017 石塚鉄兵さんは父の右腕

文字数 2,195文字

 40歳になる鉄兵(てっぺい)さんは、十数年前、父の会社が創業したときからずっと働いているメンバーだ。当時、20代後半だった鉄兵さんは、別の工務店に勤務していた。血気盛んだった彼は、仕事上のトラブルから上司と対立して殴ってしまった。当然、(くび)だ。父と鉄兵さんは、それ以前に市役所新館の建設現場でいっしょになったことがあり、すでに面識があった。鉄兵さんの人柄を知っていた父が、その話を伝え聞き、自分の会社に引き抜いてきたのだ。

 鉄兵さんは父の期待によく応えて働いてくれた。父の片腕として従業員中、最も信頼が厚い。単なる経営者と従業員の関係ではなく、盟友と言ってもいい。鉄兵さんは夏でも冬でも浅黒く日焼けして、年齢を感じさせない、たくましい筋肉質の体をしている。

「どうしたの、亜樹夫(あきお)ちゃん? 学校に行く時間じゃないの?」
 俺が事務所にいるのを見つけると、鉄兵さんは白い歯を見せて笑った。日焼けした身体の中で歯だけが白い。現場で鍛えあげた職人の顔だ。にかっと笑うと愛嬌がある。小学生の頃から俺を知っている鉄兵さんは、いまだに俺のことを「ちゃん」付けで呼ぶ。以前、俺は恥ずかしいからやめてくれと抗議したことがあるのだが、笑って取りあってくれなかった。俺にとっては、年の離れた兄のような存在だ。俺が小さいころは、いっしょにキャッチボールをして遊んでくれた。家族同然に共に年齢を重ねてきたという実感がある。

「先週は一週間ずっと実力テストだったから、今日から数日は試験休みで学校はないんです」
 俺はでたらめを言ったが、人間に裏表がない鉄兵さんは、最近の高校のカリキュラムとはそういうものなのかと、あっさり納得してしまった。俺が嘘をついて学校をずる休みしたことなど以前に一度もなかったという事実も、信用を買うのに役立ったようだ。
「で、何の用? オヤジさんはまだ来ないの?」

 鉄兵さんは父のことを、親しみをこめて「オヤジさん」と呼ぶ。
「そのことなんですが、父は今日は事務所には来ません。九州の遠い親戚のツテで金策の目途がつき、朝イチで向こうに発ちました」
「オヤジさんにも苦労かけるなあ。電話の一本も入れてくれればいいのに」
「それが本当に突然の話で、電話を入れる時間もなかったんです。それで代わりに伝えてくれと俺が父から頼まれて……」
「それはありがとう」
「で、どうなんですか、最近の会社のほうは? やっぱり大変なんですか?」
「亜樹夫ちゃんも気になるかい。そりゃ、オヤジさんの会社だから当然か。大変もなにも、この業界はバブル崩壊後は悪くなる一方だよ。マスコミの報道では景気回復の傾向が見られるなんてほざいているけど、そんなの一部の大企業と金持ち連中だけだよ。中小企業は、あいかわらずきびしいね」
「俺も高校を卒業したら、父を手伝ってこの仕事を継ぐつもりですから、そのあたり話をもっと聞かせてください」

 鉄兵さんは腕を組んで大きく息を吸うと、目を閉じた。眉間に深いしわが寄る。いつも陽気な鉄兵さんにしては珍しい表情だ。
「そうだね。亜樹夫ちゃんにも聞いておいてもらったほうがいいかもしれないね。いつかは話さないといけないことだし」

 鉄兵さんは深刻な顔で話しはじめた。
「俺は学がないから難しい話は分からないけれども、今の世の中は自由主義、民主主義で、すべての人間は平等だというのが建前だろう。亜樹夫ちゃんも学校で習ったね? それが、この業界は違うんだな。ゼネコンを始めとする元請の天下で、奴らの発言力が絶対なんだ。俺たち下請は元請の言いなりだよ。右を向けと言われればそのまま右を向いていなければならないし、石の上に座れと命じられれば、そのとおりにしなければならない」

 俺も建設業界の前近代的、封建的体質については、なにかで聞いた知識が多少はあった。だが、父は仕事の愚痴(ぐち)は家では絶対に言わない人だったから、具体的な詳しいことはまだまだ知らないことが多い。鉄兵さんの話をもっと聞きたかった。

「うちの会社はゼネコンの〈アラゾニア総合建設〉が元請で、いつもそこから仕事を回してもらっている。それは亜樹夫ちゃんも知っているよね。景気のいい頃は、なにも問題はなかったんだよ。山梨誠太(やまなしせいた)という人が当時の建設部長で、俺たちの仕事の窓口だった。この人は俺たちの仕事に理解がある人だった。俺たちの苦労をよく分かってくれて、いろいろ気を配ってくれた。あの頃は景気が良かったから、むこうもこちらも儲かって社会全体に余裕があったんだね。……ところが、バブルが崩壊して事情は一変しちまった」

 鉄兵さんは眉をひそめた。
「バブル期には、ゼネコンはどこも土地転がしだ、開発受注目的の土地買い占めだと、錬金術に走ったね。そいつがバブル崩壊で、ぜんぶ借金に変わっちまった。だいたい汗水たらして働かないで、投機だけで泡銭(あぶくぜに)を手にいれようなんて考え方自体がまちがっているんだ。罰があたったんだな」
 バブルと泡で洒落になっている。意図したのではない。当の鉄兵さんは気づかず、生真面目な顔でしゃべりつづけている。

「だがゼネコンは反省するどころか、その借金のしわ寄せを、ぜんぶ俺たち下請に押しつけはじめた。露骨な下請いじめが始まったんだ」
 小中学生の世界でよく聞く「いじめ」という言葉が大人の世界で使われることに、俺は驚きを覚えた。

「大人の世界、仕事の世界にも、いじめがあるんですか?」
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登場人物紹介

真崎亜樹夫 (18):主人公。超イケメンのナルシスト高校三年生。きわめて皮肉屋。きわめて毒舌家。きわめて非社交的。社会に適応できず、友達が一人もいない。ハードボイルド小説、大藪春彦『野獣死すべし』と河野典生『殺意という名の家畜』を愛読しすぎたせいで中2病をこじらせ、いまだに治癒しない。変人。必要に応じて、アキラという変名を用いる。

真崎守 (52):亜樹夫の父。小さな建築会社を経営。頑固な昭和オヤジ。絶対に言い訳せず、絶対に愚痴を言わない。物事のけじめに異常にきびしく、人間の絆を大切にする。ゴリラのような、いかつい外見。息子の亜樹夫には性格のみ遺伝し、外見は遺伝しなかった (ため亜樹夫本人は安堵している)。

真崎優子 (44):亜樹夫の母。故事成句「顰に倣う (ひそみにならう)」の由来となった西施に匹敵する絶世の美女。心やさしく、小さな生命を大切にする。亜樹夫の外見は、この母から遺伝した (ため亜樹夫本人は感謝している)。

真崎樹理 (6):亜樹夫の妹。小学一年生。亜樹夫と仲がよい。快活な性格で小動物のように動作が俊敏なクラスの人気者。スナフキンとカンゴールの赤いランニングシューズがお気に入り。

石塚鉄兵 (40):真崎守が経営する建築会社の古参従業員。真崎守の右腕的存在。建築業界の裏も表も知り尽くしている。亜樹夫にとっては頼りになる兄貴分のような存在。気さくな好人物。妻との間に中3の息子がおり、高齢の両親とも同居している。

小島令子 (37):真崎守が経営する建築会社で事務を担当する従業員。シングルマザー。夫と離婚して、幼稚園に通う娘を一人で育てている。

権田総一郎 (61):アラゾニア総合建設社長。同社は真崎守が経営する建築会社の元請。

シン (城田(しろた)晨一(しんいち) (22):新宿歌舞伎町のドラッグ売人。両親はおらず、新宿区下落合のアパートで妹の智代と二人暮らし。2年前に亡くなった父親の死因は交通事故ということになっているが……。

城田智代 (15):シンの妹。成績優秀な中学3年生。温和な性格。料理の腕はプロ級。

岩清水 (18):亜樹夫のクラスメイト。草食系。かつてヤンキー連に恐喝されているところを亜樹夫に助けられたことがあり、それを恩に着て、亜樹夫をリスペクトしている。

磯谷 (18):亜樹夫のクラスメイト。100キロ超の巨漢。万引き癖あり。亜樹夫の美貌に嫉妬して反感をいだいている。

山田さとみ (18):亜樹夫のクラスメイト。亜樹夫に告白しようとしたのだが……。

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