010 俺は父の両眼を潰した

文字数 1,529文字

 新宿バッティングセンターのブースで黙々とバットを振りながら、俺は、十年以上前の父とのこのやり取りを懐かしく思い出していた。今は10月下旬とはいえ、日中の陽射しはまだ力を失っていない。俺の体はうっすら汗ばんでいた。毛穴が開き、吹き出した汗が、体内に(よど)んでいた気負いを洗い流す。気分がすがすがしい。頭はきわめて冷静だ。考えをまとめるには、やはりバットを振るのが一番だ。

 俺はその状態で、もう一度、計画に一から検討をくわえた。盲点はないか、無理はないか……。

 完璧だった。計画に穴はない。頭の中で考えながらも、俺の体はきわめて正確にボールに反応していた。振り抜いたバットがボールの芯を捉える、したたかな手応えを感じた。打球は宙天めがけて一直線に飛び、「ホームラン」の電光ボードに命中した。ファンファーレが鳴って、ネオンが明滅する。

 俺は満足すると、バッティングブースから出た。麻雀や格闘、シューティングなど各種テレビゲームが置かれたゲームコーナーの横を通り、店内奥のトイレに入った。壁面が黒タイルで覆われている。洗面台に向かい、蛇口を勢いよくひねる。飛沫をあげながら顔を洗う。冷たい水が心地よい。汗を洗い流すと、リュックからタオルを出して顔を拭く。

 洗面台右に、鏡が設置されていた。鏡に映った自分の顔を見る。拭き残した水滴が、白く肌理(きめ)の細かい肌の上で(たま)となって輝いている。ナチュラルにレイヤーカットした髪が、柔らかい優美な曲線をえがいて額や耳、首筋にかかっている。高く秀でた鼻梁には気品があり、固く結ばれた薄い唇には濡れたような艶がある。切れ長の目には涼しい色香が漂い、頬から顎にかけてのシャープなラインが全体的な印象を引き締め、精悍にしている。貴族的な香気さえ漂い、だいぶ大人びた印象だ。知らない人間が見たら、まず18歳の高校三年生には見えないだろう。

 俺はバットの素振りだけでなく、日頃からベンチプレスやスクワットで筋力トレーニングにも励んでいた。

 バッティングは全身運動なのだ。重いバットを意のままに振り抜くには、相当な筋力を必要とする。大地に足を踏んばって腰を回転させる際には、下半身の大腿二頭筋と半腱様筋を使うし、バットを振り抜く際には大胸筋、上腕二頭筋など上半身のあらゆる筋肉を総動員する。一流のプロ野球選手は例外なく、みな筋力の発達したすばらしい肉体の持ち主ではないか。俺は身長が186センチあるが、鏡に映った上半身を見てみると、大胸筋や僧帽筋が発達して服の上から見ても胸や肩がたくましく盛りあがり、逆三角形のみごとなシルエットを描いているのがわかる。

 人間の肉体というのは、神がこの世に創造した最も美しい芸術品である。ただし、研磨する前のダイアモンド原石がただの石塊(いしくれ)と見分けがつかないのと同じように、人間の肉体もその輝きを十全に発揮するためには、日頃からの血の(にじ)むようなトレーニングと節制が必要なのだ。

 俺は鏡に笑いかけた。鏡の中の俺が自信に満ちた不敵な笑顔を返す。大丈夫だ。おまえはきっとやり遂げるさ。おまえにはやり遂げられる能力と意志がある。安心しろ。
 俺は満足し、新宿バッティング・センターを後にした。

 小学生のとき父に買ってもらった金属バットは、現在まで大切に使ってきた。俺の宝物だ。日本の武士が刀を単なる人斬りの道具とは見なさず、形而上学的(けいじじょうがくてき)な意味をこめていたのと同じように、俺にとってその金属バットは特別な存在だった。単にボールを打つ道具ではなく、俺と父との絆を象徴していた。

 そして俺はその金属バットで、父を撲殺した。しかも両眼を(つぶ)したあとで、だ。



✽平成16年10月30日(木) 亜樹夫の足取り
①西新宿探偵社
②新宿バッティングセンター
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登場人物紹介

真崎亜樹夫 (18):主人公。超イケメンのナルシスト高校三年生。きわめて皮肉屋。きわめて毒舌家。きわめて非社交的。社会に適応できず、友達が一人もいない。ハードボイルド小説、大藪春彦『野獣死すべし』と河野典生『殺意という名の家畜』を愛読しすぎたせいで中2病をこじらせ、いまだに治癒しない。変人。必要に応じて、アキラという変名を用いる。

真崎守 (52):亜樹夫の父。小さな建築会社を経営。頑固な昭和オヤジ。絶対に言い訳せず、絶対に愚痴を言わない。物事のけじめに異常にきびしく、人間の絆を大切にする。ゴリラのような、いかつい外見。息子の亜樹夫には性格のみ遺伝し、外見は遺伝しなかった (ため亜樹夫本人は安堵している)。

真崎優子 (44):亜樹夫の母。故事成句「顰に倣う (ひそみにならう)」の由来となった西施に匹敵する絶世の美女。心やさしく、小さな生命を大切にする。亜樹夫の外見は、この母から遺伝した (ため亜樹夫本人は感謝している)。

真崎樹理 (6):亜樹夫の妹。小学一年生。亜樹夫と仲がよい。快活な性格で小動物のように動作が俊敏なクラスの人気者。スナフキンとカンゴールの赤いランニングシューズがお気に入り。

石塚鉄兵 (40):真崎守が経営する建築会社の古参従業員。真崎守の右腕的存在。建築業界の裏も表も知り尽くしている。亜樹夫にとっては頼りになる兄貴分のような存在。気さくな好人物。妻との間に中3の息子がおり、高齢の両親とも同居している。

小島令子 (37):真崎守が経営する建築会社で事務を担当する従業員。シングルマザー。夫と離婚して、幼稚園に通う娘を一人で育てている。

権田総一郎 (61):アラゾニア総合建設社長。同社は真崎守が経営する建築会社の元請。

シン (城田(しろた)晨一(しんいち) (22):新宿歌舞伎町のドラッグ売人。両親はおらず、新宿区下落合のアパートで妹の智代と二人暮らし。2年前に亡くなった父親の死因は交通事故ということになっているが……。

城田智代 (15):シンの妹。成績優秀な中学3年生。温和な性格。料理の腕はプロ級。

岩清水 (18):亜樹夫のクラスメイト。草食系。かつてヤンキー連に恐喝されているところを亜樹夫に助けられたことがあり、それを恩に着て、亜樹夫をリスペクトしている。

磯谷 (18):亜樹夫のクラスメイト。100キロ超の巨漢。万引き癖あり。亜樹夫の美貌に嫉妬して反感をいだいている。

山田さとみ (18):亜樹夫のクラスメイト。亜樹夫に告白しようとしたのだが……。

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