023 どうもしねえよ

文字数 1,270文字

 若い男はカーキ色のワークジャケットを着て、同系色のイージーカーゴをはいている。ジャケットもカーゴも特大のポケット付きだ。25歳くらいか。一見、新宿のどこでも見かけるような普通の若者だ。だが目付きが鋭く、さりげなく立っているように見えながら、油断なく周囲に気を配っている。

 制服姿の男子高校生が、ワークジャケットに近づいていった。男子高校生は財布から紙幣を出して、ワークジャケットに渡した。小額紙幣ではなく福沢諭吉だ。ワークジャケットは、路肩に駐めてあった乗用車に歩み寄ると、助手席にいた仲間から小さな白い包みを受け取った。すぐにそれを男子高校生に渡す。男子高校生はちょっと周囲をうかがうような素振りを見せてから、いそいで姿を消した。

 ワークジャケットはドラッグの売人だったのだ。新宿では珍しくもないことだと話には聞いていたが、白昼堂々、路上で取引がおこなわれているとは驚きだった。しかも買い手はどう見ても普通の一般人である。日本の治安も、ついにここまで堕ちたか。
 ドラッグ売人の若い男は、俺と目が合った。まったく悪びれる様子がない。平然と見返してくる。

 だからそれがどうかしたか? 目が問うていた。
 どうもしねえよ。俺は(にら)み返した。

 こんなことはどうでもいいことなのだ。勝手な人間がそれぞれに勝手なことをやりながら、たがいに何の接点もないまま、すれ違っていく。もともと歌舞伎町とはそういう街だ。

 俺は靖国通りをさらに西に進んだ。しだいにビルが巨大になり、道の両側からのしかかってくる。切り取られた空が狭くなっていく。人間の数が増えていく。いわゆる〈歌舞伎町〉らしい顔になってきた。

 歩道の端に座りこんで、ホームレスが本を売っていた。一畳ほどのベニア板で即席のテーブルをつくり、段ボールを敷いて、その上に漫画雑誌、週刊誌、文庫などを山積みし、一冊100円で売っている。ホームレスの帽子から灰色の髪がはみでていた。風雨にさらされて、まったく脂気がない。顔色もどす黒く、深いしわが刻まれている。衣服も着古した感じだ。苦労しているらしい。

 ドラッグを売買している者もいれば、口を(のり)するのに必死になっている者もいる。いずれも同じ歌舞伎町の情景だ。日本社会の縮図と言えよう。

 東通り、さくら通り、セントラルロードと、通りを一本横切るたびに、歌舞伎町は顔が変わる。東通りやさくら通りには場末(ばすえ)た雰囲気が漂っていたが、セントラルロードまで来ると、カーニバルのような喧騒だ。このあたりは夜の商売ももちろんやっているが、ディスカウント・ショップ、ファーストフード、レストラン、喫茶店、カラオケ、ゲームセンター、パチンコなど表の商売も元気がいい。だから日中でも賑わっている。店頭のマイクから大音量で流れる客寄せのアナウンスで騒々しい。

 だが、まだ陽が高いから、大混雑というほどではない。この街が本性を表し、妖気を発し始めるのは夜になってからだ。

 靖国通りから右折してセントラルロードを新宿コマ劇場にむかって歩いていると、むこうから二人連れの制服警官がやってきた。
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登場人物紹介

真崎亜樹夫 (18):主人公。超イケメンのナルシスト高校三年生。きわめて皮肉屋。きわめて毒舌家。きわめて非社交的。社会に適応できず、友達が一人もいない。ハードボイルド小説、大藪春彦『野獣死すべし』と河野典生『殺意という名の家畜』を愛読しすぎたせいで中2病をこじらせ、いまだに治癒しない。変人。必要に応じて、アキラという変名を用いる。

真崎守 (52):亜樹夫の父。小さな建築会社を経営。頑固な昭和オヤジ。絶対に言い訳せず、絶対に愚痴を言わない。物事のけじめに異常にきびしく、人間の絆を大切にする。ゴリラのような、いかつい外見。息子の亜樹夫には性格のみ遺伝し、外見は遺伝しなかった (ため亜樹夫本人は安堵している)。

真崎優子 (44):亜樹夫の母。故事成句「顰に倣う (ひそみにならう)」の由来となった西施に匹敵する絶世の美女。心やさしく、小さな生命を大切にする。亜樹夫の外見は、この母から遺伝した (ため亜樹夫本人は感謝している)。

真崎樹理 (6):亜樹夫の妹。小学一年生。亜樹夫と仲がよい。快活な性格で小動物のように動作が俊敏なクラスの人気者。スナフキンとカンゴールの赤いランニングシューズがお気に入り。

石塚鉄兵 (40):真崎守が経営する建築会社の古参従業員。真崎守の右腕的存在。建築業界の裏も表も知り尽くしている。亜樹夫にとっては頼りになる兄貴分のような存在。気さくな好人物。妻との間に中3の息子がおり、高齢の両親とも同居している。

小島令子 (37):真崎守が経営する建築会社で事務を担当する従業員。シングルマザー。夫と離婚して、幼稚園に通う娘を一人で育てている。

権田総一郎 (61):アラゾニア総合建設社長。同社は真崎守が経営する建築会社の元請。

シン (城田(しろた)晨一(しんいち) (22):新宿歌舞伎町のドラッグ売人。両親はおらず、新宿区下落合のアパートで妹の智代と二人暮らし。2年前に亡くなった父親の死因は交通事故ということになっているが……。

城田智代 (15):シンの妹。成績優秀な中学3年生。温和な性格。料理の腕はプロ級。

岩清水 (18):亜樹夫のクラスメイト。草食系。かつてヤンキー連に恐喝されているところを亜樹夫に助けられたことがあり、それを恩に着て、亜樹夫をリスペクトしている。

磯谷 (18):亜樹夫のクラスメイト。100キロ超の巨漢。万引き癖あり。亜樹夫の美貌に嫉妬して反感をいだいている。

山田さとみ (18):亜樹夫のクラスメイト。亜樹夫に告白しようとしたのだが……。

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