009 バッター・ボックスの中には宇宙の縮図がある

文字数 864文字

「あなた……そんなことを言ったら、亜樹夫(あきお)が困ってしまいますよ」
 やわらかい優しい声がした。母の優子だ。家の中から窓越しに、俺たちの様子をずっと見守っていたのだ。父より8歳年下の母は、若く美しかった。エプロン姿で微笑んでいる。俺と12歳年が離れている妹の樹理(じゅり)は、この当時はまだ生まれていなかった。

 父は声をあげて笑った。
「すまん。すまん。困らせるつもりはなかった。ただ、おまえに自分の頭で考えてもらいたかった」
 それが父のいつものやり方だった。頭ごなしに結論だけを相手に押し付けることは決してしない。相手に自分で考えさせる。そのためにヒントをくれる。今にして思えば、理想的な教育法だった。今の俺がいるのは、この父のおかげだ。

「バッター・ボックスに立つ位置なんてのは決まった法則はないんだ。野球はチームプレーだが、バッティングだけは別だ。一対一、バッターとピッチャーの個人の戦いだ。バッターがボックスに立ったら、監督もベンチの連中も誰も助けてはくれないぞ。自分ひとりで闘うしかない。自分にとって一番いい位置を自分で見つけだす。ただ、いつも同じ位置に立つバッターは、ピッチャーにパターンを読まれてしまうぞ。野球なんていうのは、相手との駆引だ。そのとき、その場で最善の選択をして、パターンを変える。
 今のおまえには、まだ分からないかもしれないが、これも人生と同じだ。決まったパターン、決まった生き方なんてのは存在しない。人生の分れ道で、そのとき、その人間だけにしかできない決断をくだす。その積み重ねで、そいつの人生は決まってくる。自分の生き方は自分で決めるしかない」

 当時の俺の頭と経験では、このときの父の話を完全に理解することは困難だった。だが今の俺には、よく分かる。その気になって探せば、俺たちの周囲に人生の教師はいくらでもいるということだ。バットの素振りひとつ取っても、そこには凝縮された人生があり、バッター・ボックスの中には宇宙の縮図がある。ただ、大抵の人間はそこまで洞察が及ばず、単なる棒、単なる長方形としか見ていないだけだ。
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登場人物紹介

真崎亜樹夫 (18):主人公。超イケメンのナルシスト高校三年生。きわめて皮肉屋。きわめて毒舌家。きわめて非社交的。社会に適応できず、友達が一人もいない。ハードボイルド小説、大藪春彦『野獣死すべし』と河野典生『殺意という名の家畜』を愛読しすぎたせいで中2病をこじらせ、いまだに治癒しない。変人。必要に応じて、アキラという変名を用いる。

真崎守 (52):亜樹夫の父。小さな建築会社を経営。頑固な昭和オヤジ。絶対に言い訳せず、絶対に愚痴を言わない。物事のけじめに異常にきびしく、人間の絆を大切にする。ゴリラのような、いかつい外見。息子の亜樹夫には性格のみ遺伝し、外見は遺伝しなかった (ため亜樹夫本人は安堵している)。

真崎優子 (44):亜樹夫の母。故事成句「顰に倣う (ひそみにならう)」の由来となった西施に匹敵する絶世の美女。心やさしく、小さな生命を大切にする。亜樹夫の外見は、この母から遺伝した (ため亜樹夫本人は感謝している)。

真崎樹理 (6):亜樹夫の妹。小学一年生。亜樹夫と仲がよい。快活な性格で小動物のように動作が俊敏なクラスの人気者。スナフキンとカンゴールの赤いランニングシューズがお気に入り。

石塚鉄兵 (40):真崎守が経営する建築会社の古参従業員。真崎守の右腕的存在。建築業界の裏も表も知り尽くしている。亜樹夫にとっては頼りになる兄貴分のような存在。気さくな好人物。妻との間に中3の息子がおり、高齢の両親とも同居している。

小島令子 (37):真崎守が経営する建築会社で事務を担当する従業員。シングルマザー。夫と離婚して、幼稚園に通う娘を一人で育てている。

権田総一郎 (61):アラゾニア総合建設社長。同社は真崎守が経営する建築会社の元請。

シン (城田(しろた)晨一(しんいち) (22):新宿歌舞伎町のドラッグ売人。両親はおらず、新宿区下落合のアパートで妹の智代と二人暮らし。2年前に亡くなった父親の死因は交通事故ということになっているが……。

城田智代 (15):シンの妹。成績優秀な中学3年生。温和な性格。料理の腕はプロ級。

岩清水 (18):亜樹夫のクラスメイト。草食系。かつてヤンキー連に恐喝されているところを亜樹夫に助けられたことがあり、それを恩に着て、亜樹夫をリスペクトしている。

磯谷 (18):亜樹夫のクラスメイト。100キロ超の巨漢。万引き癖あり。亜樹夫の美貌に嫉妬して反感をいだいている。

山田さとみ (18):亜樹夫のクラスメイト。亜樹夫に告白しようとしたのだが……。

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