016 主を失った父の事務所
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高校を卒業後、小さな建築会社に就職した父は、クロス貼り、フローリング張り、クッションフロアー設備など、内装業のエキスパートとして腕を磨いた。その後、今から十数年前のバブル期、独立して小さな工務店を始めた。従業員七人の典型的な零細企業だが、当初はバブルの風に乗って経営は順調だった。
700万人が従事するといわれる巨大な建設業界において、大手といわれるゼネコンに籍を置く者はほんの一握りであり、90パーセント以上の者はこのような中小零細企業に属している。建設業界とはゼネコンを頂点とする巨大なピラミッドであり、重層下請け構造なのだ。
俺が父の事務所に到着したのは、10月27日月曜日、朝8時を少しまわった頃だった。サッシ扉の鍵を開け、中に入る。9時の始業時間にはまだ間があるから、従業員は誰も出社していない。
俺は主を失った事務所の中を見渡してみた。父の仕事場であり、戦場だった。だが、父がここにやって来ることは、もう二度とない。事務所は静まりかえっていた。
部屋の右と左、壁の二辺にそって、質素で実用的な事務デスクが二個ずつ、計四個並んでいる。部屋の奥の本棚を背にして、それより一回り大きいデスクがこちらを向いている。父が使っていた社長席だ。やはり高価なものではなく、実用本位だ。壁には、市から発行された認可証や、建設組合からもらった感謝状が額に収められて吊されている。なにか学校の職員室のような雰囲気だ。つつましく金はかかっていないが、厳粛なところがある。
二、三週間前に来たときは、建築関係の図面やら注文書やら申請書があふれ、デスクのまわりは雑然としていたのだが、その日はきちんと整頓されていた。本は本棚に収められ、書類関係もそれぞれ分類されてホルダーに入れられ、しかるべき場所に戻されていた。つい最近、父が来て片付けていったのだろう。そのとき父が何を考えていたか、今の俺にはよく分かる。
父のデスクの背後、本棚の上の一番目立つ位置の壁には、4Lサイズに引き伸ばした写真が額に収めて掛けられていた。社長である父を中央に、従業員七名全員で撮った写真だ。職場の写真という硬さはない。みな笑顔で、家族のように和気あいあいとしている。お互いがお互いを信頼し、人間的絆で結ばれている様子が写真に表れている。
向かって父のすぐ右側に写っている男性が、会社のチーフ格で父の右腕である
石塚鉄兵さんは妻のほかに年老いた両親とも同居しており、さらに高校受験をひかえた中学三年の息子がいる。
児島令子さんは幼稚園の娘が一人いる。母子家庭だ。女の細腕一本で家計をやりくりしている。離婚した夫は満足に養育費も送ってこない。
父は言っていたものだ。
「俺の会社はたしかに小さい。だが俺はそれを恥じたことは一度もない。日本の会社の九割は中小零細企業だ。そういう中小零細企業と、そこで働く人間たちが、日本の経済を裏から支えているんだ。きちんと仕事があって、みんなで家族のように笑い合いながら暮らしていける。それが俺の理想だ。会社がいくら苦しくなってもリストラはしない。家族同然の連中だ。もし鉄兵さんがうちの会社を
尊敬すべき父親だった。新宿の探偵屋が調査してくれたアラゾニア総合建設社長の
8時30分、石塚鉄兵さんが出社してきた。仕事熱心で責任感の強い鉄兵さんは、始業時間の9時にはまだ間があるというのに、もう現れた。