026 変装

文字数 2,068文字

 10分後。護身具ショップ〈アスピーダ〉から、西武駅前通りをへだてて西南へ100メートル、〈PePe西武新宿〉に俺はいた。西武新宿駅、新宿プリンスホテル、百貨店が一緒に入った化粧レンガの駅ビルである。建物正面壁では巨大なシチズンの時計が時を刻んでいる。時計の周囲は、天使がハープを弾くレリーフで縁取られている。歌舞伎町に天使もなかろう。街の毒気にやられたのか、天使の表情に生彩がないように見うけられた。

 俺が今いるのは、ビル内のトイレ個室の一つだ。ズボンをはいたまま便座に腰かけ、購入したばかりのスタンガンのパッケージを開く。さっそく取扱説明書に目を通す。

 使用法は、難しいことは何もなかった。本体に電池をセットしてセイフティをONにし、先端から突きでた二本の電極を相手に押しつけて、トリガーを引く。それだけだ。

 準備を終えた俺は、いったん個室から出てトイレ内に俺以外は誰もいないことを確認し、ふたたび個室に戻った。スタンガンのトリガーを引く。瞬間、高圧電流がショートする激しい電子音が響き、電極の間に青白い火花が散った。個室内が青白く照らし出される。俺は会心の笑みを浮かべた。

 次に、さきほど尾張屋書店で購入した「新宿区住宅地図」を広げる。交番を探すのだ。駅前や繁華街にある交番は犯罪の発生件数も多いから、配属されている警官も大勢で警戒心も強いだろう。人通りの少ない住宅街にある小さな交番を探す。

 本当は郊外まで足を伸ばすのが一番いいのだが、時間がない。未成年だから非公開とはいえ、俺はすでに手配されているはずだ。捜査網が絞りこまれる前に決行しなければならない。

 注意深く地図を見ていくと、新宿周辺は400~500メートルおきに一つの割合で交番がある。その中で、俺が今いるPePe西武新宿から北へ約一キロ弱、職安通りの北側、大久保一丁目にある交番がよさそうだ。下見して俺の目的を満たしてくれそうなら、ここで決行しよう。

 俺はリュックを開き、あらかじめ用意しておいた作業着と作業帽を取り出した。道路工事や電気工事の作業員がよく身に付けているものだ。一般に市販されているもので、どこの会社でも使っているような、とりたてて特徴のないものである。

 すでに計画に必要なものは、あらかた用意してリュックに詰めてある。探偵屋からの報告を待つ三日間を()てたのだ。変装用の口髭に、度の入っていない黒縁メガネ、軍手、ナイフ、ハサミ。そして今回の計画を俺に決意させる最大の原因となった、封筒に入ったあの大切な〈手紙〉。今日、探偵屋から受け取った調査報告書も、もちろんリュックの中に入っている。

 本当は例の金属バットも、肌身離さず持ち歩きたかった。小学生のときに父に買ってもらって以来、ずっと俺の宝物だったのだ。毎晩寝るときもベッドすぐ近くの手に届く場所に置いておいたほどだ。あれが身近にないと心がなんとなく空虚である。サムライが刀を帯びずにいるというのは、こういう気分なのかもしれない。何百年も前の人種だから想像するしかないのだが。

 しかし、俺の肉親殺しが露見した現在、凶器の金属バットを携帯することは、あまりにも無謀だった。目立ちすぎる。いかに警察が無能であるとはいえ、街で金属バットを持ち歩いている男を見かけたら職務質問をかけてくるだろう。だからあの金属バットは、安全な場所に一時的に隠してある。計画を完遂したら、また手に取ることができるだろう。その日までの辛抱だ。革命成就への道程は、まだ遠い。

 俺は作業着に着替え、作業帽を被った。スタンガンは作業着の右ポケットに入れた。口髭をつけ、眼鏡をかける。個室の扉を細めに開けて、誰もいないことを確認してからリュックを持って外に出た。

 鏡で自分の姿を確認する。制服は人間の個性を捨象(しゃしょう)する。鏡に映っているのは18歳の高校三年生・真崎亜樹夫(まさきあきお)ではなく、どこの誰ともわからない一人の若い作業員だった。俺はもともと高校生にしてはかなり大人びた風貌をしている。映画館や美術館でチケットを買う際には、かならず学生証を提示しないと、受付から高校生だとは信じてもらえなかった。訊いてみると、20歳くらいに見えるという。それが口髭と眼鏡による変装のおかげで、さらに実際の年齢よりも上に見える。

 人間というのは、日頃の思索が顔に出るのだ。俺の高校の幼稚な同級生たちは、頭の中で考えるその内容のとおり、やはり子供っぽい顔をしていた。日頃から人生や社会について真剣に考え続けている俺は、高尚な精神の熟成が外面に現れているのだ。

 俺は鏡の中の作業員にニヤリと笑いかけた。作業員も悠然と笑い返してくる。
 しっかりやりな、作業員君。
 ああ、わかっているさ。抜かりはないよ。

 俺は変装姿に満足すると、トイレを出た。
 歯車はピッチをあげて回転しはじめた。計画は最初の大きな山場をむかえる。



✽平成16年10月30日(木) 亜樹夫の足取り
①西新宿探偵社
②新宿バッティングセンター
③新宿区役所
④尾張屋書店
⑤護身具ショップ アスピーダ
⑥PePe西武新宿
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登場人物紹介

真崎亜樹夫 (18):主人公。超イケメンのナルシスト高校三年生。きわめて皮肉屋。きわめて毒舌家。きわめて非社交的。社会に適応できず、友達が一人もいない。ハードボイルド小説、大藪春彦『野獣死すべし』と河野典生『殺意という名の家畜』を愛読しすぎたせいで中2病をこじらせ、いまだに治癒しない。変人。必要に応じて、アキラという変名を用いる。

真崎守 (52):亜樹夫の父。小さな建築会社を経営。頑固な昭和オヤジ。絶対に言い訳せず、絶対に愚痴を言わない。物事のけじめに異常にきびしく、人間の絆を大切にする。ゴリラのような、いかつい外見。息子の亜樹夫には性格のみ遺伝し、外見は遺伝しなかった (ため亜樹夫本人は安堵している)。

真崎優子 (44):亜樹夫の母。故事成句「顰に倣う (ひそみにならう)」の由来となった西施に匹敵する絶世の美女。心やさしく、小さな生命を大切にする。亜樹夫の外見は、この母から遺伝した (ため亜樹夫本人は感謝している)。

真崎樹理 (6):亜樹夫の妹。小学一年生。亜樹夫と仲がよい。快活な性格で小動物のように動作が俊敏なクラスの人気者。スナフキンとカンゴールの赤いランニングシューズがお気に入り。

石塚鉄兵 (40):真崎守が経営する建築会社の古参従業員。真崎守の右腕的存在。建築業界の裏も表も知り尽くしている。亜樹夫にとっては頼りになる兄貴分のような存在。気さくな好人物。妻との間に中3の息子がおり、高齢の両親とも同居している。

小島令子 (37):真崎守が経営する建築会社で事務を担当する従業員。シングルマザー。夫と離婚して、幼稚園に通う娘を一人で育てている。

権田総一郎 (61):アラゾニア総合建設社長。同社は真崎守が経営する建築会社の元請。

シン (城田(しろた)晨一(しんいち) (22):新宿歌舞伎町のドラッグ売人。両親はおらず、新宿区下落合のアパートで妹の智代と二人暮らし。2年前に亡くなった父親の死因は交通事故ということになっているが……。

城田智代 (15):シンの妹。成績優秀な中学3年生。温和な性格。料理の腕はプロ級。

岩清水 (18):亜樹夫のクラスメイト。草食系。かつてヤンキー連に恐喝されているところを亜樹夫に助けられたことがあり、それを恩に着て、亜樹夫をリスペクトしている。

磯谷 (18):亜樹夫のクラスメイト。100キロ超の巨漢。万引き癖あり。亜樹夫の美貌に嫉妬して反感をいだいている。

山田さとみ (18):亜樹夫のクラスメイト。亜樹夫に告白しようとしたのだが……。

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