062 父の大きな背中

文字数 1,665文字

 後ろから見る父の大きな背中は、憎いほど落ち着きはらっていた。背筋をまっすぐ伸ばして平然と進んでいく。父は身長180センチで肩幅が広く、堂々とした体格をしていた。工務店経営という肉体労働に従事しているから、全身の筋肉が発達している。大臀筋(だいでんきん)が上のほうに付いて、いわゆるヒップアップされた体型をしており、後ろから見るとすらりと足が長い。半袖から伸びた節くれだった腕や、襟からのぞく太い首筋は、浅黒く日焼けして力強かった。


 (画像はイメージです。)

 まだ中学一年で体格の劣る俺は、その後ろ姿を憎々しげに見あげた。今は俺のほうがチビだが、いつか追い抜いてやる。今に見ていろ。くそ。負けてたまるか。遅れてなるものか。意地でもついて行くぞ。俺は歯を喰いしばって足を運んだ。

 俺の肌は母の優子に似て、肌理(きめ)が細かく白かった。このような肌は、めっぽう直射日光に弱いのだ。こんがりと健康的に日焼けするということはなく、火膨(ひぶく)れのように赤く腫れて炎症をおこし、ひりひりと痛むだけである。生まれつき、メラニン色素が少ないのだ。これだけは根性でも防ぎようがない。直射日光に(あぶ)られて、全身が火照る。

 一方、浅黒い父の肌は日焼けに強かった。強烈な陽射しの下でも平然としている。俺は恨めしく思いながら、後につづいた。 太陽の照りつける下を、このまま昼飯も食わせてもらえずに歩きつづけるのかと思っていたら、そんなことはなかった。昼ごろ、ようやく中間地点の調布にたどり着いた。

 父はエネルギーがなければ人間は活動できない、飯は人間のエネルギー源だ、いい物を食おうと言って、焼肉屋に入っていった。大規模な郊外型チェーン店だ。ダンプの運転手や工事現場の作業員など、体のでかい大人たちで店は込みあい繁盛していた。彼らはじろりと俺のことを見た。場違いなヤツ、と視線が語っていた。普段の俺なら睨み返すところだが、この日はもはやそんな気力はなかった。

 俺は暑さと疲労で、ほとんど食欲がなかった。体中がひりひりと火照る。食事を無理やり口に入れても、おいしくない。人間は極限まで疲労すると、味覚が麻痺(まひ)してしまうのだ。

 父は違った。カルビ、タン、レバー、若鶏スペアリブと次々に注文して、備長木炭で灼けた鉄板の上に載せていく。脂がしたたり、音をたてて木炭を焦がす。香ばしい匂いが立ちこめる。父は焼ける端から、うまいうまいと言って平らげていく。肉だけじゃだめだ、炭水化物は人間にとってガソリンと同じで、こいつが燃焼してパワーになる。そう言って、ライスもどんぶりに山盛りで食べはじめる。

 俺が父の健啖(けんたん)な食いっぷりを茫然(ぼうぜん)と見守っていると、どうした先は長いぞ、まだ半分しか来ていないぞ、食べないと体が持たないぞと言う。

 じつを言うと俺は、俺の疲労ぶりを見かねて、父はここで俺を解放してくれるのではないかと秘かに期待していたのだ。

 甘かった。父は最後までやるつもりなのだ。そういう男だ。それを知った俺は、味のしない肉と米を機械的に乾いた口の中に運び、辛抱強く噛みつぶし、苦労して飲みこんだ。食べないと体が持たないことが、自分でも分かっていたからだ。

 だが、いったい何のために、父はこんな無謀なことを俺に強いるのだ? ぼんやりした頭の中で俺は自問した。父に尋ねても、また怒鳴られるだけだ。

 昼食が終わると、炎天下の強行軍は再開された。暑さは最高潮に達していた。無慈悲な夏の太陽が、容赦なく地上を()いている。俺の体は筋肉痛に悲鳴をあげた。なまじ休息をとったために、酷使した筋肉が冷えて硬直したのだ。足が棒になるという慣用表現があるが、陳腐な比喩として今までは(わら)っていた。だが、実際にそのとおりなのだ。膝が曲がらない。足が前に出ない。まさに硬い棒である。

 しかし父はそんな俺にまったく構うことなく、どんどん先に進んでいく。あいかわらず落ち着きはらった背中を俺に見せながら。

 こうなったら、こちらも自棄糞(やけくそ)だ。絶対に弱音は吐かない。意地でもついて行くぞ。思考力など、もうない。ただ機械的に足を前に運ぶだけだ。
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登場人物紹介

真崎亜樹夫 (18):主人公。超イケメンのナルシスト高校三年生。きわめて皮肉屋。きわめて毒舌家。きわめて非社交的。社会に適応できず、友達が一人もいない。ハードボイルド小説、大藪春彦『野獣死すべし』と河野典生『殺意という名の家畜』を愛読しすぎたせいで中2病をこじらせ、いまだに治癒しない。変人。必要に応じて、アキラという変名を用いる。

真崎守 (52):亜樹夫の父。小さな建築会社を経営。頑固な昭和オヤジ。絶対に言い訳せず、絶対に愚痴を言わない。物事のけじめに異常にきびしく、人間の絆を大切にする。ゴリラのような、いかつい外見。息子の亜樹夫には性格のみ遺伝し、外見は遺伝しなかった (ため亜樹夫本人は安堵している)。

真崎優子 (44):亜樹夫の母。故事成句「顰に倣う (ひそみにならう)」の由来となった西施に匹敵する絶世の美女。心やさしく、小さな生命を大切にする。亜樹夫の外見は、この母から遺伝した (ため亜樹夫本人は感謝している)。

真崎樹理 (6):亜樹夫の妹。小学一年生。亜樹夫と仲がよい。快活な性格で小動物のように動作が俊敏なクラスの人気者。スナフキンとカンゴールの赤いランニングシューズがお気に入り。

石塚鉄兵 (40):真崎守が経営する建築会社の古参従業員。真崎守の右腕的存在。建築業界の裏も表も知り尽くしている。亜樹夫にとっては頼りになる兄貴分のような存在。気さくな好人物。妻との間に中3の息子がおり、高齢の両親とも同居している。

小島令子 (37):真崎守が経営する建築会社で事務を担当する従業員。シングルマザー。夫と離婚して、幼稚園に通う娘を一人で育てている。

権田総一郎 (61):アラゾニア総合建設社長。同社は真崎守が経営する建築会社の元請。

シン (城田(しろた)晨一(しんいち) (22):新宿歌舞伎町のドラッグ売人。両親はおらず、新宿区下落合のアパートで妹の智代と二人暮らし。2年前に亡くなった父親の死因は交通事故ということになっているが……。

城田智代 (15):シンの妹。成績優秀な中学3年生。温和な性格。料理の腕はプロ級。

岩清水 (18):亜樹夫のクラスメイト。草食系。かつてヤンキー連に恐喝されているところを亜樹夫に助けられたことがあり、それを恩に着て、亜樹夫をリスペクトしている。

磯谷 (18):亜樹夫のクラスメイト。100キロ超の巨漢。万引き癖あり。亜樹夫の美貌に嫉妬して反感をいだいている。

山田さとみ (18):亜樹夫のクラスメイト。亜樹夫に告白しようとしたのだが……。

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