054 母の奇妙な予言
文字数 2,182文字
数日後、雨の日の午後、俺が自宅の自室にいると、母の優子がやって来た。家の前で雨に濡れて、泣いている女の子がいるという。見にいくと、俺に告白した例の女の子だった。
傘を差し掛け、雨のなかで話を聞いた。俺に断られたものの、どうしても未練があって、自分でも気持ちの整理がつかない。ふらふらと俺の家の前にやって来て、しかし、だからといって何ができるわけでもなく、ただ、そこで泣いていたのだという。
彼女をなだめすかし家まで送って帰ってくると、玄関で母が待ちかまえていた。事情を詳細に尋ねられる。俺は母を信頼していたから、隠さずに話した。聞き終わった母は、しずかな目でしばらく俺を見つめていた。そしていつもの諭すような口調で話しはじめた。
「亜樹夫さん、あなたは女の人を大切にしないと駄目よ。あなたの人生で、最後にあなたの味方になってくれるのは女の人なの。あなたは男の人からは目の敵のようにされて憎まれてしまうことが、きっとあるでしょう。何も悪いことをしなくても、勝手に向こうに反感を持たれてしまうの」
「え? なんで?」
「あと何年かしたら、あなたにも自然に分かるわよ」
母は謎めいた微笑をうかべるだけで、答えてはくれなかった。この当時は、俺はまだ自分の美貌がどれほどの武器になりうるかということに対して自覚がなかったが、母はすでに
「だから、亜樹夫さん、あなたは女の人を大切にしなさい。人生の土壇場で、あなたを助けてくれるのは、女の人なのよ」
母はくり返した。妙な人生訓だった。だが、それまで母がまちがったことを言ったことは一度もなかったから、俺はその言葉を脳裏に焼きつけたのだった。
山田さとみから告白(の未遂)を受けた俺は、この時の母の忠告を思い出した。山田さとみが彼女なりに思いきって行動し一歩踏みだした以上は、俺も男として無視しつづけるわけにもいかないだろう。これまでとは状況が違うのだ。
しかし、やはり、つき合うつもりもなかった。普通の男なら、適当に遊んでサヨウナラというのが相場だろう。俺の卑しい同級生たちの中には、実際そういう振舞いにおよび、後日それを自慢気に吹聴している者もいた。そのような卑劣な振舞いは、俺の好むところではない。俺は奴らと同類ではないのだ。母の人生訓もある。さて、どうしたものか。
思案した俺は、その夜、山田さとみの携帯に電話した。君の気持ちはよくわかった。君の気持ちはありがたい。でも俺たちは学生の身であり、学業が本分である。まだ人格形成途上であり、未熟な身で異性と交際するというのは、いかがなものだろうか。今はお互いに信頼できる友人のままでいて、人間を磨こう。そしてあと何年かして、お互いに一人前になったら、きちんと交際できる日がくるかもしれないね……。
俺は、まるで昭和30年代の青春小説に出てくるような綺麗ごとをならべた。
山田さとみは携帯電話のむこうで黙って聞いていたが、最後に「わかりました」と言った。そして何秒かの沈黙の後に「ありがとう」とつけ加え、電話を切った。
その後、彼女はなんとなく寂しそうな眼差しで、ときどき俺のことを見つめていることはあったが、俺に対して特別な振舞いを示すことはなくなった。俺の意識の中で山田さとみの存在はしだいに稀薄になり、そして忘れさられた。
その山田さとみが、思いがけない形で俺の目の前に現れた。テレビのリポーターから、肉親殺しの高校三年生、つまり俺についてインタビューされ、泣きじゃくりながら答えているのだ。
──彼がこんなことをするなんてありえない。彼は犯人じゃないと信じている……。
彼女を適当にあしらい、むしろ迷惑にさえ感じた俺を、未だにそこまで信頼してくれるのか。俺にとっては山田さとみは精算済の過去の人間だった。だが、彼女のほうではまだ俺に気持ちをつないでくれているらしい。女の心というのは、よく分からない。一途なその気持ちはありがたい。しかし、だからといって、俺にはもうどうしようもないことなのだ。
朝起きて顔を洗い、満員電車にゆられて登校する。見栄えのしない同級生たちと、代わりばえのしない授業を受ける日々のくりかえし……。決められたレールの上を、ひたすら踏みはずさないように進んでいく。ハプニングといえばせいぜい恋愛がらみ。殺人やスタンガン強盗や拳銃強奪事件が発生するとは誰も予想しない。退屈ではあったが、平和といえば、平和だった高校生活。今こうして考えると、懐かしいと言えないこともない。
だが俺は、すでに踏み出してしまったのだ。引き返すことはできない。住む世界がもはや違うのだ。気弱で心優しい奴、卑怯で憎たらしい奴、内気でいじらしい奴、色々いたけれど、もう会うことはない。俺の高校生活よ、永久にさようなら……。