038 誰もが心に傷を抱え懸命に生きている
文字数 1,504文字
「事故で……そう、交通事故で亡くなった」
智代がシンを見た。ともに苦悩するような、それでいて
「悪いことを訊きました」
「いいんだ」
シンは親代わりになって、妹を育てていたのだ。歌舞伎町でのドラッグ密売は、そのための生活費と教育費を捻出するための手段だろう。
俺は今までシンのことを白い目で見ていた自分を恥じた。人にはそれぞれ彼らだけの事情があり、人知れず苦労と格闘しているのだ。目に見える部分だけで判断してはならない。
「何か飲みます?」
気まずくなった空気をとりなすように、智代が訊いた。
「冷蔵庫にビールがあっただろう。あれを飲もう」
シンが言う。
「何か食べるものがあったほうがいいわね」
「そうだな。寿司の出前でも取るか。あ、この時間じゃ、やってないか。コンビニ行って弁当でも買ってくるか」
「それじゃあ、アキラさんに失礼よ。あたし、キッチンでちょっと作ってくる。下ごしらえしておいたジャガイモがあるから、ピューレでも作ろうかしら」
「どうぞ、お構いなく」
俺は遠慮した。
「でも、兄がお世話になったそうですから。兄の恩人は、あたしにとっても恩人です。作ります。とりあえずビールだけでも持ってきます」
智代はキッチンに姿を消した。キッチンの食器類はきれいに洗われて、カップボードに収められている。整頓がゆきとどいているようだ。
「しっかりした妹さんですね」
「そうだろ。俺とは大ちがいなんだ」
「中学三年ということは、高校受験を控えているんじゃないですか?」
「そうだよ。受験生だよ。あいつは俺とちがって頭の出来がいいから、必ずいい高校に行かせるんだ」
シンは名門として知られる私立の女子高の名を挙げた。
「親がいないから満足に教育も受けさせられなかったなんてことになったら、俺の恥だからな。俺は高卒だけど、妹は高校だけじゃなくて、大学まで行かせる。そのためにも俺がしっかり稼がないと……」
シンがまた大人の表情になって言う。
「受験生の妹さんに、料理なんか作ってもらったら悪いですよ。気を
「あいつ、一度言い出したら、絶対聞かないから……」
智代がトレーにビールの大瓶とグラス二個を載せて戻ってきた。ビール瓶はよく冷えて、水滴が浮いている。友代が栓を抜いて、まず俺に、それからシンに注いだ。
「智代ちゃん、受験生なんでしょ。俺のことはいいから、勉強しててよ」
智代は笑っているだけで答えない。すぐにキッチンに戻る。シンが、ほらね、という顔で俺を見る。妹が自慢でしようがないのだ。キッチンから調理の音が聞こえはじめた。
「ま、とりあえず、乾杯!」
シンがグラスを合わせてきた。俺も応ずる。一気に飲み干した。壮快な刺激がのどに心地よい。俺は未成年だが、ビールなどアルコールのうちに入らない。ふだんから飲み慣れていた。すぐにシンが注ぎ足してくれる。
「いい飲みっぷりだね。しかし、こうして明るいところであらためて見ると、アキラ、いい男だね。色が白くて、肌がきれいで、目鼻立ちも整ってるし。体も筋肉がついて、肩幅が広くて、たくましいし。鍛えてんの? ああ、そうだ、中国拳法やっているんだったね」
俺が歌舞伎町でスタンガンを使って新宿署の刑事を気絶させたとき、中国拳法の技を使ったと言ってシンをごまかしたのだった。
「そういえば俺を捕まえようとしたあの刑事、どうなったのかな? ニュースでやっているかな?」
シンがリモコンでテレビのスイッチを入れた。