007 腹の底の熱い塊

文字数 2,043文字

 緑色の防護ネットのむこうで、黄色いアームがせり上がってくる。神経を張りつめる。アームが頂点まできたら、その瞬間だ。息を止めて待つ。

 防護ネットが20センチ四方に切り取られている。射出口だ。唸りをあげてボールが吐きだされる。凝視する。球道を読む。一秒にも満たない凝縮された瞬間。勝負だ。

 最初から力んでいては駄目だ。体が硬くなって、筋肉の反応が遅れる。バットのグリップは軽く握る。肩の力も抜く。スイングしてミートする瞬間だけ、グリップを締める。その刹那、筋肉は鋼と化す。渾身の力をボールに叩きつける。ミートの衝撃で、両手が電撃をうけたように快く痺れる。バットが快音を発し、俺が打ち返したボールが宙を裂く。次の瞬間には力を抜き、筋肉は元のしなやかさを取り戻している。ボールは強烈なライナーとなって、バックネットに突き刺さった。

 新宿大ガードから北東に500メートル、歌舞伎町二丁目の〈新宿バッティングセンター〉に俺はいた。風林会館横の緩い坂道を北にすこし登ったところだ。新宿といってもこのあたりまで来ると、普通の市街地とそう変わらない。大ガード周辺の中心街とは、あきらかに風の色がちがう。

 原色の毒々しい看板の数が減る。ビルの間隔が開いて空が広い。能面のように一律に無表情だった通行人も、このあたりでは人間の顔をして歩いている。

 新宿バッティングセンターには、1番から15番までブースがある。ただし4、9、14番はない。「死」「苦」に通じるから、店側が縁起を担いで敬遠したのだろう。ブースごとに球速が異なる。最高が快速球120キロ、最低が超スローボール70キロだ。五時を回ると仕事を終えたネクタイ族がやってきて繁盛するということだが、今はすいている。まだ午後三時すぎだ。俺のほかには、中速球100キロの8番ブースで、トレーナーにジーパン姿の若者がバットを振っているだけだ。

 俺が選んだのは、このセンターでは一番球速の速い快速球120キロの2番ブースだ。俺の実力からすればこの球速では不足なのだが、これ以上は用意されていないのだからしかたがない。ちなみに1番ブースは、左打席用高速球110キロである。緑色の防護ネットで囲まれた各ブース内に、黒と金の金属バットが二本ずつ用意されている。金のほうが一回りサイズが小さく、やや軽い。

 2番ブースに入った俺は、長く重いほうの黒バットを選んだ。二、三回素振りをして、感触を確かめる。握りダコのできた手のひらに、バットが次第になじんでくる。ブース内にある黒い金属製の集金ボックスに百円玉を三枚入れると、10秒ほどしてから自動的にピッチング・マシーンが投球をはじめるシステムだ。

 俺はバットを構え、次の投球を待った。ピッチング・マシーンを睨む。黄色いアームがせり上がってくる。次のボールが吐き出される。狙いすまして鋭くスイングする。こいつも強烈なライナーで打ち返してやった。

 飛ばすのは単なるボールではない。腹の底の熱い塊。たとえば怒りだったり、憤りだったり。そいつをボールに乗せて打ち返す。打ち返しているうちに、(たぎ)った腹の底が静まってくる。気持ちが冷静になってくる。最後には、ただ黙々とバットを振るだけの無心な俺がいる。バットを振るという行為が、精神を昇華するのだ。

 精神をニュートラルな状態に保つためのやり方は、人によっていろいろだ。そいつは座禅だったり、竹刀の素振りだったり、カラオケで大声で歌うことだったりする。俺の場合はバットを振ることだった。自宅の俺の部屋には金属バットがあって、いつも手の届く場所に置かれていた。眠るときも、ベッドの枕元に立てかけておいた。小学生のときに父に買ってもらったものだ。最初から大人サイズの三号を選んだ。高校三年になる現在まで大切に使ってきた。使い込んで所々ペイントが剥げ、アルミ合金の地金が覗いているが、まだ十分使用に耐える。

 自分の部屋にいて考えがまとまらなかったり、気持ちが乱れたり、何か重大なことを決意しなければならないとき、俺はそのバットを握って庭に出るのが常だった。そして黙々と素振りをした。無心になるまでバットで風を切った。時間があるときは、自宅近くにあるバッティングセンターにもよく通った。ゴルフクラブに併設されているのだが、いつ行ってもがらがらで、休日に近所の父親連中を二、三人見かけるだけだった。敷地スペースをとる割には、こんなに客の回転が悪くて採算がとれるのかと、人ごとながら心配したものだ。いまだに潰れずに営業しているから、何とかなっているのだろう。

 俺が今、新宿バッティングセンターにいるのも、考えをまとめるためだった。
 自宅で、俺の父・(まもる)、母・優子、妹・樹理(じゅり)の遺体が発見された。犯行は露見した。
 警察の包囲網が絞りこまれる前に、計画の実行を急がなければならない。

(作者注:上の新宿バッティングセンターに関する記述はこの物語の設定年である平成16年を基準としており、現在とは異なります。)
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登場人物紹介

真崎亜樹夫 (18):主人公。超イケメンのナルシスト高校三年生。きわめて皮肉屋。きわめて毒舌家。きわめて非社交的。社会に適応できず、友達が一人もいない。ハードボイルド小説、大藪春彦『野獣死すべし』と河野典生『殺意という名の家畜』を愛読しすぎたせいで中2病をこじらせ、いまだに治癒しない。変人。必要に応じて、アキラという変名を用いる。

真崎守 (52):亜樹夫の父。小さな建築会社を経営。頑固な昭和オヤジ。絶対に言い訳せず、絶対に愚痴を言わない。物事のけじめに異常にきびしく、人間の絆を大切にする。ゴリラのような、いかつい外見。息子の亜樹夫には性格のみ遺伝し、外見は遺伝しなかった (ため亜樹夫本人は安堵している)。

真崎優子 (44):亜樹夫の母。故事成句「顰に倣う (ひそみにならう)」の由来となった西施に匹敵する絶世の美女。心やさしく、小さな生命を大切にする。亜樹夫の外見は、この母から遺伝した (ため亜樹夫本人は感謝している)。

真崎樹理 (6):亜樹夫の妹。小学一年生。亜樹夫と仲がよい。快活な性格で小動物のように動作が俊敏なクラスの人気者。スナフキンとカンゴールの赤いランニングシューズがお気に入り。

石塚鉄兵 (40):真崎守が経営する建築会社の古参従業員。真崎守の右腕的存在。建築業界の裏も表も知り尽くしている。亜樹夫にとっては頼りになる兄貴分のような存在。気さくな好人物。妻との間に中3の息子がおり、高齢の両親とも同居している。

小島令子 (37):真崎守が経営する建築会社で事務を担当する従業員。シングルマザー。夫と離婚して、幼稚園に通う娘を一人で育てている。

権田総一郎 (61):アラゾニア総合建設社長。同社は真崎守が経営する建築会社の元請。

シン (城田(しろた)晨一(しんいち) (22):新宿歌舞伎町のドラッグ売人。両親はおらず、新宿区下落合のアパートで妹の智代と二人暮らし。2年前に亡くなった父親の死因は交通事故ということになっているが……。

城田智代 (15):シンの妹。成績優秀な中学3年生。温和な性格。料理の腕はプロ級。

岩清水 (18):亜樹夫のクラスメイト。草食系。かつてヤンキー連に恐喝されているところを亜樹夫に助けられたことがあり、それを恩に着て、亜樹夫をリスペクトしている。

磯谷 (18):亜樹夫のクラスメイト。100キロ超の巨漢。万引き癖あり。亜樹夫の美貌に嫉妬して反感をいだいている。

山田さとみ (18):亜樹夫のクラスメイト。亜樹夫に告白しようとしたのだが……。

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