036 秋風、秋雨、人を愁殺す
文字数 2,444文字
俺は考え直した。俺が乗っているのは、ただのタクシーだ。新宿周辺を何千台と走っているうちの、何の変哲もない一台だ。外見上は何の不審な点もない。まして中に俺が乗っていることなど、警察に分かるわけがない。おとなしくしていれば大丈夫だ。
信号が青に変わった。運転手がアクセルを踏み込んで、タクシーが発車する。大久保通りを横切って、ふたたび明治通りを北上する。俺は横目でパトカーを見ていたが、何の動きも示さない。路肩にうずくまったままだ。やがて交差点は、はるか背後に消えた。パトカーは追ってこない。
俺はほくそ笑むと、さりげなく運転手に訊いた。
「さっきの交差点にパトカーが停まってましたが、どうしたんでしょうね? まだ検問やってたんですかね?」
「ちがいますよ、お客さん。ただのパトロールですよ。新宿では事件が多いから、ああやって何もなくてもパトカーが目を光らせているんですよ。犯罪予防のためですな。このへんでは日常茶飯事の光景ですよ」
やはり心配することはなかったのだ。
何のトラブルもなく、タクシーは進んだ。その後は警官の姿も見かけない。
タクシーは目白通りをしばらく進んでから、左折して路地の一本に入り停車した。目的地に着いたのだ。シンが料金を支払った。俺が割り勘を申し出ると、シンは即座に拒絶した。
「恩人に金を出させるわけにはいかないよ」
意外と義理堅い男だ。
俺たちはタクシーが去るのを見送ると、肩を並べて夜の路地を歩きはじめた。秋の虫が寂しく鳴いている。10月下旬ともなれば、虫の声も元気がない。死が近いのだ。仲間の大半はすでに土に
──
俺は高校の漢文の授業で習った漢詩の一節を思い出した。出典は中国清代の陶澹人の詩だが、清朝末期の女性革命家・
今の俺には、志なかばにして
「すぐ近くだよ」
シンが俺を案内する。
「じつはサ……まだ言ってなかったけど、俺、妹と一緒に暮らしてるんだ。それで、その妹は、俺の例のバイトのことを知らない。だから……」
俺は合点した。ドラッグ密売のことは黙っていてくれということだ。
「わかってますよ。でも、あれがバイトだということは、本職は何なんですか?」
「引越屋で働いてるんだ。見えない?」
正直言って、見えない。俺はシンの姿を頭のてっぺんから足先まで見わたした。メッシュの金髪に、深紅色の革ジャケット、花柄シャツ、ゴールドのチェーン・ネックレス、ルーレットの腕時計……。
「この姿は歌舞伎町にいるときだけさ。引越のときは、ちゃんと青のつなぎの作業着を着てるよ。作業帽だって被るし」
ちょっと想像できない姿だ。
「でも引越屋の給料だけじゃ、生活が苦しくて。それで、あのバイトやってんだ。引越屋のいいところは、毎日きちんと夕方で仕事が終わること。夜の引越ってあまり聞かないだろ。だいたい六時には終わる。その後は自分の時間だ。で、俺はその時間をバイトに充ててるってわけだ。あのバイト、一晩で、売上げの中から一割もらえるんだ。だいたい一ヵ月で20万から30万。リスクはあるけど、割のいいバイトだ」
その派手な服装をひかえ、生活を切り詰めれば、リスクの高いバイトなどせず、引越屋の給料だけでやっていけるのではないか。
「今日はアキラに救われたよ」
アキラという変名で呼ばれることには、なんとなく違和感がある。俺自身ではない感じだ。
「まさか、あのしょぼいサラリーマンみたいな奴が刑事だとは思わなかった。今夜は売上げが少なくて、俺、焦ってたんだ。もし警察にパクられてたら、もうこのバイトからは干されるし、ドラッグを卸してもらってる怖い兄貴からは半殺しにされるし、大変なことになるところだった。助かった。でも、しばらくは歌舞伎町は避けないとな……」
怖い兄貴というのは暴力団関係者のことだろう。シンが歌舞伎町で刑事のところから逃げてきた直後、俺のことを「命の恩人」と言った理由が分かった。
「あっ、そうだ」
シンは急に思い出したように、携帯でどこかに電話をかけはじめた。
「そうなんですよ、すいません」
しきりに恐縮している。どうやら怖い兄貴に今日の経緯を説明し、謝っているようだ。
「明日、あらためて事務所のほうに、ごあいさつにうかがいます」と言って、通話を終えた。一息つく。
「さあ、着いたぜ。ここだ」
シンが示したのは〈グリーンハイツ下落合〉というアパートだった。
✽平成16年10月30日(木) 亜樹夫の足取り
①西新宿探偵社
②新宿バッティングセンター
③新宿区役所
④尾張屋書店
⑤護身具ショップ アスピーダ
⑥PePe西武新宿
⑦大久保一丁目交番
⑧ドン・キホーテ 新宿歌舞伎町店
⑨大久保二丁目交差点 パトカーに遭遇
⑩グリーンハイツ下落合 (シンのアパート)