016 主を失った父の事務所

文字数 1,846文字

 俺が住んでいた自宅や父の会社の事務所があるのは、東京郊外のありふれた住宅地だった。新宿から私鉄で30分あまりの距離だ。生活上、東京を離れる訳にはいかないのだが、かといって、都心に住むには財布に欠陥がある。そういう連中が妥協して造りあげたベッドタウンだ。

 高校を卒業後、小さな建築会社に就職した父は、クロス貼り、フローリング張り、クッションフロアー設備など、内装業のエキスパートとして腕を磨いた。その後、今から十数年前のバブル期、独立して小さな工務店を始めた。従業員七人の典型的な零細企業だが、当初はバブルの風に乗って経営は順調だった。

 700万人が従事するといわれる巨大な建設業界において、大手といわれるゼネコンに籍を置く者はほんの一握りであり、90パーセント以上の者はこのような中小零細企業に属している。建設業界とはゼネコンを頂点とする巨大なピラミッドであり、重層下請け構造なのだ。

 俺が父の事務所に到着したのは、10月27日月曜日、朝8時を少しまわった頃だった。サッシ扉の鍵を開け、中に入る。9時の始業時間にはまだ間があるから、従業員は誰も出社していない。

 俺は主を失った事務所の中を見渡してみた。父の仕事場であり、戦場だった。だが、父がここにやって来ることは、もう二度とない。事務所は静まりかえっていた。

 部屋の右と左、壁の二辺にそって、質素で実用的な事務デスクが二個ずつ、計四個並んでいる。部屋の奥の本棚を背にして、それより一回り大きいデスクがこちらを向いている。父が使っていた社長席だ。やはり高価なものではなく、実用本位だ。壁には、市から発行された認可証や、建設組合からもらった感謝状が額に収められて吊されている。なにか学校の職員室のような雰囲気だ。つつましく金はかかっていないが、厳粛なところがある。

 二、三週間前に来たときは、建築関係の図面やら注文書やら申請書があふれ、デスクのまわりは雑然としていたのだが、その日はきちんと整頓されていた。本は本棚に収められ、書類関係もそれぞれ分類されてホルダーに入れられ、しかるべき場所に戻されていた。つい最近、父が来て片付けていったのだろう。そのとき父が何を考えていたか、今の俺にはよく分かる。

 父のデスクの背後、本棚の上の一番目立つ位置の壁には、4Lサイズに引き伸ばした写真が額に収めて掛けられていた。社長である父を中央に、従業員七名全員で撮った写真だ。職場の写真という硬さはない。みな笑顔で、家族のように和気あいあいとしている。お互いがお互いを信頼し、人間的絆で結ばれている様子が写真に表れている。

 向かって父のすぐ右側に写っている男性が、会社のチーフ格で父の右腕である石塚鉄兵(いしづかてっぺい)さん。向かって左側が紅一点、唯一の女性従業員で、事務を担当している児島令子さん。
 石塚鉄兵さんは妻のほかに年老いた両親とも同居しており、さらに高校受験をひかえた中学三年の息子がいる。
 児島令子さんは幼稚園の娘が一人いる。母子家庭だ。女の細腕一本で家計をやりくりしている。離婚した夫は満足に養育費も送ってこない。

 父は言っていたものだ。
「俺の会社はたしかに小さい。だが俺はそれを恥じたことは一度もない。日本の会社の九割は中小零細企業だ。そういう中小零細企業と、そこで働く人間たちが、日本の経済を裏から支えているんだ。きちんと仕事があって、みんなで家族のように笑い合いながら暮らしていける。それが俺の理想だ。会社がいくら苦しくなってもリストラはしない。家族同然の連中だ。もし鉄兵さんがうちの会社を(くび)になったら、妻子をかかえてどうやって暮らしていくんだ。お年よりの両親だっていっしょじゃないか。児島さんだって母子家庭だ。女手ひとつで小さい娘を育てている。俺の会社が駄目になったら、児島さん母娘も路頭に迷ってしまう。老人や子供をかかえる従業員たちに、生活の不安をあたえるわけにはいかない。俺は金もうけや、社会的成功に興味はない。寝るところがあって食べるものがあれば、それで十分だ。そして地域の住人といっしょに、従業員全員と力を合わせて生きていく」

 尊敬すべき父親だった。新宿の探偵屋が調査してくれたアラゾニア総合建設社長の権田総一郎(ごんだそういちろう)とは大ちがいだ。権田は、従業員を切り捨てて平気でいるような男だ。父の爪の垢でも(せん)じて飲ませてやりたい。

 8時30分、石塚鉄兵さんが出社してきた。仕事熱心で責任感の強い鉄兵さんは、始業時間の9時にはまだ間があるというのに、もう現れた。
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登場人物紹介

真崎亜樹夫 (18):主人公。超イケメンのナルシスト高校三年生。きわめて皮肉屋。きわめて毒舌家。きわめて非社交的。社会に適応できず、友達が一人もいない。ハードボイルド小説、大藪春彦『野獣死すべし』と河野典生『殺意という名の家畜』を愛読しすぎたせいで中2病をこじらせ、いまだに治癒しない。変人。必要に応じて、アキラという変名を用いる。

真崎守 (52):亜樹夫の父。小さな建築会社を経営。頑固な昭和オヤジ。絶対に言い訳せず、絶対に愚痴を言わない。物事のけじめに異常にきびしく、人間の絆を大切にする。ゴリラのような、いかつい外見。息子の亜樹夫には性格のみ遺伝し、外見は遺伝しなかった (ため亜樹夫本人は安堵している)。

真崎優子 (44):亜樹夫の母。故事成句「顰に倣う (ひそみにならう)」の由来となった西施に匹敵する絶世の美女。心やさしく、小さな生命を大切にする。亜樹夫の外見は、この母から遺伝した (ため亜樹夫本人は感謝している)。

真崎樹理 (6):亜樹夫の妹。小学一年生。亜樹夫と仲がよい。快活な性格で小動物のように動作が俊敏なクラスの人気者。スナフキンとカンゴールの赤いランニングシューズがお気に入り。

石塚鉄兵 (40):真崎守が経営する建築会社の古参従業員。真崎守の右腕的存在。建築業界の裏も表も知り尽くしている。亜樹夫にとっては頼りになる兄貴分のような存在。気さくな好人物。妻との間に中3の息子がおり、高齢の両親とも同居している。

小島令子 (37):真崎守が経営する建築会社で事務を担当する従業員。シングルマザー。夫と離婚して、幼稚園に通う娘を一人で育てている。

権田総一郎 (61):アラゾニア総合建設社長。同社は真崎守が経営する建築会社の元請。

シン (城田(しろた)晨一(しんいち) (22):新宿歌舞伎町のドラッグ売人。両親はおらず、新宿区下落合のアパートで妹の智代と二人暮らし。2年前に亡くなった父親の死因は交通事故ということになっているが……。

城田智代 (15):シンの妹。成績優秀な中学3年生。温和な性格。料理の腕はプロ級。

岩清水 (18):亜樹夫のクラスメイト。草食系。かつてヤンキー連に恐喝されているところを亜樹夫に助けられたことがあり、それを恩に着て、亜樹夫をリスペクトしている。

磯谷 (18):亜樹夫のクラスメイト。100キロ超の巨漢。万引き癖あり。亜樹夫の美貌に嫉妬して反感をいだいている。

山田さとみ (18):亜樹夫のクラスメイト。亜樹夫に告白しようとしたのだが……。

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