038 誰もが心に傷を抱え懸命に生きている

文字数 1,504文字

 22歳のシンはまだ表情に少年のような面影をとどめていたが、その表情の中から、一瞬、苦悩する大人の顔がのぞく。一語一語噛みしめるように話した。
「事故で……そう、交通事故で亡くなった」
 智代がシンを見た。ともに苦悩するような、それでいて(いたわ)るような哀しい眼差しをしている。

「悪いことを訊きました」
「いいんだ」
 シンは親代わりになって、妹を育てていたのだ。歌舞伎町でのドラッグ密売は、そのための生活費と教育費を捻出するための手段だろう。

 俺は今までシンのことを白い目で見ていた自分を恥じた。人にはそれぞれ彼らだけの事情があり、人知れず苦労と格闘しているのだ。目に見える部分だけで判断してはならない。

「何か飲みます?」
 気まずくなった空気をとりなすように、智代が訊いた。
「冷蔵庫にビールがあっただろう。あれを飲もう」
 シンが言う。
「何か食べるものがあったほうがいいわね」
「そうだな。寿司の出前でも取るか。あ、この時間じゃ、やってないか。コンビニ行って弁当でも買ってくるか」
「それじゃあ、アキラさんに失礼よ。あたし、キッチンでちょっと作ってくる。下ごしらえしておいたジャガイモがあるから、ピューレでも作ろうかしら」
「どうぞ、お構いなく」
 俺は遠慮した。
「でも、兄がお世話になったそうですから。兄の恩人は、あたしにとっても恩人です。作ります。とりあえずビールだけでも持ってきます」

 智代はキッチンに姿を消した。キッチンの食器類はきれいに洗われて、カップボードに収められている。整頓がゆきとどいているようだ。

「しっかりした妹さんですね」
「そうだろ。俺とは大ちがいなんだ」
「中学三年ということは、高校受験を控えているんじゃないですか?」
「そうだよ。受験生だよ。あいつは俺とちがって頭の出来がいいから、必ずいい高校に行かせるんだ」
 シンは名門として知られる私立の女子高の名を挙げた。

「親がいないから満足に教育も受けさせられなかったなんてことになったら、俺の恥だからな。俺は高卒だけど、妹は高校だけじゃなくて、大学まで行かせる。そのためにも俺がしっかり稼がないと……」
 シンがまた大人の表情になって言う。

「受験生の妹さんに、料理なんか作ってもらったら悪いですよ。気を(つか)わないでください」
「あいつ、一度言い出したら、絶対聞かないから……」

 智代がトレーにビールの大瓶とグラス二個を載せて戻ってきた。ビール瓶はよく冷えて、水滴が浮いている。友代が栓を抜いて、まず俺に、それからシンに注いだ。

「智代ちゃん、受験生なんでしょ。俺のことはいいから、勉強しててよ」

 智代は笑っているだけで答えない。すぐにキッチンに戻る。シンが、ほらね、という顔で俺を見る。妹が自慢でしようがないのだ。キッチンから調理の音が聞こえはじめた。

「ま、とりあえず、乾杯!」
 シンがグラスを合わせてきた。俺も応ずる。一気に飲み干した。壮快な刺激がのどに心地よい。俺は未成年だが、ビールなどアルコールのうちに入らない。ふだんから飲み慣れていた。すぐにシンが注ぎ足してくれる。

「いい飲みっぷりだね。しかし、こうして明るいところであらためて見ると、アキラ、いい男だね。色が白くて、肌がきれいで、目鼻立ちも整ってるし。体も筋肉がついて、肩幅が広くて、たくましいし。鍛えてんの? ああ、そうだ、中国拳法やっているんだったね」

 俺が歌舞伎町でスタンガンを使って新宿署の刑事を気絶させたとき、中国拳法の技を使ったと言ってシンをごまかしたのだった。

「そういえば俺を捕まえようとしたあの刑事、どうなったのかな? ニュースでやっているかな?」
 シンがリモコンでテレビのスイッチを入れた。
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登場人物紹介

真崎亜樹夫 (18):主人公。超イケメンのナルシスト高校三年生。きわめて皮肉屋。きわめて毒舌家。きわめて非社交的。社会に適応できず、友達が一人もいない。ハードボイルド小説、大藪春彦『野獣死すべし』と河野典生『殺意という名の家畜』を愛読しすぎたせいで中2病をこじらせ、いまだに治癒しない。変人。必要に応じて、アキラという変名を用いる。

真崎守 (52):亜樹夫の父。小さな建築会社を経営。頑固な昭和オヤジ。絶対に言い訳せず、絶対に愚痴を言わない。物事のけじめに異常にきびしく、人間の絆を大切にする。ゴリラのような、いかつい外見。息子の亜樹夫には性格のみ遺伝し、外見は遺伝しなかった (ため亜樹夫本人は安堵している)。

真崎優子 (44):亜樹夫の母。故事成句「顰に倣う (ひそみにならう)」の由来となった西施に匹敵する絶世の美女。心やさしく、小さな生命を大切にする。亜樹夫の外見は、この母から遺伝した (ため亜樹夫本人は感謝している)。

真崎樹理 (6):亜樹夫の妹。小学一年生。亜樹夫と仲がよい。快活な性格で小動物のように動作が俊敏なクラスの人気者。スナフキンとカンゴールの赤いランニングシューズがお気に入り。

石塚鉄兵 (40):真崎守が経営する建築会社の古参従業員。真崎守の右腕的存在。建築業界の裏も表も知り尽くしている。亜樹夫にとっては頼りになる兄貴分のような存在。気さくな好人物。妻との間に中3の息子がおり、高齢の両親とも同居している。

小島令子 (37):真崎守が経営する建築会社で事務を担当する従業員。シングルマザー。夫と離婚して、幼稚園に通う娘を一人で育てている。

権田総一郎 (61):アラゾニア総合建設社長。同社は真崎守が経営する建築会社の元請。

シン (城田(しろた)晨一(しんいち) (22):新宿歌舞伎町のドラッグ売人。両親はおらず、新宿区下落合のアパートで妹の智代と二人暮らし。2年前に亡くなった父親の死因は交通事故ということになっているが……。

城田智代 (15):シンの妹。成績優秀な中学3年生。温和な性格。料理の腕はプロ級。

岩清水 (18):亜樹夫のクラスメイト。草食系。かつてヤンキー連に恐喝されているところを亜樹夫に助けられたことがあり、それを恩に着て、亜樹夫をリスペクトしている。

磯谷 (18):亜樹夫のクラスメイト。100キロ超の巨漢。万引き癖あり。亜樹夫の美貌に嫉妬して反感をいだいている。

山田さとみ (18):亜樹夫のクラスメイト。亜樹夫に告白しようとしたのだが……。

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