045 放課後のアクシデント

文字数 1,806文字

 事件発生前。今となっては遠い昔のような気がする。

 退屈な高校での授業が終わると、俺はあくびを噛み殺しながら電車に乗って家に帰るのが常だった。愚かで幼稚な同級生たちは、男も女も二、三人ずつのグループを作って、小鳥の群のようにうるさくさえずりながら下校する。孤独を愛する俺は常に一人だ。群れるのは、弱い人間だけである。心の強い人間は、一人でもまったく不安はない。

 電車の中で、俺の耳に勝手にはいってくる彼らの会話の内容を、聞くとはなしに聞いていると実にくだらない。どこそこにいい女がいる。メシの旨い店を見つけた。昨夜見たテレビドラマはどうだった。テレビゲームのキャラがレベル28まで成長した。誰々くんと誰々さんが付き合っているらしい……。

 それが何だというんだ。わざわざ他人に報告するような内容か。俺は閉口して、一人で流れゆく窓外(そうがい)の景色を見ている。毎日同じ景色だが、同級生たちの低レベルな会話よりはマシだ。列車が下車駅に着いて彼らから解放されると、俺は安心する。

 よく晴れた穏やかな日で風が心地よかったりすると、俺はわざと自宅の最寄駅より一駅手前で下車することがある。途中にある酒屋の自販機でバドワイザーのロング缶を買うと、川沿いの高い土手道をぶらぶらたどりながら、一駅分、自宅までの3~4キロの道のりを歩く。

 知る人の少ない裏道なので、人影はまばらである。俺以外は誰もいないことも多い。対岸までは、70~80メートルはあるだろう。だだっ広い河川敷に灌木が生えて、微風に揺れている。水の流れは静かだ。人間のいない風景。人間の俗性こそが、自然を汚すのだ。ひとり自然の中にいると、心が洗われる。自宅は西の方向にあるので、ちょうど川むこうに沈む夕陽を追うように土手道を歩いていくことになる。一説によれば、夕陽の波長は人間の脳波とサイクルが一致しており、癒し効果があるという。

 バドワイザーのプルタブを開けると、俺は歩きながら喉を鳴らして飲みくだす。気分がいい。心が和む。孤独を堪能しながら、おだやかな時間がゆったりと過ぎゆくにまかせる。俺の高校は制服がなく私服通学だから、高校生がビールを飲んではならないなどと小言をいう者はいない。俺は風貌が大人びているから、私服だとまず高校生には見えないのだ。

 貴族趣味ともいえる、贅沢な回り道だ。俺の愚かな同級生たちは、とにかく一刻も早く目的地に到達しよう、家に帰ろうと、脇目もふらず道を急ぐが、そんなに急いで家に帰って何かいいことでもあるのか? 平凡な日常の続きが待ち構えているだけではないか。スケジュールに管理された人生などつまらない。回り道や寄り道にこそ、豊かな発見や人生の収穫が隠されているものなのだ。

 俺にとって、至福の時間。バドワイザー片手に夕焼けを眺めながら、暮れゆく土手道をのんびり歩いていく。



 だが時として、俺の幸福な時間を乱す者がいる。ウインド・ブレーカーを着込んでジョギングをしている若者などがいると、不快きわまりない。ママチャリにスーパーの買物を満載した主婦などが通りかかると最悪である。見苦しい服装に線の崩れた体を包み、よろよろと自転車をこぐ姿には目も当てられない。日常に埋没してトレーニングを怠るから、そんな体形になるのだ。

 醜悪な俗世間に連なる者たち。静かな調和を見せていた夕暮れの風景に、たちまち亀裂が生じる。人間こそが世界を汚すのだ。どうか俺の目の前に、ぶざまな姿を(さら)さないでほしい。俺の幸福な時間を台無しにしないでいただきたい。

 その日はさいわい、ジョガーにもママチャリ主婦にも出会うことなく、行程のなかばをすぎた。地元で〈一番橋〉と呼ばれているコンクリート製の橋付近まできた。願わくは、俺の幸福な時間を乱す者がこのまま誰も現れませんようにと念じていると、橋の下から数人の男たちが争う声が聞こえてくる。天は俺のささやかな願いを聞きとどけてはくれなかったようだ。醜い人間たちが勝手に争うのは構わないが、俺の目のとどく範囲内ではやめてほしい。

 見ると、一人の少年が三、四人に取り囲まれ、小突(こづ)かれている。俺は舌打ちして歩調を速めた。下郎たちがどういがみ合おうが、俺には関わりのない出来事だ。そのまま黙殺して立ち去るつもりだった。

 だが、彼らの顔が判別できる距離まで近づいたとき、俺は足を止めた。取り囲まれているのは、俺のクラスメイトの岩清水(いわしみず)だったのだ。
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登場人物紹介

真崎亜樹夫 (18):主人公。超イケメンのナルシスト高校三年生。きわめて皮肉屋。きわめて毒舌家。きわめて非社交的。社会に適応できず、友達が一人もいない。ハードボイルド小説、大藪春彦『野獣死すべし』と河野典生『殺意という名の家畜』を愛読しすぎたせいで中2病をこじらせ、いまだに治癒しない。変人。必要に応じて、アキラという変名を用いる。

真崎守 (52):亜樹夫の父。小さな建築会社を経営。頑固な昭和オヤジ。絶対に言い訳せず、絶対に愚痴を言わない。物事のけじめに異常にきびしく、人間の絆を大切にする。ゴリラのような、いかつい外見。息子の亜樹夫には性格のみ遺伝し、外見は遺伝しなかった (ため亜樹夫本人は安堵している)。

真崎優子 (44):亜樹夫の母。故事成句「顰に倣う (ひそみにならう)」の由来となった西施に匹敵する絶世の美女。心やさしく、小さな生命を大切にする。亜樹夫の外見は、この母から遺伝した (ため亜樹夫本人は感謝している)。

真崎樹理 (6):亜樹夫の妹。小学一年生。亜樹夫と仲がよい。快活な性格で小動物のように動作が俊敏なクラスの人気者。スナフキンとカンゴールの赤いランニングシューズがお気に入り。

石塚鉄兵 (40):真崎守が経営する建築会社の古参従業員。真崎守の右腕的存在。建築業界の裏も表も知り尽くしている。亜樹夫にとっては頼りになる兄貴分のような存在。気さくな好人物。妻との間に中3の息子がおり、高齢の両親とも同居している。

小島令子 (37):真崎守が経営する建築会社で事務を担当する従業員。シングルマザー。夫と離婚して、幼稚園に通う娘を一人で育てている。

権田総一郎 (61):アラゾニア総合建設社長。同社は真崎守が経営する建築会社の元請。

シン (城田(しろた)晨一(しんいち) (22):新宿歌舞伎町のドラッグ売人。両親はおらず、新宿区下落合のアパートで妹の智代と二人暮らし。2年前に亡くなった父親の死因は交通事故ということになっているが……。

城田智代 (15):シンの妹。成績優秀な中学3年生。温和な性格。料理の腕はプロ級。

岩清水 (18):亜樹夫のクラスメイト。草食系。かつてヤンキー連に恐喝されているところを亜樹夫に助けられたことがあり、それを恩に着て、亜樹夫をリスペクトしている。

磯谷 (18):亜樹夫のクラスメイト。100キロ超の巨漢。万引き癖あり。亜樹夫の美貌に嫉妬して反感をいだいている。

山田さとみ (18):亜樹夫のクラスメイト。亜樹夫に告白しようとしたのだが……。

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