067 不景気、倒産、家庭崩壊

文字数 2,050文字

 シンは「自殺」という言葉を口にするとき、一瞬ためらい、ようやくその言葉を口にしたときも、喉の奥に引っかかるような不器用な喋り方をした。長いあいだ心の中でわだかまっていたことを、やっと決意して、苦労しながら外に吐きだした。そんな感じだ。衝撃的な告白は続く。

「最初に言ったけど、俺の母親はもともと体が弱く、妹の智代(ともよ)を生んですぐに死んだ。これは本当だよ。それからずっと、親父が男手ひとつで俺と智代を育ててくれた。

 親父の職業は料理人で、小さなレストランを経営していた。俺が子供のころはそれなりに繁盛していて、裕福というほどではなかったけれども、家族三人でつつましく暮らしていくぶんには申し分なかった。

 智代は小学生のときから、もう親父のレストランの調理場に入って、親父を手伝っていた。あいつの料理の腕が一流なのは、そういう事情があるんだ。俺はからきしセンスがなくて、料理ダメだけど。だから引越屋やってんだけど。でも智代の料理のセンスは親父も認めていた。

 あのころが一番楽しかったな。親父の仕事がうまくいっていて、家族三人全員そろっていて、贅沢(ぜいたく)ができるというほどではなかったけれども、みんなで笑いながら楽しく暮らしていた。それで十分だったんだ」

 シンは遠くのほうを見つめるような眼差(まなざ)しをしている。

「ところが……バブル崩壊後、この不景気がやってきた。レストランの売上が目減りしはじめた。毎月毎月、前月の売上を割るということが、本当にもう何か月も、十何か月もつづいた。

 親父はつらそうな顔をしていることが多くなったよ。なんとか経営を立て直そう、売上を伸ばそうといろいろ手をつくした。店の看板を変えたり、メニューを工夫したり、近所に一軒一軒チラシを配って回ったり……。俺や智代も手伝ってね。

 でも、効果はほとんどなかった。店の売上は減るばかりだ。親父はますます顔色がすぐれなくなって、家で酒を飲んでいることが多くなった。以前は自分から進んで店の調理場にこもって、味付けを工夫したり、新しい調理法を考えたりと仕事熱心だった親父が、やる気を失ってしまった。はたで見ていても、これは悲しかった。それでも、しばらくは親父のレストランは持ちこたえていた。

 ところが、ある日、決定的な出来事が起こった。親父の長年の友人で、電子部品を組み立てる町工場を経営している人がいた。電光掲示板のランプや、携帯電話のアンテナなんかを製作していた。不景気だから、もちろんその町工場の経営も火の車だったということだ。この時世では、どこも同じだね。

 親父はその人の連帯保証人になっていた。逆にむこうは、親父のレストランの連帯保証人になってくれていた。中小零細企業の経営者はみんなそうさ。おたがいに保証人を引き受けあって、助けあっているのさ。そうじゃなきゃ、小さいところは、とてもやっていけないよ」

 シンの話には、俺も実感がもてた。俺の父も小さな工務店を経営していたのだ。中小零細企業の経営がどれほど大変かということは、父の仕事を見て俺もよく知っている。

「ところが、その友人の町工場というのは、親父のレストランよりも、もっと状態がひどかった。どんどん経営が苦しくなっていって、最後には手形の決済ができなくなって、とうとう倒産してしまった。しかもその友人は、借金をぜんぶ残したまま夜逃げしてしまったんだ。

 大変なことになったのは親父だ。連帯保証人を引き受けていたんだからね。とにかく連帯保証人の書類にハンコをついたら、たとえ自分の作った借金じゃなくても、全額返済する義務を負う。それが保証人制度ってものなんだ。法律上そうなっているんだ。

 消費者金融やローンの借金取りが、大挙してうちに押しかけたよ。債鬼(さいき)って言葉があるけど、まさにそのとおりだっね。毎日のように激しい調子で電話や督促(とくそく)があって、親父はノイローゼになってしまった。かろうじて持ちこたえていた親父のレストランやローンで買った自宅もぜんぶ差押えられて、競売にかけられて人手に渡ってしまった」

 悲惨な話だ。バブル崩壊後の日本ではよくある不幸の連鎖だ。他人事ではない。胸が痛む。

「親父と智代と俺の家族三人は、小さなアパートを借りて、隠れるようにひっそりと移り住んだ。親父は信頼していた友人に裏切られた、借金をぜんぶ俺に押しつけて一言の相談もなく逃げてしまったと、たいへんな落胆ぶりだった。げっそりやつれて、仕事なんて、ぜんぜんしなくなってしまった。アパートにこもって、朝から晩まで酒を飲んでいるだけさ。

 当時は智代はまだ小学生だった。学費や生活費が必要なのに、親父はまったく働こうとしない。俺は高校三年生だったけれど、卒業したらすぐに引越屋に就職して働きはじめた。俺が家計を支えなければならなかったんだ。大学進学なんて許される状況じゃなかったし、ぜんぜん考えなかったね。必死で働いたよ」

 シンはいま22歳だから、四年前の話か。彼の父親は二年前に死んだというが、それまでの二年間に何があったのか。
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登場人物紹介

真崎亜樹夫 (18):主人公。超イケメンのナルシスト高校三年生。きわめて皮肉屋。きわめて毒舌家。きわめて非社交的。社会に適応できず、友達が一人もいない。ハードボイルド小説、大藪春彦『野獣死すべし』と河野典生『殺意という名の家畜』を愛読しすぎたせいで中2病をこじらせ、いまだに治癒しない。変人。必要に応じて、アキラという変名を用いる。

真崎守 (52):亜樹夫の父。小さな建築会社を経営。頑固な昭和オヤジ。絶対に言い訳せず、絶対に愚痴を言わない。物事のけじめに異常にきびしく、人間の絆を大切にする。ゴリラのような、いかつい外見。息子の亜樹夫には性格のみ遺伝し、外見は遺伝しなかった (ため亜樹夫本人は安堵している)。

真崎優子 (44):亜樹夫の母。故事成句「顰に倣う (ひそみにならう)」の由来となった西施に匹敵する絶世の美女。心やさしく、小さな生命を大切にする。亜樹夫の外見は、この母から遺伝した (ため亜樹夫本人は感謝している)。

真崎樹理 (6):亜樹夫の妹。小学一年生。亜樹夫と仲がよい。快活な性格で小動物のように動作が俊敏なクラスの人気者。スナフキンとカンゴールの赤いランニングシューズがお気に入り。

石塚鉄兵 (40):真崎守が経営する建築会社の古参従業員。真崎守の右腕的存在。建築業界の裏も表も知り尽くしている。亜樹夫にとっては頼りになる兄貴分のような存在。気さくな好人物。妻との間に中3の息子がおり、高齢の両親とも同居している。

小島令子 (37):真崎守が経営する建築会社で事務を担当する従業員。シングルマザー。夫と離婚して、幼稚園に通う娘を一人で育てている。

権田総一郎 (61):アラゾニア総合建設社長。同社は真崎守が経営する建築会社の元請。

シン (城田(しろた)晨一(しんいち) (22):新宿歌舞伎町のドラッグ売人。両親はおらず、新宿区下落合のアパートで妹の智代と二人暮らし。2年前に亡くなった父親の死因は交通事故ということになっているが……。

城田智代 (15):シンの妹。成績優秀な中学3年生。温和な性格。料理の腕はプロ級。

岩清水 (18):亜樹夫のクラスメイト。草食系。かつてヤンキー連に恐喝されているところを亜樹夫に助けられたことがあり、それを恩に着て、亜樹夫をリスペクトしている。

磯谷 (18):亜樹夫のクラスメイト。100キロ超の巨漢。万引き癖あり。亜樹夫の美貌に嫉妬して反感をいだいている。

山田さとみ (18):亜樹夫のクラスメイト。亜樹夫に告白しようとしたのだが……。

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