064 名前の中の「樹」

文字数 1,395文字

 父はスポーツドリンクの500㎖ペットボトルを二本持っている。一本を俺に差し出す。俺は上体を起こした。体中の筋肉と関節が抗議の悲鳴をあげる。父親に気取られると悔しいから、表面はできるだけ平気な顔をしている。

 ペットボトルの栓をねじり取ると、口をつけて喇叭(らっぱ)飲みした。喉を鳴らしながら一気に500㎖を飲み干す。よく冷えていた。疲れきった体に、水分とミネラルが染みこんでいくのを実感した。ようやく一息つく。

「どうだ、疲れたか?」
「まだ、まだ」
「負け惜しみを言うな」

 父も俺の隣に腰をおろした。自分のペットボトルを傾けて、喉を鳴らす。しばらく黙って景色を見ていた。同じ時間の流れのなかに、父と俺はいた。父子で時間を共有する。久しぶりの感覚だ。気がつけば、いつのまにか、それぞれ別の道を歩んでいた。中学生といえば、すでにそれだけの歳だ。

「おまえの頭の上に樹があるな。どう思う?」

「どう思うって、べつに。樹さ」

「ふつうプラタナスって呼ばれているが、正式には『モミジバ・スズカケノキ』っていうんだ。葉に切れこみがあって、指を広げた手のひらみたいだろ。モミジに似ているな。だからモミジバっていうんだ。街路樹や公園樹でよく見かける、日本で一番ありふれた樹だ。これくらいの幹の太さだと、樹齢30年くらいだな」



 父は何を言おうとしているのだろうか。黙って俺は耳を傾けた。

「人間のおまえが暑さでくたばりかけているのに、この樹は涼しい顔をして平然としているな。大地にどっしり根を張って、悠然(ゆうぜん)と構えている。葉も蒼々として元気がいい。この樹は30年ここに生えていて、ずっとこうだったんだ。雨の日も、風の日も、嵐の日も、日照りの日も、ずっとここに立っていた。暑いとか、寒いとか、濡れたとか、乾いたとか、そんな弱音は一言も吐かない。風が吹けば、根を張ってじっと耐える。雨が降れば、頭から水をかぶって、やむのを待つ。

 おまえみたいに、暑さでくたばりかけた人間がくれば、陽射しを防ぐために木陰を貸してくれる。そして黙って人間を見おろしている。そうやって、この樹は30年もここに平然と生えているんだ。ありふれた樹でも、なまじの人間より、よっぽど立派なもんだな。俺が何を言いたいか、分かるか?」

「……」

「おまえの名前の中に『樹』があるだろ。亜樹夫の『樹』だよ。俺と母さんが、大樹のように物事に動じない人間になれという願いを込めて付けた名だ。いい名だろ。人生にも、雨の日もあれば風の日もある。だが、そんな試練にいちいち動じることなく、しっかりと根を張って堂々と生きる人間になれ。昨年、生まれた妹の樹理(じゅり)も、名前の中に『樹』があるな。同じ理由だよ」

 はじめて聞く名前の由来だった。きちんと理由があって付けられた名だということを知った。もともと〈亜樹夫〉という自分の名は気に入っていたのだが、なにかそれが急に重みを増したような感じだった。

 その日それまで、ずっと厳しい態度を崩さなかった父が、しみじみと優しい口調で語りだしたので、今度こそ、この正気とは思えない強行軍を(ゆる)されてタクシーで家まで帰れるのではないかと、また俺は甘い期待をいだいた。が、父も一徹な男だ。一度やると決めたことを途中で投げ出すわけがない。

「さ、行くか」

 立ちあがると、元の厳格な父に戻った。背中を見せて、歩きはじめる。筋肉痛に(うめ)きながら、あわてて俺も後を追うのだった。
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登場人物紹介

真崎亜樹夫 (18):主人公。超イケメンのナルシスト高校三年生。きわめて皮肉屋。きわめて毒舌家。きわめて非社交的。社会に適応できず、友達が一人もいない。ハードボイルド小説、大藪春彦『野獣死すべし』と河野典生『殺意という名の家畜』を愛読しすぎたせいで中2病をこじらせ、いまだに治癒しない。変人。必要に応じて、アキラという変名を用いる。

真崎守 (52):亜樹夫の父。小さな建築会社を経営。頑固な昭和オヤジ。絶対に言い訳せず、絶対に愚痴を言わない。物事のけじめに異常にきびしく、人間の絆を大切にする。ゴリラのような、いかつい外見。息子の亜樹夫には性格のみ遺伝し、外見は遺伝しなかった (ため亜樹夫本人は安堵している)。

真崎優子 (44):亜樹夫の母。故事成句「顰に倣う (ひそみにならう)」の由来となった西施に匹敵する絶世の美女。心やさしく、小さな生命を大切にする。亜樹夫の外見は、この母から遺伝した (ため亜樹夫本人は感謝している)。

真崎樹理 (6):亜樹夫の妹。小学一年生。亜樹夫と仲がよい。快活な性格で小動物のように動作が俊敏なクラスの人気者。スナフキンとカンゴールの赤いランニングシューズがお気に入り。

石塚鉄兵 (40):真崎守が経営する建築会社の古参従業員。真崎守の右腕的存在。建築業界の裏も表も知り尽くしている。亜樹夫にとっては頼りになる兄貴分のような存在。気さくな好人物。妻との間に中3の息子がおり、高齢の両親とも同居している。

小島令子 (37):真崎守が経営する建築会社で事務を担当する従業員。シングルマザー。夫と離婚して、幼稚園に通う娘を一人で育てている。

権田総一郎 (61):アラゾニア総合建設社長。同社は真崎守が経営する建築会社の元請。

シン (城田(しろた)晨一(しんいち) (22):新宿歌舞伎町のドラッグ売人。両親はおらず、新宿区下落合のアパートで妹の智代と二人暮らし。2年前に亡くなった父親の死因は交通事故ということになっているが……。

城田智代 (15):シンの妹。成績優秀な中学3年生。温和な性格。料理の腕はプロ級。

岩清水 (18):亜樹夫のクラスメイト。草食系。かつてヤンキー連に恐喝されているところを亜樹夫に助けられたことがあり、それを恩に着て、亜樹夫をリスペクトしている。

磯谷 (18):亜樹夫のクラスメイト。100キロ超の巨漢。万引き癖あり。亜樹夫の美貌に嫉妬して反感をいだいている。

山田さとみ (18):亜樹夫のクラスメイト。亜樹夫に告白しようとしたのだが……。

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