017 石塚鉄兵さんは父の右腕
文字数 2,195文字
鉄兵さんは父の期待によく応えて働いてくれた。父の片腕として従業員中、最も信頼が厚い。単なる経営者と従業員の関係ではなく、盟友と言ってもいい。鉄兵さんは夏でも冬でも浅黒く日焼けして、年齢を感じさせない、たくましい筋肉質の体をしている。
「どうしたの、
俺が事務所にいるのを見つけると、鉄兵さんは白い歯を見せて笑った。日焼けした身体の中で歯だけが白い。現場で鍛えあげた職人の顔だ。にかっと笑うと愛嬌がある。小学生の頃から俺を知っている鉄兵さんは、いまだに俺のことを「ちゃん」付けで呼ぶ。以前、俺は恥ずかしいからやめてくれと抗議したことがあるのだが、笑って取りあってくれなかった。俺にとっては、年の離れた兄のような存在だ。俺が小さいころは、いっしょにキャッチボールをして遊んでくれた。家族同然に共に年齢を重ねてきたという実感がある。
「先週は一週間ずっと実力テストだったから、今日から数日は試験休みで学校はないんです」
俺はでたらめを言ったが、人間に裏表がない鉄兵さんは、最近の高校のカリキュラムとはそういうものなのかと、あっさり納得してしまった。俺が嘘をついて学校をずる休みしたことなど以前に一度もなかったという事実も、信用を買うのに役立ったようだ。
「で、何の用? オヤジさんはまだ来ないの?」
鉄兵さんは父のことを、親しみをこめて「オヤジさん」と呼ぶ。
「そのことなんですが、父は今日は事務所には来ません。九州の遠い親戚のツテで金策の目途がつき、朝イチで向こうに発ちました」
「オヤジさんにも苦労かけるなあ。電話の一本も入れてくれればいいのに」
「それが本当に突然の話で、電話を入れる時間もなかったんです。それで代わりに伝えてくれと俺が父から頼まれて……」
「それはありがとう」
「で、どうなんですか、最近の会社のほうは? やっぱり大変なんですか?」
「亜樹夫ちゃんも気になるかい。そりゃ、オヤジさんの会社だから当然か。大変もなにも、この業界はバブル崩壊後は悪くなる一方だよ。マスコミの報道では景気回復の傾向が見られるなんてほざいているけど、そんなの一部の大企業と金持ち連中だけだよ。中小企業は、あいかわらずきびしいね」
「俺も高校を卒業したら、父を手伝ってこの仕事を継ぐつもりですから、そのあたり話をもっと聞かせてください」
鉄兵さんは腕を組んで大きく息を吸うと、目を閉じた。眉間に深いしわが寄る。いつも陽気な鉄兵さんにしては珍しい表情だ。
「そうだね。亜樹夫ちゃんにも聞いておいてもらったほうがいいかもしれないね。いつかは話さないといけないことだし」
鉄兵さんは深刻な顔で話しはじめた。
「俺は学がないから難しい話は分からないけれども、今の世の中は自由主義、民主主義で、すべての人間は平等だというのが建前だろう。亜樹夫ちゃんも学校で習ったね? それが、この業界は違うんだな。ゼネコンを始めとする元請の天下で、奴らの発言力が絶対なんだ。俺たち下請は元請の言いなりだよ。右を向けと言われればそのまま右を向いていなければならないし、石の上に座れと命じられれば、そのとおりにしなければならない」
俺も建設業界の前近代的、封建的体質については、なにかで聞いた知識が多少はあった。だが、父は仕事の
「うちの会社はゼネコンの〈アラゾニア総合建設〉が元請で、いつもそこから仕事を回してもらっている。それは亜樹夫ちゃんも知っているよね。景気のいい頃は、なにも問題はなかったんだよ。
鉄兵さんは眉をひそめた。
「バブル期には、ゼネコンはどこも土地転がしだ、開発受注目的の土地買い占めだと、錬金術に走ったね。そいつがバブル崩壊で、ぜんぶ借金に変わっちまった。だいたい汗水たらして働かないで、投機だけで
バブルと泡で洒落になっている。意図したのではない。当の鉄兵さんは気づかず、生真面目な顔でしゃべりつづけている。
「だがゼネコンは反省するどころか、その借金のしわ寄せを、ぜんぶ俺たち下請に押しつけはじめた。露骨な下請いじめが始まったんだ」
小中学生の世界でよく聞く「いじめ」という言葉が大人の世界で使われることに、俺は驚きを覚えた。
「大人の世界、仕事の世界にも、いじめがあるんですか?」