で出会い、同じヨーロッパ出身という事もあって一緒に蝦夷ヶ島で行動したが、ニコーロ達の目的とは全く関係が無いので正直困っていた。何しろ彼の所属しているドミニコ会は、堅物揃いで知られているのだ。

「しかし、誤算もあるな。まさか、ガウリイル達が負けてしまうとは予想外だ。立て直すには数年かかるぞ」

「仕方がない。だからこそモンゴル帝国を回って協力者を集めるのだ」

「でも、一度ヴェネツィアに戻るんだろ?」

「もちろんだ。信用できる仲間は喉から手が出るほど欲しい。さあ、行くぞ」

 ニコーロ達は西方に向かって旅立った。彼らは東方に帰還する時、時光達は新たな戦いの局面に入ることとなる。

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 現代日本で「東方見聞録」の名で知られている書物がある。ヴェネツィアの商人にして探検家であるマルコ=ポーロが東方地域を旅して見聞きしてきた内容を、ルスティケッロという著述家が取りまとめたものだ。

 この本は、これを読んだコロンブスという人物が新大陸を発見する要因になるなど後世に多大な影響を及ぼしている。

 そして、この本に奇妙な記述がある。

 モンゴル帝国皇帝フビライがジパング――日本――を征服しようと兵を送った事象が書かれており、これについては正しい。現代日本では元寇の名で知られており、教科書にも記述されている。

 しかし、東方見聞録のいくつかのバージョンによって違うが、その中には元寇の起こった年を、1264年、1268年、1269年などと記述している。

 モンゴル軍が九州に攻めて来たのは、文永11年――1274年――と弘安4年――1281年――の事であり、一致しない。この不一致を、マルコ=ポーロが実際には旅をしていない証拠だという説もある。

 ただ、1264年はモンゴル軍による樺太侵攻が始まった年であり、1268年は蝦夷ヶ島で撓気時光がモンゴル軍の斥侯と戦った年、1269年はカラプトで撓気時光とアイヌがモンゴル軍を打ち破った年である。

 関係があるのかは分からない。

 しかし、その様な記述があるという事だけ述べてこの章を終えることとする。
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