056 ギリシア神話──悲劇・父親殺しの『オイディプス』

文字数 1,886文字

「心理学者フロイトの精神分析用語に『エディプス・コンプレックス』というのがありますが、その語源となったのがギリシア神話『オイディプス』です。本来は王子でありながら、(ゆえ)あって父王から引き離されて育てられたオイディプスは、自らの素性を知らぬまま成人する。その後、残酷な運命に導かれ、それと知らずに父王を殺し、それと知らずに生母と結婚して、二男二女をもうける」

「ちょっと待ってください!? そうすると、その二男二女というのは!?

「そう。近親相姦(きんしんそうかん)です。生まれた子たちは、息子・娘であると同時に、弟・妹でもある。後に真相を知ったオイディプスは、父親殺しと生母との姦淫(かんいん)という二重の罪を恥じ、自らを罰するため、自分で自分の両眼を(つぶ)します。真実を見抜くことができなかった眼など潰れてしまえばよいと。そして盲目の身で、死ぬまで世界を放浪します」

「救いがたい悲劇としか言いようがありませんね……」

「このオイディプスが父親を殺したときの手段には諸説あるんですが、一番広く世界に流布している説が、打撃による殺傷です」

「なるほど。今回の事件の容疑者の少年も父親を鈍器で撲殺しています。つまり、打撃による殺傷。たしかに奇妙な符合ですね。でも、ちょっと待ってください。もう一つのキーワードである『両眼潰し』ですが、これは状況が異なりますね」

「そのとおりです。『オイディプス』のほうでは、加害者が自責の念から自分の眼を潰している。ところが今回の事件では、被害者である父親のほうが眼を潰されている。立場が逆転しています。いわば『反オイディプス』ですね」

「これは何を意味しているのでしょうか?」

「もし仮に容疑者の少年が『オイディプス』を知っていて、これを踏まえたうえで、あえて今回の振る舞いにおよんだというのであれば、由々(ゆゆ)しき事態です」

「というと?」

「自分はオイディプスのように反省はしない、あくまでも罰を受けるべきは父親である、これは父親に対する制裁である、という社会への挑戦ともとれるメッセージを読み取ることができます。父親へのすさまじい害意を感じます」

「確かに。母と妹は単なる絞殺ですから、それと比べても、父親に対する害意は際立っていますね。いったい何が少年をここまで追いつめてしまったのか? 家庭の中で何があったのか……?」

 俺は開いた口が(ふさ)がらなかった。何を言っているのだ? こいつらは? 俺が父親に制裁を加えただと!? 社会への挑戦だと!? 父親に害意を抱いただと!? そんなことがあるわけないではないか。

 確実なデータが手元にないとき、単なる推論に基づいて議論を進めると、どんどん真実から乖離(かいり)してしまう。推論に基づく、さらなる推論。その行きつく先は、見当はずれの珍説奇論(ちんせつきろん)

 俺が父親の両眼を潰したのは、

から、そうしたまでだ。もちろん古典の定番としてオイディプスは知っているが、そんなものは関係ない。勝手な妄想はやめてもらいたい。

 キャスターが大学教授氏に訊いた。

「『オイディプス』に話を戻します。そもそもオイディプスは、なぜ父親を殺してしまったのですか?」

「成人したオイディプスは自らのアイデンティティに疑念を抱き、真相を求めて旅に出ます。テバイの町に向かう山中の隘路(あいろ)三叉路(さんさろ)で、彼は反対の方向からやって来た戦闘用馬車に出会います。戦闘用馬車には護衛の兵士たちに守られた威厳ある老人が乗っており、オイディプスに向って道を譲るように高圧的に命令します。オイディプスがこれに反抗すると、老人が攻撃してきたため、オイディプスは反撃します。最終的には気力・体力ともにまさったオイディプスが勝利し、護衛もろとも老人を殺害します。じつはこの老人こそが、生き別れになっていたオイディプスの実父テバイ王ライオスだったのです」

「その時点では、オイディプスはそれを知らないわけですね?」

「そうです。彼が真相を知るのは何年も後のことです」

「実父を殺してしまったことを知った時のオイディプスの衝撃は、すさまじいものがあったと思われます」

「もちろん。しかも、そのとき彼は同時に、実母と結ばれて子をもうけていた事実まで知ってしまいます。これはもう、人間が耐えられるレベルの苦悩ではない」

「だから両眼を潰して自らを罰した……」

 キャスターは、このギリシア悲劇が有する、あまりの内容の重さにしばし言葉を失っていたが、気を取り直したように言葉を継いだ。

「大学教授という先生のお立場から『オイディプス』を学術的に分析すると、どういうことになりますか?」



 (画像はイメージです。)
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登場人物紹介

真崎亜樹夫 (18):主人公。超イケメンのナルシスト高校三年生。きわめて皮肉屋。きわめて毒舌家。きわめて非社交的。社会に適応できず、友達が一人もいない。ハードボイルド小説、大藪春彦『野獣死すべし』と河野典生『殺意という名の家畜』を愛読しすぎたせいで中2病をこじらせ、いまだに治癒しない。変人。必要に応じて、アキラという変名を用いる。

真崎守 (52):亜樹夫の父。小さな建築会社を経営。頑固な昭和オヤジ。絶対に言い訳せず、絶対に愚痴を言わない。物事のけじめに異常にきびしく、人間の絆を大切にする。ゴリラのような、いかつい外見。息子の亜樹夫には性格のみ遺伝し、外見は遺伝しなかった (ため亜樹夫本人は安堵している)。

真崎優子 (44):亜樹夫の母。故事成句「顰に倣う (ひそみにならう)」の由来となった西施に匹敵する絶世の美女。心やさしく、小さな生命を大切にする。亜樹夫の外見は、この母から遺伝した (ため亜樹夫本人は感謝している)。

真崎樹理 (6):亜樹夫の妹。小学一年生。亜樹夫と仲がよい。快活な性格で小動物のように動作が俊敏なクラスの人気者。スナフキンとカンゴールの赤いランニングシューズがお気に入り。

石塚鉄兵 (40):真崎守が経営する建築会社の古参従業員。真崎守の右腕的存在。建築業界の裏も表も知り尽くしている。亜樹夫にとっては頼りになる兄貴分のような存在。気さくな好人物。妻との間に中3の息子がおり、高齢の両親とも同居している。

小島令子 (37):真崎守が経営する建築会社で事務を担当する従業員。シングルマザー。夫と離婚して、幼稚園に通う娘を一人で育てている。

権田総一郎 (61):アラゾニア総合建設社長。同社は真崎守が経営する建築会社の元請。

シン (城田(しろた)晨一(しんいち) (22):新宿歌舞伎町のドラッグ売人。両親はおらず、新宿区下落合のアパートで妹の智代と二人暮らし。2年前に亡くなった父親の死因は交通事故ということになっているが……。

城田智代 (15):シンの妹。成績優秀な中学3年生。温和な性格。料理の腕はプロ級。

岩清水 (18):亜樹夫のクラスメイト。草食系。かつてヤンキー連に恐喝されているところを亜樹夫に助けられたことがあり、それを恩に着て、亜樹夫をリスペクトしている。

磯谷 (18):亜樹夫のクラスメイト。100キロ超の巨漢。万引き癖あり。亜樹夫の美貌に嫉妬して反感をいだいている。

山田さとみ (18):亜樹夫のクラスメイト。亜樹夫に告白しようとしたのだが……。

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