012 母の訓え

文字数 1,062文字

 俺が5歳の春だった。母といっしょに買物から帰ってきた俺は、母を手伝って、スーパーで買ってきた野菜を冷蔵庫に移していた。そのときだ。キャベツに緑色の毛糸屑のようなものが付いているのを見つけた。よく見ると、身をくねらすようにして動いている。青虫だ。驚きの声をあげた俺は、すぐに叩き(つぶ)そうとした。カブトムシやクワガタなら大好きだったが、こんな緑色をした粘性の虫は気色が悪かった。

 そんな俺を「やめなさい」と言って、母が(いさ)めた。
「青虫だって生きているのよ」
「でもこれ、野菜を食べちゃう悪い虫だよ」
「それは人間の一方的な言い分です。亜樹夫(あきお)ちゃん、あなただって野菜食べるでしょ。肉だって食べるでしょ。だから悪い子だって言える?」
「……」
 俺は沈黙するしかなかった。

「青虫は野菜の葉を食べて大きくなるんです。野菜が栄養なんです。野菜を食べなければ生きられない。それを人間の一方的な都合で悪い虫だって決めつけるのは、まちがっているんじゃないの?」

 母の言うとおりだった。納得した俺は、その日から青虫を育てはじめた。以前カブトムシを飼っていた飼育ケースに入れた。飼育ケースは、プラスチックの透明ケースの上部に細かい網目状の蓋が付いていた。土と木の枝を入れて、青虫が暮らしやすいように環境を整えた。餌は、毎日、母からキャベツの葉をもらって与えた。青虫の食欲は旺盛で、俺の手のひらより大きい葉を一日で食べつくしてしまうのだった。子供特有の好奇心で、俺は毎日毎日、飽きもせずに青虫の様子を観察した。

 ところが、ある日、青虫の食欲がぱったりと衰えた。まったくキャベツの葉を食べなくなってしまったのだ。指先でつついても、動きがにぶく元気がない。病気だろうか。俺は心配した。
 母に相談すると、「もうすぐサナギになるのよ。大丈夫よ」と微笑んだ。その落ちついた母の様子に、俺は安心した。

 母の言葉どおりだった。青虫は飼育ケース内の木の枝に、自分が吐いた糸で体をしっかり固定すると、サナギに変態しはじめた。緑色で柔らかかった体が、褐色に乾燥していく。俺はそのまま死んでしまうのではないかと、ひどく心配した。毎日のように飼育ケースを覗く。サナギは水も飲まず葉も食べず、じっと角張って固まったままだ。本当に死んでしまったのではないか。

 不安にかられた俺がまた母に相談すると、「死んだわけじゃないのよ。生まれ変わるために、じっと力を蓄えているのよ」と諭すように説明した。

 ある朝、目覚めた俺は、いつもの習慣で一番に飼育ケースを覗きこんだ。
 俺は不思議な情景を見た。
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登場人物紹介

真崎亜樹夫 (18):主人公。超イケメンのナルシスト高校三年生。きわめて皮肉屋。きわめて毒舌家。きわめて非社交的。社会に適応できず、友達が一人もいない。ハードボイルド小説、大藪春彦『野獣死すべし』と河野典生『殺意という名の家畜』を愛読しすぎたせいで中2病をこじらせ、いまだに治癒しない。変人。必要に応じて、アキラという変名を用いる。

真崎守 (52):亜樹夫の父。小さな建築会社を経営。頑固な昭和オヤジ。絶対に言い訳せず、絶対に愚痴を言わない。物事のけじめに異常にきびしく、人間の絆を大切にする。ゴリラのような、いかつい外見。息子の亜樹夫には性格のみ遺伝し、外見は遺伝しなかった (ため亜樹夫本人は安堵している)。

真崎優子 (44):亜樹夫の母。故事成句「顰に倣う (ひそみにならう)」の由来となった西施に匹敵する絶世の美女。心やさしく、小さな生命を大切にする。亜樹夫の外見は、この母から遺伝した (ため亜樹夫本人は感謝している)。

真崎樹理 (6):亜樹夫の妹。小学一年生。亜樹夫と仲がよい。快活な性格で小動物のように動作が俊敏なクラスの人気者。スナフキンとカンゴールの赤いランニングシューズがお気に入り。

石塚鉄兵 (40):真崎守が経営する建築会社の古参従業員。真崎守の右腕的存在。建築業界の裏も表も知り尽くしている。亜樹夫にとっては頼りになる兄貴分のような存在。気さくな好人物。妻との間に中3の息子がおり、高齢の両親とも同居している。

小島令子 (37):真崎守が経営する建築会社で事務を担当する従業員。シングルマザー。夫と離婚して、幼稚園に通う娘を一人で育てている。

権田総一郎 (61):アラゾニア総合建設社長。同社は真崎守が経営する建築会社の元請。

シン (城田(しろた)晨一(しんいち) (22):新宿歌舞伎町のドラッグ売人。両親はおらず、新宿区下落合のアパートで妹の智代と二人暮らし。2年前に亡くなった父親の死因は交通事故ということになっているが……。

城田智代 (15):シンの妹。成績優秀な中学3年生。温和な性格。料理の腕はプロ級。

岩清水 (18):亜樹夫のクラスメイト。草食系。かつてヤンキー連に恐喝されているところを亜樹夫に助けられたことがあり、それを恩に着て、亜樹夫をリスペクトしている。

磯谷 (18):亜樹夫のクラスメイト。100キロ超の巨漢。万引き癖あり。亜樹夫の美貌に嫉妬して反感をいだいている。

山田さとみ (18):亜樹夫のクラスメイト。亜樹夫に告白しようとしたのだが……。

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