第71話「海流に乗って」

文字数 2,596文字

 ボコベー城を放棄する事を決断した時光達は、速やかに準備を整えて離脱を開始した。

 蝦夷ヶ島でのプレスター・ジョンの本隊との決戦のため、全軍を離脱させることに決めた時光であるが、城を空白にしようとは考えていなかった。海を隔てて目と鼻の先には陽動部隊のミハイル達が待機している。彼らも当然情報活動を実施していることが予想され、城を引き払った事を知られればすぐに進軍を開始することだろう。

 そのため、城の周囲の集落で戦士として招集されている者以外の男を集め、城にまだ軍が残っているように偽装する事になった。

 準備が終わった時光達が向かうのは、城から見て東の海岸線に停泊させた多数の船の位置である。この位置なら西の対岸に位置する敵から発見されることは無いので、戦が始まる前に退避させたのだ。おかげで船に乗り込んだ時光達の行動は隠密になされているはずだ。

 時光達が保有しているのはアイヌやニヴフが使用する船で、丸木舟に板を貼り付けて補強したようなものであり、流石に世界でも有数の高い航海技術を有する敵の船には見劣りがする。しかし、アイヌ達はこれによって大陸に渡って交易などを長年やって来たのだ。多少貧相に見えても意外と高い性能を持っているし、それを操る彼らの能力も中々のものだ。

 そして、海流は北から南に流れている。このことはアイヌ達は経験則で理解しており、持続的かつかなりの速度で蝦夷ヶ島まで向かう事が出来るのだ。地上を徒歩で機動するよりもずっと早い。

 数年間アイヌ達と暮らしてきて、彼らの能力を把握している時光は、これらの事を予想したうえで全軍を蝦夷ヶ島に向かわせることにしたのである。

「大丈夫かな。残ったカラプトの皆はちゃんと敵が来た時に降伏するだろうか?」

 今回、ある意味カラプトの民を見捨て、蝦夷ヶ島を優先させるような作戦を立案した時光であるが、単に見捨てたという訳ではない。敵の陽動部隊が時光達が不在になった事に気が付いて攻め込んできた場合は無駄な抵抗はせずに降伏させるように指示したのである。

 もしも抵抗した場合敵との衝突になってしまうが、戦える者を全て蝦夷ヶ島に連れて行く以上戦っても碌な成果は期待できない。無駄死にである。これは誰が考えても当然のことであり、これではカラプト出身のニヴフの戦士達は気になって十分戦う事が出来ない。例え戦力を集中させるため全軍を蝦夷ヶ島に向かわせることを、理屈では理解していたとしてもだ。

 だが、やられる前に降伏してしまえば無駄な血が流される危険性は最小限になる。

 この策の阻害要因は、果たして降伏したから解いて無事に済むのかという事なのであるが、その点は大丈夫だと時光は予想している。

 行く先々の都市を土に還すまで破壊し尽くし、そこに住む人々を皆殺しにするため悪鬼羅刹の様な印象を持たれることの多いモンゴル軍であるが、実際はそればかりとは限らない。抵抗することなく降伏した都市には実に寛大な処置をとることが多い。虐殺をやったことがあるのは事実だが、これは抵抗したものがどうなるのかを他の者達に知らしめるため、ある種の見せしめ的な部分が多い。そして、大量破壊を喧伝することにより、それを恐れた他の都市を戦わずして降伏させるのだ。一種の情報作戦である。

 つまり、戦わずに降伏してしまえば、敵の文化的にはそれを受け入れる可能性が大なのだ。

 また、敵の指揮官の事を考えても、降伏した民を虐殺するとは思えない。

 敵の指揮官はヨーロッパ出身の老騎士のミハイルであり、彼は実に高潔な人物で無駄な殺戮に手を染めることがないと、これまでの戦いから時光は踏んでいる。騎士達の規範である騎士道においては、博愛や慈悲の心、自己犠牲等が重要であるとされている。実際は民に対する慈悲の心など持ち合わせていない騎士が大半で、騎士道など建前だったり、勇敢さと無謀を履き違えていたり、はたまた婦人への献身と言う名の恋の駆け引き位しか考えてはいない。

 しかし、ミハイルは真の騎士道精神を持った人物であり、彼の旗下の騎士達はミハイルの薫陶を受けた純粋培養の戦士達だ。

 その様な彼らが無抵抗な民を虐殺するなどあり得ない。

 敵に対する妙な信頼により今回の作戦は成り立っているのだ。戦場においては敵とは殺し合うのが宿命であるが、命のやり取りをしているからこそ敵の事が良く分かり、ある種の信頼の念を抱くことがある。今回の件はまさにそれであり、これは時光だけでなく他の戦士達も同意見である。

 もしかしたらその様な高潔な人物を配下にし、自らも優秀な人物であることが時光にも見て取れたプレスター・ジョンに下った方が幸福なのかもしれない。蝦夷ヶ島に向かう船上で、その様な考えが時光の脳裏をふとよぎった。

 日本国内では国内で武士同士の殺し合いは日常茶飯事であるし、ついこの前は安藤五郎が異国であるモンゴル帝国に寝返ろうとしたり私腹を肥やすためにアイヌを攫って労働力にしていた。この様な者達と比べたらプレスター・ジョン達の方がましな存在に思えて来る。

 しかし、自分達の自由と独立を守るために戦う。それが北の民の総意であり、時光も日本を守る任務を帯びている。最早悩む時期は過ぎているのだ。

 戦が近いためかつい妙な事を考えてしまった時光は、気を取り直して目の前を見据えた。水平線のかなたには蝦夷ヶ島の姿が浮かんでいる。

「ヤムワッカナイだ! やっと蝦夷ヶ島についたぞ!」

 ヤムワッカナイは蝦夷ヶ島の最北端の集落であり、カラプトとの交易において重要な拠点である。このため、ヤムワッカナイには人や物が集まっているはずであり、強行軍を重ねて来た時光達にとってはやっと休息が取れる地である。蝦夷ヶ島に到着したならば、島におけるプレスター・ジョン達の動きについて情報収集しなければならないが、ひとまず休憩しなければ十分戦う事が出来ない。今後の動きについて考えをまとめようとした時光は、ヤムワッカナイについてあることに気が付いた。

「なんだ? あの煙は」

 時光が口にした通りヤムワッカナイの集落付近には、煙が何筋も立ち上っている。炊事ともただの火事とも思えない。そう考えたのは時光だけではなく、アイヌの戦士達も同様であり、動揺が広がっている。

 既に戦乱の波がこの地まで押し寄せている事を時光達は感じ取って、戦闘の準備態勢をとった。
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