013 小さな生命を野に放つ

文字数 1,182文字

 飼育ケースの中が明るい。白いものがひらひら動いて、朝日を浴びて輝いている。木と土とサナギだけで、明るい色のものは入っていなかったはずだが……。

 モンシロチョウだった。サナギが脱皮して、モンシロチョウに生まれ変わったのだ。俺はわれを忘れて見入った。緑色の毛糸屑のようだった青虫が、そして死んだように固く褐色に乾燥していたサナギが、こんな美しい白いチョウに生まれ変わるとは……。生命の神秘というものは、すばらしい。青虫を叩き潰そうとした俺を諫めた母に心の中で感謝した。さっそく飼育ケースを持って見せにいった。

「あら、綺麗なチョウになったわね」
 しばらく目を輝かせてモンシロチョウを見守っていた母だったが、やがて俺の目を正面から覗きこむようにして訊いた。
亜樹夫(あきお)ちゃん、このチョウ、これからどうするつもり?」
「もちろん育てるよ」
 当然だった。青虫からずっと育てて、成長を見守ったのだ。愛着がある。

 だが母は、そんな俺に対して意外なことを言った。「逃がしてあげなさい」と言ったのだ。
 俺はムキになって反論した。
「いやだよ! 今までずっと大切に育てたんだ。これからも、ずっと一緒なんだ!」

 そんな俺を、母は決して語調を荒げることなく、優しく諭した。
「チョウさんの羽は、大空を自由に飛ぶためにあるのよ。もう青虫じゃないのよ。そんなに小さなケースの中に押し込めておいたら可哀相じゃないの。チョウさんは今年の春だけ、あと数週間しか生きられないの。せめてそのあいだ、花から花へと好きなように飛び回らせてあげましょう……」

 母の言葉には説得力があった。それが母のやり方だった。無理強いは決してしない。こちらが納得するまで、辛抱強く言葉による説得をつづける。俺が心を開くのを待つ。時間をかけて。
 最後には、俺は唇を噛んで同意していたのだった。

 よく晴れた春の一日、虫カゴを持った俺は、母とともに近所の野原に出かけた。やわらかい陽射しのもと、若草が風になびいていた。俺は長い時間、飼育ケースの中のモンシロチョウを眺めていた。

「さようなら……。別れるのはつらいけど、きみは広い空のしたで自由に飛び回って生きていくのが一番なんだね。エサをくれる人間がいなくなっても、元気でやっていくんだよ。仲間を見つけて楽しくやっていくんだよ」

 俺は別れを告げると、飼育ケースの蓋を開いた。モンシロチョウは陽射しを浴びながら、ひらひら翔び去っていった。俺と母はいつまでも見送っていた……。

 どんな小さな虫にも生命の輝きはあるのだ。俺に教えてくれた母さん。命の貴さを俺に示してくれた母さん。その母はもういない。あの春の日の思い出は、俺の心の中の永遠の宝だ。母さん、どうか安らかに眠ってください……。

 俺は父の横に母の遺体を安置すると、ふたたび二階にとって返した。
 こんどは俺の部屋の隣、妹・樹理(じゅり)の部屋に入る。





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登場人物紹介

真崎亜樹夫 (18):主人公。超イケメンのナルシスト高校三年生。きわめて皮肉屋。きわめて毒舌家。きわめて非社交的。社会に適応できず、友達が一人もいない。ハードボイルド小説、大藪春彦『野獣死すべし』と河野典生『殺意という名の家畜』を愛読しすぎたせいで中2病をこじらせ、いまだに治癒しない。変人。必要に応じて、アキラという変名を用いる。

真崎守 (52):亜樹夫の父。小さな建築会社を経営。頑固な昭和オヤジ。絶対に言い訳せず、絶対に愚痴を言わない。物事のけじめに異常にきびしく、人間の絆を大切にする。ゴリラのような、いかつい外見。息子の亜樹夫には性格のみ遺伝し、外見は遺伝しなかった (ため亜樹夫本人は安堵している)。

真崎優子 (44):亜樹夫の母。故事成句「顰に倣う (ひそみにならう)」の由来となった西施に匹敵する絶世の美女。心やさしく、小さな生命を大切にする。亜樹夫の外見は、この母から遺伝した (ため亜樹夫本人は感謝している)。

真崎樹理 (6):亜樹夫の妹。小学一年生。亜樹夫と仲がよい。快活な性格で小動物のように動作が俊敏なクラスの人気者。スナフキンとカンゴールの赤いランニングシューズがお気に入り。

石塚鉄兵 (40):真崎守が経営する建築会社の古参従業員。真崎守の右腕的存在。建築業界の裏も表も知り尽くしている。亜樹夫にとっては頼りになる兄貴分のような存在。気さくな好人物。妻との間に中3の息子がおり、高齢の両親とも同居している。

小島令子 (37):真崎守が経営する建築会社で事務を担当する従業員。シングルマザー。夫と離婚して、幼稚園に通う娘を一人で育てている。

権田総一郎 (61):アラゾニア総合建設社長。同社は真崎守が経営する建築会社の元請。

シン (城田(しろた)晨一(しんいち) (22):新宿歌舞伎町のドラッグ売人。両親はおらず、新宿区下落合のアパートで妹の智代と二人暮らし。2年前に亡くなった父親の死因は交通事故ということになっているが……。

城田智代 (15):シンの妹。成績優秀な中学3年生。温和な性格。料理の腕はプロ級。

岩清水 (18):亜樹夫のクラスメイト。草食系。かつてヤンキー連に恐喝されているところを亜樹夫に助けられたことがあり、それを恩に着て、亜樹夫をリスペクトしている。

磯谷 (18):亜樹夫のクラスメイト。100キロ超の巨漢。万引き癖あり。亜樹夫の美貌に嫉妬して反感をいだいている。

山田さとみ (18):亜樹夫のクラスメイト。亜樹夫に告白しようとしたのだが……。

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