033 おまえのせいで大変なことに
文字数 1,517文字
「最初はみんな、そう言うんだ」
男は腕をつかんで、俺を引き止めた。
「なにごとも経験だよ」
くどい。
「本当に興味ないんですよ」
「ははあ、怖いんだな。怖いことはないよ。ちょっと冒険してみるだけさ。今まで知らなかった新しい世界が広がってくるよ」
俺がドラッグを怖がる? 何を言っているのだ、この男は。無知というのは恐ろしい。肉親をこの手で殺し、スタンガンで交番から拳銃を強奪したこの俺が、ドラッグを怖がる? 俺を挑発してドラッグを売りつける気だな。その手には乗らないぞ。
「最初だから安くしておくよ。普通だったら10錠入りシートで3万円なんだけど、今日は2万5000円でいいよ」
しつこい男だ。俺は閉口した。そのときだ。横から出てきた頑丈な手が、ドラッグ売人の腕をいきなりつかんだ。
見ると、さきほど街灯の下でスポーツ新聞を読んでいたリストラ・サラリーマン風だ。男はスーツの内ポケットから手帳を出して、俺たちに示した。警察手帳だった。縦開きのバッジホルダー式で、上半分には警察官の証票が、下半分には警察のエンブレムである記章が収められていた。
「新宿署の刑事課・保安係の者だ。ドラッグ販売の現行犯で逮捕する」
まずいことになった。リストラ・サラリーマン風は、刑事だったのだ。刑事はドラッグ売人に手錠をかけた。一瞬の出来事だった。
俺の地元警察とは所轄が異なるとはいえ、同じ警視庁である以上、新宿署も肉親殺しの高校三年生については、間接的に捜査協力しているはずである。大久保一丁目の交番を襲撃した時点では、まだ何の手配体制も整っていなかったが、あれから数時間が経過している。いくら警察が無能とはいえ、顔写真を含め、俺に関するデータはすでに共有されているだろう。
さいわい刑事はドラッグ売人のほうに気を取られて、俺の素性にはまだ気づいていない。俺は黒のモノグラムハットを目深にかぶっているし、周囲が暗いのも有利だ。今のうちに早々に立ち去るにかぎる。
「それじゃあ、俺はこれで」
俺は刑事に会釈して、歩きだした。
「ちょっと、君。どこに行くんだ。君にも一緒に来てもらうよ」
「いや、俺はただの通りすがりです。ドラッグを買おうとしたわけではありません。その人が無理やり売りつけようとしただけで……」
「見ていたから分かっている。君には善良な市民として、捜査に協力してもらいたいのだ。証人になってもらいたい」
「いや、でも時間も遅いし、もう帰らないと……」
署に同行させられて明るい場所でまじまじと顔を見られては、いくら間抜けな警察でも、俺の素性に気づくだろう。しかも、俺のリュックには拳銃があるのだ。ここで捕らえられては、計画はすべて水の泡になってしまう。
「なに、今日は君の身元を確認して、二、三質問に答えてもらうだけだ。迷惑はかけないよ。くわしい話は後日、改めてということで……。なんなら、帰りは署の車で君の家まで送ってもいい」
身元など確認されてたまるか。署の車で家まで送ってもらうなど、言語道断である。俺が手にかけた肉親の遺体が発見されて、警察が押しかけた家だ。現在も厳重な監視下にあることだろう。
「いや、今日はちょっと忙しいんで……」
「そんなこと言って、さっきまで道端に座って、ぼんやりしていたじゃないか!」
刑事の口調がきつくなった。まっすぐ俺の顔を見つめている。
まずい。露骨に拒絶しすぎたか。刑事の勘がはたらいて、俺に不審感をいだきはじめたようだ。これは覚悟を決めるしかない。ドラッグ売人にからまれたせいで、大変なことになった。俺はジャケットのポケットの上から、スタンガンの感触を確かめた。