第83話「決戦前」
文字数 3,255文字
ピイエに布陣していたプレスター・ジョンは、内心苛立った様子で部下の動きを見ていた。
これまで北から南下を試みるアイヌ達を、三方から包囲して完全に防いでいるはずであった。しかも、今後大陸に残してきたミハイルが旗下の騎士団を率いて、敵の背後を突くことが予想されていた。最早戦局は動かしがたく、互いに戦力を消耗する決戦に挑まなくとも勝負は決するはずだった。
そうすれば、今後の日本への進出のための戦力を温存できるし、降伏したアイヌ達も使いやすいというものだ。これに加えて大陸に散らばるキリスト教徒の同志を集めれば、当面四万以上の兵力が参陣できる。
四万程度では日本を征服するには本来足りないのだが、日本の武士達はモンゴル帝国本国の侵攻に備え、現在九州に対する防備を固めている。北からの侵攻は予想していない筈だ。
実際には時光の報告を受けた執権の北条時宗は、親しく信頼のおける東国の御家人に対して北 の 元 寇 に対処する準備を整えさせているが、これでは兵力が足りない。本当は東国の御家人、加えて御恩と奉公の関係にない武士に対しても実情を話して備えさせたいところなのだが、数年前に蝦夷代官職という北の守りの要職にある安藤五郎がモンゴルと秘密裏に手を組んでいたという事件があったばかりである。この時は撓気時光がアイヌとともに安藤五郎を処断したため事なきを得たが、これは状況によっては日本を裏切る者がいるという事だ。このため混乱が生起することを避けるために、情報を広く開示すことは出来なかったのだ。
だが、プレスター・ジョンの計画にはほころびが生じている。
蝦夷ヶ島の険しい自然に数少なく存在する隘路を完全に封鎖していたはずだったのだが、何処から突破されたのかは分からないが背後に迂回され、大陸との連絡のための要点であるイシカリを奪取されてしまった。これでは大陸からの補給を受けることが出来ないので包囲を続けることは出来ない。蝦夷ヶ島は豊かな自然を湛え、水も食料もかなりの量が現地調達できるのだが、それだけでは足りない部分もある。
また、折角発見した大量の金を失ったのは痛い。蝦夷ヶ島からは豊富な資源を産出することが可能で、石炭などは越冬のための燃料にも、兵器の作成にも使用することが出来る。そして当然のことながら金はその名の通り軍資金として即利用が可能なはずであった。採掘は現地の確認などでまだ開始したばかりであって十分な量を掘ることは出来ていなかったが、幸運にも当初占領したイシカリの集落で大量に金を保管していたので、これで大陸から増援を連れてこれる算段だったのだがそれも叶わなくなった。
そして、最大の痛手はイスラフィールの敗死である。
イスラフィールは、キリスト教徒を主体として編成されたプレスター・ジョンの軍勢において、異色とも言えるイスラム教徒であった。
モンゴル帝国に故郷が滅ぼされたことによる恨みと復興を願って、プレスター・ジョンの配下として働いてくれたのだが、彼は個人しての戦闘力はプレスター・ジョンの配下で最強であり様々な戦場で活躍してくれた。
また、それだけでなく、今後は同郷でモンゴル帝国に恨みを持つイスラム教徒を、味方に引き入れるための懸け橋になってくれる予定であった。イスラム教徒は漢人と並び当代でも世界最高水準の技術力を誇っている。これは大陸の辺境に生きていたモンゴル族にとっては必要不可欠なものであり、実際チンギス・ハーンの征服行でも服属させた他民族の技術を大いに活用していた。
プレスター・ジョンがこうして海を超えて蝦夷ヶ島に容易く来ることが出来たのも、世界最高の航海技術を有する宋王朝から寝返ったキリスト教徒の漢人達の力によるものなのだ。
イスラフィールが死に、イスラム教徒から力を借りるのが困難になった今、戦略を変換しなくてはならないだろう。日本の武士を上手く調略することが出来れば、やがてフビライとも互角に争う事が出来るのだろうが。
だが、それも先ずはイシカリの拠点まで退却し、全軍の安全を確保してからだ。
「到着しました。アイヌどもには特段妨害は受けず、兵、装備共に無事です。イスラフィールの事は残念でありましたな」
思索を深めていたプレスター・ジョンに、壮年の漢人の将軍が近づいて来て報告した。ウリエルという四大天使にちなんだ称号を与えた幹部である劉学崇である。アイペツの布陣を引き払い、プレスター・ジョンの本隊に合流したのだ。本隊の無事だけを考えればウリエルを待つ必要はなかったのだが、それではウリエルの部隊がアイヌに各個撃破されてしまう恐れがあった。そのため収容掩護のためにプレスター・ジョンはこの地を離れられなかったのだ。
「致し方無い。彼の魂が天に召される事を祈るだけだ。そして生き残った我々は目の前の敵に対処しなくてはならない」
「そうですな。とは申しましても、基本的な方針はここから南下してフラヌの平原を通過し、山を越えてイシカリへの撤退でしょう?」
「それがそうもいかなくなったのだ」
「何故ですか? ここは一旦イシカリで態勢を整え、大陸との連絡を回復し、ミハイル殿の増援を待つのが肝要でしょう。ミハイル殿の騎士団を加えれば確実に奴らの全軍にも勝てるはず」
現在ピイエに居るプレスター・ジョンの軍勢は一万程度だが、相対するアイヌ達はそれを超えるはずだ。ウリエルの見積もりでは恐らく一万五千といったところだろう。モンゴル軍は精鋭揃いだが、アイヌ側も大自然で鍛えられた剽悍な戦士が揃っており、蝦夷ヶ島の地理に明るい。人間同士の争いに疎いという弱点があったのだが、兵法に通じた日本の武士を指揮官として据え、ここ数年のモンゴル軍との争いにより場数を踏んだことでこの点は改善されている。
今の状態で敵と正面からぶつかった場合、負けなかったとしても大きな痛手を被るかもしれない。
だが、ミハイルが合流すれば話は変わる。先ず、兵数は互角以上になるという明確な利点がある。また、ミハイルは大陸の東西で数多くの武功をたてた歴戦の騎士である。ウリエルも兵法には通じているが、それは士大夫としての教養的な部分が多い。モンゴル帝国の侵攻に対処するためにある程度戦った経験はあるが、砂漠や氷上などあらゆる場所で戦い抜いたミハイルには及ばない。
「それが、退却経路に斥侯を出したのだが、山に入る道が木で塞がれているとのことだ。かなり大規模にやられていて撤去にはかなりかかりそうだ」
「なんと? それでは我々はこの盆地に閉じ込められたという事ですか?」
「そういう事になるな。敵が撤退経路の啓開を黙って見過ごしてくれれば良いのだが……」
「それを見過ごす奴らではありますまい。道を塞いだのも、奴ら……タワケトキミツの仕業に違いありますまい。いくら大雨が降っていたとはいえそう都合よく倒木が発生するなど無いでしょう」
ウリエルは天を仰いだ。こうなるのであれば、以前プレスター・ジョンの本拠地に現在強敵として立ちはだかる日本の武士を招いた時、正義に反するとしても暗殺してしまうべきだったかもしれない。
「今は色々話しても仕方あるまい。これからはどうやって敵を倒すかを考えるとしよう。奴らはこの地域の事を良く知っているかもしれないが、地形的には我々にとっても有利ではないか」
プレスター・ジョンの言う通り、現在彼らが布陣するピイエはなだらかな丘陵になっており、敵を高所から迎え撃つことが出来る。そして南方にはフラヌの平原が広がっており、南北約八十里、東西約十里に渡って開けた騎兵運用に適した地形だ。また、湿地になっている所もあり、腰以上まである草で覆われており、漢人の歩兵が伏兵をするにはもってこいだ。
彼らとてこれまで漫然と敵を包囲していた訳ではない。フラヌの平原で決戦する事も考慮に入れ、詳細な地形図を作成していたのだ。決して準備不足という訳ではない。
プレスター・ジョンとウリエルは、作戦の詳細について議論を開始した。
これまで北から南下を試みるアイヌ達を、三方から包囲して完全に防いでいるはずであった。しかも、今後大陸に残してきたミハイルが旗下の騎士団を率いて、敵の背後を突くことが予想されていた。最早戦局は動かしがたく、互いに戦力を消耗する決戦に挑まなくとも勝負は決するはずだった。
そうすれば、今後の日本への進出のための戦力を温存できるし、降伏したアイヌ達も使いやすいというものだ。これに加えて大陸に散らばるキリスト教徒の同志を集めれば、当面四万以上の兵力が参陣できる。
四万程度では日本を征服するには本来足りないのだが、日本の武士達はモンゴル帝国本国の侵攻に備え、現在九州に対する防備を固めている。北からの侵攻は予想していない筈だ。
実際には時光の報告を受けた執権の北条時宗は、親しく信頼のおける東国の御家人に対して
だが、プレスター・ジョンの計画にはほころびが生じている。
蝦夷ヶ島の険しい自然に数少なく存在する隘路を完全に封鎖していたはずだったのだが、何処から突破されたのかは分からないが背後に迂回され、大陸との連絡のための要点であるイシカリを奪取されてしまった。これでは大陸からの補給を受けることが出来ないので包囲を続けることは出来ない。蝦夷ヶ島は豊かな自然を湛え、水も食料もかなりの量が現地調達できるのだが、それだけでは足りない部分もある。
また、折角発見した大量の金を失ったのは痛い。蝦夷ヶ島からは豊富な資源を産出することが可能で、石炭などは越冬のための燃料にも、兵器の作成にも使用することが出来る。そして当然のことながら金はその名の通り軍資金として即利用が可能なはずであった。採掘は現地の確認などでまだ開始したばかりであって十分な量を掘ることは出来ていなかったが、幸運にも当初占領したイシカリの集落で大量に金を保管していたので、これで大陸から増援を連れてこれる算段だったのだがそれも叶わなくなった。
そして、最大の痛手はイスラフィールの敗死である。
イスラフィールは、キリスト教徒を主体として編成されたプレスター・ジョンの軍勢において、異色とも言えるイスラム教徒であった。
モンゴル帝国に故郷が滅ぼされたことによる恨みと復興を願って、プレスター・ジョンの配下として働いてくれたのだが、彼は個人しての戦闘力はプレスター・ジョンの配下で最強であり様々な戦場で活躍してくれた。
また、それだけでなく、今後は同郷でモンゴル帝国に恨みを持つイスラム教徒を、味方に引き入れるための懸け橋になってくれる予定であった。イスラム教徒は漢人と並び当代でも世界最高水準の技術力を誇っている。これは大陸の辺境に生きていたモンゴル族にとっては必要不可欠なものであり、実際チンギス・ハーンの征服行でも服属させた他民族の技術を大いに活用していた。
プレスター・ジョンがこうして海を超えて蝦夷ヶ島に容易く来ることが出来たのも、世界最高の航海技術を有する宋王朝から寝返ったキリスト教徒の漢人達の力によるものなのだ。
イスラフィールが死に、イスラム教徒から力を借りるのが困難になった今、戦略を変換しなくてはならないだろう。日本の武士を上手く調略することが出来れば、やがてフビライとも互角に争う事が出来るのだろうが。
だが、それも先ずはイシカリの拠点まで退却し、全軍の安全を確保してからだ。
「到着しました。アイヌどもには特段妨害は受けず、兵、装備共に無事です。イスラフィールの事は残念でありましたな」
思索を深めていたプレスター・ジョンに、壮年の漢人の将軍が近づいて来て報告した。ウリエルという四大天使にちなんだ称号を与えた幹部である劉学崇である。アイペツの布陣を引き払い、プレスター・ジョンの本隊に合流したのだ。本隊の無事だけを考えればウリエルを待つ必要はなかったのだが、それではウリエルの部隊がアイヌに各個撃破されてしまう恐れがあった。そのため収容掩護のためにプレスター・ジョンはこの地を離れられなかったのだ。
「致し方無い。彼の魂が天に召される事を祈るだけだ。そして生き残った我々は目の前の敵に対処しなくてはならない」
「そうですな。とは申しましても、基本的な方針はここから南下してフラヌの平原を通過し、山を越えてイシカリへの撤退でしょう?」
「それがそうもいかなくなったのだ」
「何故ですか? ここは一旦イシカリで態勢を整え、大陸との連絡を回復し、ミハイル殿の増援を待つのが肝要でしょう。ミハイル殿の騎士団を加えれば確実に奴らの全軍にも勝てるはず」
現在ピイエに居るプレスター・ジョンの軍勢は一万程度だが、相対するアイヌ達はそれを超えるはずだ。ウリエルの見積もりでは恐らく一万五千といったところだろう。モンゴル軍は精鋭揃いだが、アイヌ側も大自然で鍛えられた剽悍な戦士が揃っており、蝦夷ヶ島の地理に明るい。人間同士の争いに疎いという弱点があったのだが、兵法に通じた日本の武士を指揮官として据え、ここ数年のモンゴル軍との争いにより場数を踏んだことでこの点は改善されている。
今の状態で敵と正面からぶつかった場合、負けなかったとしても大きな痛手を被るかもしれない。
だが、ミハイルが合流すれば話は変わる。先ず、兵数は互角以上になるという明確な利点がある。また、ミハイルは大陸の東西で数多くの武功をたてた歴戦の騎士である。ウリエルも兵法には通じているが、それは士大夫としての教養的な部分が多い。モンゴル帝国の侵攻に対処するためにある程度戦った経験はあるが、砂漠や氷上などあらゆる場所で戦い抜いたミハイルには及ばない。
「それが、退却経路に斥侯を出したのだが、山に入る道が木で塞がれているとのことだ。かなり大規模にやられていて撤去にはかなりかかりそうだ」
「なんと? それでは我々はこの盆地に閉じ込められたという事ですか?」
「そういう事になるな。敵が撤退経路の啓開を黙って見過ごしてくれれば良いのだが……」
「それを見過ごす奴らではありますまい。道を塞いだのも、奴ら……タワケトキミツの仕業に違いありますまい。いくら大雨が降っていたとはいえそう都合よく倒木が発生するなど無いでしょう」
ウリエルは天を仰いだ。こうなるのであれば、以前プレスター・ジョンの本拠地に現在強敵として立ちはだかる日本の武士を招いた時、正義に反するとしても暗殺してしまうべきだったかもしれない。
「今は色々話しても仕方あるまい。これからはどうやって敵を倒すかを考えるとしよう。奴らはこの地域の事を良く知っているかもしれないが、地形的には我々にとっても有利ではないか」
プレスター・ジョンの言う通り、現在彼らが布陣するピイエはなだらかな丘陵になっており、敵を高所から迎え撃つことが出来る。そして南方にはフラヌの平原が広がっており、南北約八十里、東西約十里に渡って開けた騎兵運用に適した地形だ。また、湿地になっている所もあり、腰以上まである草で覆われており、漢人の歩兵が伏兵をするにはもってこいだ。
彼らとてこれまで漫然と敵を包囲していた訳ではない。フラヌの平原で決戦する事も考慮に入れ、詳細な地形図を作成していたのだ。決して準備不足という訳ではない。
プレスター・ジョンとウリエルは、作戦の詳細について議論を開始した。