021 新宿区役所

文字数 1,204文字

 緩い坂が風林会館のあたりで下りから上りに転ずる。その坂を登っていくと、〈新宿区役所〉にさしかかった。ここなら公衆電話があるはずだ。別にどこでもよかったが。

 区役所前には掲揚ポールが三本あって、日本国旗と、新宿区章をあしらった濃紺の旗が掲げられていた。風が弱いから旗もしなだれて見栄えがしない。中央のポールはあいていた。

 建物入口横に小さな噴水があって、台座の上にブロンズ像があった。裸の女が身をくねらせてポーズをとっている。(さび)が雨で流れて、跡が黒い筋になっている。それにしても、どうして彫像というのは裸が多いのだろう。俺がどうでもいいことを考えながらブロンズ像を見ていると、すぐに鳩が五、六羽、寄ってきた。新宿にも鳩がいるのか。餌をくれという顔をしている。かなり人間に馴れている様子だ。

 俺はリュックの中に、ビスケット・タイプのサプリメントを持っていることを思い出した。そいつを取り出し、細かく砕いて、鳩どもの眼前にばらまく。鳩どもは首を曲げ、われさきに平らげていく。一定のリズムで小気味よく、首を上下させる。秋の陽射しのなか、俺はしばらくぼんやりとその様子を眺めていた。いつしか、自分が微笑みさえ浮かべていることに気づいた。俺は苦笑した。

 ──これではまるで、善良な小市民だな。のんびりとした午後のひととき、鳩に餌を与えながら微笑んでいる。鳩といえば平和のシンボルだ。こんな俺の姿を見て、誰が肉親を殺した凶悪犯人だと思うだろうか。

 青い空。午後の陽射し。平和な時間。あたりまえの生活。
 数日前までは、俺も〈そちら側〉の人間だった。だが、今はちがう。俺は進まなければならない。俺には、やり遂げなければならない使命があるのだ。

 俺は新宿区役所のスモーク・ガラスの自動ドアをくぐった。三~四月の納税・転出入のシーズンではないので、平日午後の区役所内部はすいていた。この不況下にあっても失業の恐れがない公務員たちは、いたってのんびりと余裕のある顔をしている。精神を張りつめて孤独な闘いに挑もうとしている俺は、そいつらの弛緩ぶりに腹が立った。

 目的のものはすぐに見つかった。「コピーはこちら」という看板のある受付カウンターの奥に、公衆電話が六台ならんでいた。一台だけ設置位置が低くなっているのは、車椅子の人や子供への公共施設らしい配慮だろう。
 一番奥の公衆電話で、スタンドに置かれていた「職業別タウンページ」を繰る。電話をかけるのではなく、この分厚い紙の電話帳を閲覧して情報を得ることが目的だった。新宿近辺にある護身具ショップを探す。

 さいわい、すぐ近く、歌舞伎町一丁目に〈アスピーダ〉という名の店が見つかった。東急文化会館近くの雑居ビル二階だ。俺は住所をメモした。ここで〈スタンガン〉を購入する。計画に必要な品だ。



✽平成16年10月30日(木) 亜樹夫の足取り
①西新宿探偵社
②新宿バッティングセンター
③新宿区役所


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登場人物紹介

真崎亜樹夫 (18):主人公。超イケメンのナルシスト高校三年生。きわめて皮肉屋。きわめて毒舌家。きわめて非社交的。社会に適応できず、友達が一人もいない。ハードボイルド小説、大藪春彦『野獣死すべし』と河野典生『殺意という名の家畜』を愛読しすぎたせいで中2病をこじらせ、いまだに治癒しない。変人。必要に応じて、アキラという変名を用いる。

真崎守 (52):亜樹夫の父。小さな建築会社を経営。頑固な昭和オヤジ。絶対に言い訳せず、絶対に愚痴を言わない。物事のけじめに異常にきびしく、人間の絆を大切にする。ゴリラのような、いかつい外見。息子の亜樹夫には性格のみ遺伝し、外見は遺伝しなかった (ため亜樹夫本人は安堵している)。

真崎優子 (44):亜樹夫の母。故事成句「顰に倣う (ひそみにならう)」の由来となった西施に匹敵する絶世の美女。心やさしく、小さな生命を大切にする。亜樹夫の外見は、この母から遺伝した (ため亜樹夫本人は感謝している)。

真崎樹理 (6):亜樹夫の妹。小学一年生。亜樹夫と仲がよい。快活な性格で小動物のように動作が俊敏なクラスの人気者。スナフキンとカンゴールの赤いランニングシューズがお気に入り。

石塚鉄兵 (40):真崎守が経営する建築会社の古参従業員。真崎守の右腕的存在。建築業界の裏も表も知り尽くしている。亜樹夫にとっては頼りになる兄貴分のような存在。気さくな好人物。妻との間に中3の息子がおり、高齢の両親とも同居している。

小島令子 (37):真崎守が経営する建築会社で事務を担当する従業員。シングルマザー。夫と離婚して、幼稚園に通う娘を一人で育てている。

権田総一郎 (61):アラゾニア総合建設社長。同社は真崎守が経営する建築会社の元請。

シン (城田(しろた)晨一(しんいち) (22):新宿歌舞伎町のドラッグ売人。両親はおらず、新宿区下落合のアパートで妹の智代と二人暮らし。2年前に亡くなった父親の死因は交通事故ということになっているが……。

城田智代 (15):シンの妹。成績優秀な中学3年生。温和な性格。料理の腕はプロ級。

岩清水 (18):亜樹夫のクラスメイト。草食系。かつてヤンキー連に恐喝されているところを亜樹夫に助けられたことがあり、それを恩に着て、亜樹夫をリスペクトしている。

磯谷 (18):亜樹夫のクラスメイト。100キロ超の巨漢。万引き癖あり。亜樹夫の美貌に嫉妬して反感をいだいている。

山田さとみ (18):亜樹夫のクラスメイト。亜樹夫に告白しようとしたのだが……。

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