032 ヴァッシュ・ザ・スタンピードになりそこねた男
文字数 1,878文字
俺は付近の薄暗い路地の一本に入っていくと、路肩の敷石に腰をおろした。セントラルロードのほうから街の喧騒は伝わってくるが、ここには派手なネオンはなく人通りも少ない。歌舞伎町にしては比較的おちついた雰囲気だ。
10メートルほど先で、俺と同じように敷石に腰をおろしている男がいた。着古したスーツに身をつつみ、くたびれた風情だ。街の毒気を避けるように、街灯の明かりでスポーツ新聞を読んでいる。リストラ・サラリーマンかもしれない。そんな暗いところで新聞を読んでいたら、目を悪くするぞ。
さて、これからどうするか。ここまでは上々だ。今日できることは、すべてやった。探偵屋からアラゾニア総合建設社長の
カプセルホテルやサウナに泊まるつもりはなかった。肉親殺しの容疑者である俺は、未成年だから公開捜査にかかることはない。だが、それらの宿泊施設に対しては、警察から非公式に捜査協力要請がいっているにちがいない。おそらく顔写真もオフレコで手渡されていることだろう。俺が泊まったら、従業員が通報してしまう可能性が高い。俺には大切な使命があるのだ。こんな中途で計画を挫折させるわけにはいかない。
このまま狼のように、ひとり街を徘徊して、朝を待つか。体にはエネルギーが満ちて気力は充実し、まったく疲れや眠気は覚えない。若い俺には一晩の徹夜くらい、どうということもないのだ。歌舞伎町には終夜営業の施設がいくらでもある。所轄署の少年課の私服や補導員が、未成年を捕まえようと目を光らせているかもしれないが、俺はまず未成年には見えない。すくなくとも20歳だ。それくらいの年齢の若者は、街のいたるところで姿を見かけた。だいじょうぶだろう。
考えごとをしていた俺の前を、若い男が通りすぎた。派手な男だ。金のメッシュヘアをジェルで逆立て、深紅色の革ジャケットをはおっている。ヴァッシュ・ザ・スタンピードを気取っているのか? インナーは花柄のボタンダウンシャツで、胸元をだらしなくはだけ、そこからゴールドのチェーン・ネックレスをのぞかせている。左手首に、文字盤の直径が六センチはありそうな特大の腕時計を巻いており、しかもその文字盤がルーレットのように赤と黒に色分けされている。こんな腕時計は見たことがない。いったい、どこで買ったんだ? 見るからに軽薄そうな男だ。22~23歳か。俺とは無縁の世界を生きる者だろう。
男はくちゃくちゃガムを噛みながら一回俺の前を通りすぎたが、三、四歩行って引きかえしてきた。勝手に俺の隣に腰をおろす。
「よッ!」
なにが「よッ!」だ。勝手に
「なんですか?」
「なにやってんの、こんなところで?」
「なんでもいいじゃないですか。休んでるんですよ」
「ふーん」
まさか、この男、刑事だろうか。薄暗い路地に座りこんでいた俺の様子を不審に思って、探りを入れているのだろうか。それにしては態度が軽々しく警察関係者には見えないが……。
男は声をひそめ、顔を俺に近づけた。息がミント臭い。
「じつはサ……いいもの持ってるんだけど、買わない?」
男は革ジャケットのポケットから、PTPシートを取り出した。PTPシートというのは、表面が透明プラスチック、裏面がアルミ箔になっているシートで、よく風邪薬や頭痛薬などの錠剤が封入されているものである。しかし、男がまさか風邪薬や頭痛薬を売りつけようとしているわけがない。いやな予感がした。
「バツだよ」
「バツ? バツって何ですか?」
「正式名称MDMA。通称エクスタシー。新型の錠剤型ドラッグだよ」
なるほど。エクスタシーのXをとってバツと呼びならしているわけか。俺は理解した。
「知ってる? 注射器や特別な吸引器具はいらない。ただ、普通のクスリと同じように飲めばいい。簡単だよ。手軽なんで、最近、大流行しているんだ」
「いや、俺はそういうの興味ないですから」
男はドラッグの売人だったのだ。