068 暁闇(ぎょうあん)、シンの父親は家を出た
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とにかく無気力になって、一日中ふさぎ込んでいる。酒を飲んでいないときは、こわばった顔をしてぼんやり何時間も座っていたり、一人でぶつぶつ訳の分からないことを言っていたり、アパートの中で同じところをぐるぐる歩き回っている。夜中にアパートを出ていってしまうこともあった。
さすがに俺もこれは異常だと思って、親父を病院に連れていった。すると『
俺は元気で働いていたころの親父の姿を知っているだけに、複雑な気分だったね。根っからの怠け者ってわけじゃないんだ。仕事がうまくいっていたときは輝いていた。俺や
はじめて食べたときからすでに懐かしい味というか、人間が本能の深いところで記憶している味というか……。ごめん、なに言ってるか分からないね。俺、バカだからうまく言えないよ。
とにかく食べ物っていうのは、ただ単に腹の中に入れるだけのものじゃないんだ。食べた人間の血となり肉となり、生命に直結していく。輝いていたころの親父がつくった料理は、それを実感させた。迫力のある、すごい味だったと思う。味に命がこもっていた」
俺の父と同じだ。工務店を経営していた父は、常々「家というのは、ただの箱じゃない。人間が生活していく血の通った器だ。人間が心を込めて作ったものには命が宿る。すでに単なるモノじゃない。それ自体がひとつの生き物といってもいい」と俺に言い聞かせていた。家でも何でも、人間が一生懸命、手がけたものには命が宿ると。
シンの父親の作る料理も同じだったのだ。どの稼業でも一流の職人というものは、同じ境地に到達するものらしい。
「親父は、男手ひとつで俺と智代をここまで育ててくれた。そのことに対する感謝の気持ちは、もちろんあった。でも親父が働かなくなってからは、代わりに俺が引越屋で働いて家計を支えて、一日中仕事して疲れて帰ってくると、親父は家でぼんやりと酒を飲んでいる。これは腹が立ったね。
しっかりしてくれよ親父、元のように自信に満ちた、頼りがいのある親父に戻ってくれよと心の中で叫んでいたよ。俺のことはまだいいとしても、智代が可哀相だったね。……で、そんな暮らしが二年ほどつづいた」
いよいよ、彼の父親が亡くなったという二年前に話は及ぶわけだ。
「ある夜、俺が寝ていると、智代が俺を起こしにきた。『お父さんがいない』って言うんだ。時計を見ると午前三時だった。俺はかんべんしてくれよ、って思ったよ。引越屋っていうのは、肉体労働なんだ。一日中、重たい荷物を運んで疲れている。寝かしといてくれよって思った。
親父は昼間は雨戸を閉めて家に閉じこもっていて出かける気力がないから、用事があるときは深夜に出かけていくんだ。以前にもそういうことが何度かあって、あわてて探しに行ったらコンビニで買物をしていたなんてことがあった。俺は今度もまたコンビニだろって言った。
智代は心配そうな顔をしていたけど。女の子が深夜一人で外に出たら危ないから、探しに行っちゃだめだと言って、俺はそのまま布団をかぶった。
目覚めたのは、六時半だった。いつもと同じ時間だ。いつもその時間に目を覚まして、朝メシ食って、支度をして会社に行くんだ。引越屋は朝はけっこう早いからね。
智代に訊いたら、親父はまだ帰っていないという。俺はいやな予感がした。智代も心配で、あれからずっと起きていたという。よほど俺のことをまた起こそうかと思ったらしいが、疲れて熟睡している俺の様子を見るとできなかったということだ。
俺がサンダルをつっかけて親父を探しに玄関を出ようとすると、ちょうど警察が二人やってきた」